101 里帆のお願い
2月になると、蒔絵の悪阻は治まり、食事も喉を通るようになった。今まで蒔絵に遠慮して、一緒に食事をできなかった仲間が、また昼休みに集まるようになった。メンバーは、クラスが合同クラスになっても、変らなかった。
女子は蒔絵、里帆、火狩。男子は銀河、翔太郎、航平、ジェームズに鯨人。蒔絵は悪阻がなくなれば、面倒見がいい普通の生徒だから、元特進クラスの男子達とも、少しずつ打ち解けてきた。そして、里帆と火狩が一緒にいるのを見て、自然と彼らも、火狩が女性だという事実も受け入れるようになってきた。
「銀河の作る弁当は色々なものが入っていてすごいね。アメリカの弁当って、林檎と菓子パンくらいしかないから、芸術的すぎて・・」
ジェームズが感嘆した。
「アメリカの弁当って、カロリー半端ないな。あのピーナツバターとか甘過ぎだよ」
翔太郎にジェームズが反論した。
「弁当の後、調理パンやラーメン食べる方がカロリーは高い」
里帆が、蒔絵の弁当を再度見た。
「蒔絵ちゃんは、学食には行かないの?」
「へへ。最近、食べ悪阻っていうのか。何か食べていないとムカムカするんだ。だから、食べ過ぎを予防するために、昼は銀河の弁当のみにしているの。銀河のお母さんにメニューのアドバイスも貰って、栄養バランスのいい弁当にしてくれているんだ」
「一時期は頬がこけていたもんね」
ジェームズは日本語が上達して本来のおしゃべりに戻ったようだ。
「蒔絵、銀河はあの弁当で足りるのか?」
「足りないとは思うけれど、大会も近いし、減量時期だからちょうどいいんじゃない?太っていると動きが鈍るでしょ?」
「鯨人とダブルス組んだんだよね」
「銀河が後衛だから、動きが激しいんだよ。太っていると膝に来るし」
翔太郎が首を傾げた。
「でも、銀河が前衛のほうがいいんじゃないか?銀河の方が背が高いだろう?」
「出産後、私とダブルス組むためには、後衛で居続けたいんだって。まあ、男子2人の場合は、サイドバイサイドで動く方が多いから、そこまで拘らなくていいんだけれどね」
火狩は、銀河の受験が気になった。
「蒔絵ちゃんは、出産後また、ダブルス組むって言っても、その頃は銀河君の入試が始まるんだろう」
「うちら、定期考査の時も、練習続けるタイプだからね」
蒔絵は涼しい顔だ。
「だって、その頃は子育てもしているだろう?」
それには里帆も翔太郎も、航平も首を振った。
「火狩ちゃん。蒔絵ちゃん達は、銀河君のお姉さんの、双子の赤ちゃんを1学期間、学校で育てていたんだよ。その頃は、保育園もなかったけれど、体育館に双子を連れてきて、練習していたから、経験済みなの」
9月に転校してきた3人は、開いた口が塞がらなかった。
「だから、保育園がある今は、出産後も『無問題』さ」
翔太郎の言葉に、ジェームズは笑い出した。
「蒔絵、2月の連休には、銀河達は強化合宿に行くんだろう?」
「うん。今までは私の悪阻がひどかったから、遠征は断っていたけれど、今回は私が『是非行ってきて』って言ったんだ」
昼食後廊下で、里帆が蒔絵に話しかけた。
「ねえ、銀河が合宿の時、遊びに行っていい?」
「いいよ。泊まってもいいよ」
銀河と鯨人が、2泊3日の強化合宿に行っている間、里帆は約束どおり、蒔絵達のマンションに遊びに来た。
「友達をこの部屋に入れるの、初めてだ。どうぞ、どうぞ」
部屋に入った里帆に、蒔絵は部屋を紹介して回った。
「ここがベッドで、それぞれの勉強部屋がこことここ。銀河の部屋は鍵がかかっているよ」
「蒔絵ちゃんも部屋に入れて貰えないの?」
「基本、私は入らないね。会社の重要な仕事していることもあるし、トミカで遊んでいることもあるから」
「蒔絵ちゃんの部屋は鍵はかかっていないの?」
「私の部屋っていっても今は、物置きみたいなものだから。多分将来は子供部屋になるんじゃない?私は居間で勉強するタイプだから」
里帆は居間を見回したが、教科書も問題集も見当たらなかった。銀河同様、教科書も問題集もiPadに入れてあるので、ものの少ない居間だった。
あるのは壁に飾られた、フォトウエディングの写真だけだった。
「うわー。結婚式挙げたの?」
「ううん。写真だけ撮ったの」
「いいなぁー。蒔絵ちゃん、こうしていると高校生じゃないみたい。胸も背中もかなり出していて、色っぽいね。チャイナドレスも女優さんみたい。銀河君も、大人顔だから、髪を上げると格好いいね」
