103 戦い敗れて
学年末考査が終わり、卒業式が終わると、高校生にとって3学期は消化試合だ。百葉高校の入試は、ほとんどがエスカレーターでの進学だし、本校から転校してくる高校生もいなかった。先生方も、入試業務に追われることもなく、次の年度の準備に専念できる。
しかし、田邊先生はバドミントン部の顧問なので、全国大会の引率業務で忙しかった。千葉県代表の個人戦の選手として、全国大会に出場するのは菱巻銀河で、付き人として浦瀬鯨人がついていく。鯨人は、転校して半年が経過していないので、今回は大会に出場することは出来ない。
バドミントンのルールもよく知らない田邊先生としては、蒔絵も連れて行きたかったが、「妊娠中で試合に出られない」などと、好奇の目で見られる可能性も考えて、置いていくことにした。
銀河としては、個人でも優勝する力があることを示したかったが、ダブルスに全振りした練習をしているので、思ったような成績は出せなかった。
それでも、表彰台に上がれたのは御の字だと、田邊先生は思ったが、銀河は帰りの電車ではむっつりと考え込んで一言も話さなかった。
「銀河、相手が悪かったよ。あいつ、もう実業団への就職が決まって、毎日練習に明け暮れているんだから・・・」
鯨人の慰めに返事もせず、銀河はiPadで、自分の試合のビデオを見続けている。
鯨人は間が持てなくなって、田邊先生に話しかけた。
「そう言えば、田邊先生、学年末の成績はもう出ているんですか?」
田邊先生もiPadで、仕事をしながら、鯨人の質問に答えた。
「勿論です。通知表ももう出来ていますから、皆さんにはこれ以上休まないでいただきたいですね」
終業式まで後、1週間もあるのに通信簿を作るなんて、田邊先生は大胆である。
「銀河さんはいつもどおり学年1番ですよ」
「すごいな、銀河。文武両道だな」
銀河は相変わらずそれには答えなかった。田邊先生は、その後の情報も気安く流してくれた。
「蒔絵さんは2位、航平さんが3位ですね。鯨人さんの順位も知りたいですか?」
「いえ、結構です」
鯨人の高校は、百葉高校よりずっと進度が遅かったので、授業に追いつくのに必死で、赤点を取らなかっただけでも、自分で自分を褒めたい気分だった。
「蒔絵も2位に返り咲くなんてすごいですね。あんなに長い間、悪阻で苦しんでいたのに」
銀河が蒔絵の話には反応した。
「吐きながらも、毎晩3時間以上勉強していたから・・・」
田邊先生は、iPadでまた別のシートを開いて、もう一つの仕事を始めた。
「40人の中での順位は、母数が少なすぎますから気にしなくていいですよ。特に転校生は、1学期の成績が、本校での成績ではありませんから比較になりません」
それを聞いて、鯨人はほっとした。
急に銀河が顔を上げた。
「『母数が少ない』のに3位って、まずいよな」
確かに、今回の大会には富士山の噴火や首都圏直下地震の関係で、何校も有力校の選手が参加していなかった。銀河は、そのレベルが低い中でも優勝できなかったことを問題視しているのだ。
「やっぱり、春の大会から俺が前衛でいいか?」
「いや、前から俺がそう提案していただろう?」
「今から、間に合うかな?」
「大丈夫、俺はずっと銀河の後ろから、銀河の動きを見てイメージトレーニングしていたから」
「流石、全国を制覇した男は違うね」
「未来TECにバドミントンの実業団チームを作ってもらえないかな?」
「蒔絵も入れるなら、ALL百葉村チームだな」
「鯨人さん。どちらにしても勉強はしないといけませんよ」
「田邊先生、明日は体育館使えますか?練習をしたいんですが」
鯨人は、早速銀河とペアの練習をしたかったが、その希望は叶えられなかった。
「残念ですが、明日は百葉村を挙げて、『未来TEC展示会』をするので、体育館と学食を未来TECに貸し出します。私も、明日は妻が仕事なので、1日娘と過ごします」
「鯨人、悪いな。俺も、明日は朝5時から、航平と一緒に抽選の列に並ぶんだ」
「何の抽選だよ」
銀河はiPadを見せながら、子供のような笑顔で答えた。
「ジャーン。百葉LRTのトミカ。限定100個の抽選が明日あるんだ。社員にも村民にも優先権はない。朝から並んで、抽選券をもらって、昼の抽選会に掛ける!」
鯨人は、銀河のトミカ愛を知っていた。こうなった銀河は止まらない。
「見ろよ。内側のカーテンまで、ちゃんとついているんだ。そして、なんと2両編成すべてを再現していて、抽選に当たると、ここに名前を刻印して貰うんだ」
田邊先生もiPadを覗き込んだ。
「考えましたね。転売されないようになっているんですね」
「そうなんです。シリアルNoと名前が紐付けされて、当たった人の記録が、百葉LRT社に残されるんです」
「徹底していますね」
「そうなんです。家族で複数は当たらないんです。俺の場合は蒔絵に並んで貰えば、チャンスは2回に増えるんですけれど・・・」
「駄目だよ。蒔絵は妊婦なんだから」
「勿論、並ばせたりしないよ。それに、明日は更紗についていて貰って、蒔絵が人混みを出歩かないように監視して貰うんだ」
「わかる。蒔絵は物珍しさでふらふら歩き回りそうだよね」
田邊先生が少し心配そうな顔をした。
「でもね。銀河さん。あまり、我慢させすぎるといけませんよ。マタニティーブルーになると大変ですよ」
田邊先生の言葉に、いやに実感がこもっている。
「はい。明日は、更紗の新しいアルバイトの打合せに、僕たちの部屋を貸すんで、蒔絵も少しは気が紛れるかと」
「え?アルバイトに打合せっているのか?」
「何か『どくも』とか言うやつらしいんだけれど」
姉の鮎子が女性ファッション誌の愛読者なので、鯨人がすぐさま答えをくれた。
「それって、読者モデルの省略だろう?更紗さん、綺麗だもんな。でも、大学は松本だろう?読モの撮影ってどこでするんだ?」
「撮影は長野県内でするみたい。なんか、更紗が載る雑誌って、経済誌なんだって。18歳が成年になったじゃないか。だから、高校生、大学生に経済を身近に感じて欲しいって言うんで、新しい雑誌を創刊するんだ。だから、綺麗だけれど、飾り立てていない女性モデルがいるっていうんで、更紗にオファーが来たみたい」
「確かに、更紗って、長い髪を一つにまとめて、すっぴんでも綺麗だよな。それに、いつも白シャツにスキニージーンズで、これがまた、格好いいんだよな」
鯨人は、蒔絵のファンだったのでは?
田邊先生が、首を捻った。
「それを紹介した人って、鈴音先輩ですか?」
「よく分かりましたね。鈴音姉ちゃんのカメラマンの知り合いが、話を持ってきてくれたんですよ」
「その人は、蒔絵ちゃんのことも知っていますか?」
「はい。僕らの写真を撮って貰ったんで」
鯨人の嗅覚は鋭かった。
「おいおい。銀河達の写真って・・・」
「まあ、そこは突っ込むなよ」
田邊先生は、眉をひそめた。
「読者モデルって、蒔絵さんも入るんですか?」
「いいえ」
「でも、蒔絵さんを見たら、『姉妹でモデルをしませんか』って話になりませんか?」
「だめでしょ。蒔絵はそろそろ体形が変りますよ」
田邊先生はこれ以上、話を展開させなかったが、後日、その懸念は的中するのだった。
なかなか、未来TEC展示会が始まりませんね。