里帆がスマホで写真を撮ろうとすると、蒔絵がそれを止めた。
「撮影は禁止!」
「どうして?」
「写真はどんどん流れていって、最後はSNSで曝されるから。この写真は、うちらの母親と鈴音お姉ちゃんしか、持っていないんだ」
「そうだね。蒔絵ちゃんは、前にもSNSで嫌な思いをしたもんね。美しいことは罪だね」
「何言っているの。高校生で妊娠するなんて、バッシングされるに決まっているじゃない」
何も気にしていないようで、蒔絵も、16歳で妊娠したことは、当然、好奇の目に曝されると自覚しているようだ。
蒔絵は、冷蔵庫からプリンを出して、温かいミルクを入れた。
「ご免ね。今、珈琲の匂いも、カフェイン入りの飲み物も駄目なんだ」
蒔絵と里帆は、居間のテーブルに座ってとりとめもないおしゃべりを始めた。
「いいなぁ。私も赤ちゃん欲しいな」
「里帆ちゃん、甲次郎君は15歳だから駄目だからね」
里帆は文化祭の頃、昇太郎の弟で、中学2年の甲次郎と付き合っていた。
「嫌だ。甲次郎君とはもうずっと前に終わったよ」
「じゃあ、村役場の人?銀河が『村役場の若い人と里帆が一緒にいる』って言っていたけれど」
「え?見られていたの?誤解しちゃった?まあ、優しい人だからね。ちょっといいとは思うけれど」
蒔絵は食べ終わったプリンを台所に片付けた後、テーブルに戻ってきた。
「私が言うのも何だけれど、里帆ちゃん。18歳になるまでHするのは駄目だよ。特に相手の年が離れていたら、相手が罰せられるからね」
里帆は少し口を尖らせて答えた。
「そのくらい私も調べてあるよ。だからって、クラスメートは子供っぽいし・・・」
言外に里帆は、「銀河は大人で羨ましい」と言っている。
蒔絵は以前から、里帆の銀河に対する気持ちは知っていたが、無視をしていた。
口に出してどうにかなるものではなかったからだ。
困った顔をする蒔絵に向かって里帆は、笑顔で向き合った。
「今日の本題はそう言うことじゃないから、蒔絵ちゃんは、そんな困った顔をしないで」
「本題って?」
「ずばり。蒔絵に私の絵の、ヌードモデルをして欲しい」
「え?私?嫌だよぉ。写真と同じで、絶対に嫌」
「話は最後まで聞いてね。私、双子ちゃんのスケッチをしていたでしょ?どんどん大きくなる赤ちゃんを描いているうちに、この瞬間は、一生で1度なんだって思ったんだ」
「まあね。歩き始めた姿も可愛いけれど、歯が生えていない頃の寝姿なんて、永遠に時を止めたいって思うよね」
「でしょ、でしょ?でね。私、蒔絵ちゃんの裸って、修学旅行のお風呂でしか見ていないんだけれど、あんなに均整の取れた綺麗な体って、見たことないんだ。勿論、妊婦の姿も記録に残したいんだけれど、写真じゃ残せない。私の目を通した蒔絵ちゃんの姿を残したいんだ」
蒔絵は、少し椅子を後ろに下げて、里帆から距離を取った。
「あの、記録って、何枚もスケッチしたいの?」
「うーんとね。今の姿でしょ?それから、6ヶ月でお腹が少しで始めた頃と、パンパンにお腹が膨れた臨月。そして、出産直後の4枚は描きたいな」
「それじゃ、妊婦の観察日記だよ。私に何のメリットがないだけじゃなくて、これを聞いたら、銀河が烈火のごとく怒るよ」
里帆は蒔絵の抵抗に全く耳を貸さなかった。
「綺麗な蒔絵ちゃんのスケッチは銀河君にあげるよ。それなら怒らないでしょ?」
蒔絵は芥川龍之介の「地獄変」を思い出した。絵仏師良秀が、最愛の娘を火の燃える屏風のモデルにしてしまった話だ。里帆の執着が、今、怖いと思った。
「じゃあね。3時間だけ描かせて頂戴。絵は、このマンションから持ち出さないし、写真も撮らない。その絵を見て、銀河君が許してくれたら、その後の3枚も描かせてくれる?」
「いや、銀河がいいって言うわけがないし、そもそも、私の身体を描く許可を銀河に取るっておかしい。里帆ちゃんは絵を描いたらどうしたいの?文化祭に展示するの?」
「まさか。ただ、描きたいの。蒔絵ちゃんの一番美しい姿を・・・」
双子の子守をして貰った恩もあるし、幼なじみでもある里帆の願いなので、それをかなえて上げたいのはやまやまだが、蒔絵には一線を越える勇気が出なかった。
「ヌードって言っても、ちゃんと体を隠す布も持ってきたんだ」
里帆は鞄から大きなスケッチブックと、組み立て式のイーゼル。それにシフォンの布を取りだした。
押しに弱い蒔絵は、里帆の言うがまま、セーターを脱ぎ、ジャンパースカートを脱ぎ、下着を外してしまった。
「3時間だけだよ」
蒔絵の片方の肩から垂らしたシフォンの布は、蒔絵の体をしっかり隠しているが、蒔絵の体の凹凸は布の上からはっきり透けて見えた。
白い壁の前に蒔絵は、片足を半歩前に出してすっと立った。その姿を里帆は、念入りにスケッチした。
1時間後、里帆はできあがったデッサンを、一歩足を下げて眺めた。
「どう?綺麗でしょ?」
蒔絵はなんとも言えなかった。毎日見ている自分の体なので、特に感想はない。
「次に横側から描かせて」
蒔絵は今度は、窓の外を見つめるように姿勢を変えた。里帆は、少しシフォンの布をずらして、蒔絵の上向きの臀部と里帆側の胸がよく見えるようにした。蒔絵の長い指は、シフォンの布を摘まんで、落ちないように支えていた。
窓から指す光線が少し陰った。気がつくと正午を過ぎていた。そして、時間が3時間を過ぎたというタイマーのベルがけたたましく鳴った。
「おーしまい。お昼の時間だよ」
蒔絵はそそくさと服を着始めた。
「あー。着色したい」
「駄目。スケッチブック貸して。あんまりまじまじと見ないで。悪いけれど、お家へ持ち帰らないように、切り取るよ」
蒔絵は、里帆のスケッチを2枚とも乱暴に破り取った。そして、銀河の部屋に2枚のスケッチを投げ込んで、鍵を掛けてしまった。
「お昼は何を食べたい?」
放心状態から解放された里帆は、我に返った。
「お弁当作ってきたんだ。一緒に食べよう」
里帆が作ってきた弁当は、栄養価も考えた美しい彩りだった。甲次郎に作っていた時よりも腕が上がったようだ。
「里帆ちゃん。本当におかしいよ。大丈夫」
「うん。蒔絵ちゃんの体って、本当に日本人離れしているよね。ぼんきゅっぼんって言うけれど、ウエストの細さといい、バストとヒップが上を向いていることといい、外人体系だよね。更紗ちゃんもそうなの?」
「うーん。私より少し痩せているけれど、骨格は同じ感じかな?」
「4ヶ月も運動していないのに、どうしてそんな体なの?」
「えー?運動はしているよ。お腹が張らない程度に走っているし、お腹に刺激が行かない部位の筋トレはしている。腕とか見て」
そう言って、上腕二頭筋の力こぶを見せた。
「里帆ちゃんは、なんで私の裸になんか拘るの?」
「こんなに美しいものが、妊娠によって失われるなんて、惜しいと思わない?」
「加齢によっても体なんて変化するよ。若い時の美しさなんて、異性をGETするための一瞬の輝きなんだから、何時までもそれに拘っていてもしょうがないよ」
「蒔絵ちゃんは、化粧も日焼け止めもあんまりしないもんね」
「私はうわべの若さより、経験や知性の方が美しいと思うからね」
蒔絵は窓の外を見ながら話をしているが、窓からの光を受けて漆黒の瞳が輝いていた。その瞳に影を落とす長い睫毛は、ため息が出るほど長かった。
「蒔絵ちゃんは綺麗だからそう考えるんじゃない?銀河君だって、蒔絵ちゃんが綺麗だから選んだんでしょ?」
ミルクが入ったカップを抱える蒔絵の指を見て、里帆はこの長く美しい指が、銀河の体を這っていく様を想像してしまった。
「そうかな?銀河は、私と一緒にいるのが楽だから私を選んだんじゃない?」
「楽ってどういうこと?よく分からないよ」
「ん~。無理せず、自分らしくいられるってことかな」
里帆には、蒔絵のために頑張っている銀河を、「無理していない」と言い張る蒔絵が理解できなかった。
「里帆ちゃんはさ。すごいイケメンと結婚して、その人が太ったり禿げたりしたら、嫌いになる?」
「そんなことないよ。多分」
「じゃあ、どうなったら嫌いになる?」
「えっと。浮気したり、家族をないがしろにしたり、私を大切にしなかったりしたら、嫌いになるかな」
「だったら、外見は気にせず、里帆のことを一生大切にしてくれる人のほうがいいじゃない」
里帆の周りにもそういう男がいるが、若いうちは、気がつかないんだよね。
当の銀河は合宿から帰って、里帆のスケッチを見て、激怒した。
「お人好しも、いい加減にしろ!何でもハイハイ言っていると、変なヤツにつかまって、ポルノビデオに出演する羽目になるぞ」
それから里帆は、銀河と口を利いてもらえなくなり、自宅への出入りも禁止された。
そして、2枚のスケッチは、銀河の机の中に大切にしまい込まれた。
里帆、更紗、佳美の3人の恋模様にも、今後ご期待下さい。今週は旅に出かけますので、来週からまた、お楽しみ下さい。