02. ハイジャック
「あ、あっぶねぇえええ!」
古びた木製のドアに背を預け、乱れた鼓動を整える。
まさに紙一重。目の前の光景に俺は生きた心地がしなかった。
夕飯の後、急な腹痛に苛まれて小一時間トイレにこもっていたのだが、戻ってみればメインダイニングは阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
このドアを開かなくて本当によかった。
濡れた手でノブを握るのを嫌ったことが僥倖した。
迂闊に渦中へ飛び込んでいたら、きっと今頃蜂の巣にされていたことだろう。
……しかし、えらいことになったぞ。
今一度、ドアの小窓から室内をそっと覗う。
マホガニーの壁と深紅の絨毯。天井に連なるシャンデリアには暖かな光が灯され、部屋全体を琥珀色で彩り飾る。
そんな優雅な内装とは相反し、床には人質の生徒たちが跪き、その周囲を武装した空賊が取り囲んでいる。
ジャスパーとかいう金髪の男は依然として熱い演説を続けており、声がデカ過ぎるせいで俺がいる廊下まで丸聞こえだった。内容は相変わらず「空賊王になる!」とかそんな感じだ。
「これってハイジャックってやつなのでは?」
格好良く飛び込んで制圧といきたいところだが生憎こちらは素人だ。あっさり殺されるのが目に見えているので、もう少し現実的な解決方法を探りたい。
さて、どうしたものか。
悶々と悩んでいたところ、背後からコツンコツンと軽やかな足音が聞こえてきた。
「……トイレには俺だけだったよな?」
隠れる場所も余裕もない。
俺は息を押し殺し、近付いてくる音を待ち伏せた。
「ふんふふんふふーん……あれっ?」
「あ」
鼻歌と共に角から現れた人影と、うっかり視線が重なった。
見知った仲ではないけれど、お揃いのコバルトブルーの制服が互いの素性を補完し合う。
相手は女の子だった。
アプリコットのミディアムヘアと柔和な顔立ち。
印象的な風貌ではない反面、優しそうで親しみやすい雰囲気をしている。
「あ、あはは。……ど、どうもー」
彼女は気まずそうな会釈をよこし、身を小さくして真横を通り過ぎようとする。
俺は慌てて道を塞いだ。
「わぁっ?」
「ごめん。待ってくれ。今はちょっと」
そうだな、なんて説明したらいいか……。
とにかく自分の眼で見てもらった方が早い。俺は親指でドアの向こうを指し示し、窓越しに部屋の中を確認するよう促した。
「……??」
女の子は怪訝そうに室内を覗き込み――やがて声にならない悲鳴を上げた。
「なななななぁ!!」
振り返った唇に慌てて人差し指を押し付ける。
「シーッ。静かにっ」
「で、でもあのっ!」
身振り手振りで状況を表現する彼女に、俺は小声で耳打ちした。
「俺も今までトイレにいたんだ。だけど、ね? 見ただろ?」
「見ました、けど……」
彼女はもう一度背伸びで部屋の様子を窺って、それから見間違いではないという事実にがっくりと肩を落とす。
「ふえぇ。私たち、入学初日に強盗と相乗りですか?」
「シーサーなんとかって空賊らしいよ」
「空賊さん、乗客の点呼を取ってるご様子でした」
となると俺たちの不在に気付かれるのも時間の問題か。
「どうしましょう。まずは大人の方に知らせるのがいいのかなぁ?」
「ナイスアイデア。でもちょっと難しいかも」
こんな時こそ乗務員を頼りたいところだが、船舶の構造がそれを困難とさせていた。
「占拠されているのは船のメインダイニング。この部屋は全ての廊下と繋がるハブになっているから、ここを経由しないと操縦室や機関室へは辿り着けないんだ」
「そんなぁ……」
彼女はへろへろと力なく壁にもたれ、かと思えばすぐになにかを思い出して姿勢を正した。
「あ、そういえば!」
ぽんと手を叩き、さっき来た通路を指差す。
「トイレの向こうに下り階段があったはずだよ」
「階段?」
記憶を辿る。確か、下の階は貨物室だったか。
「そこから別の部屋に繋がるルートがあったりしないかな?」
「なるほど」
確認してみる価値はありそうだ。
少なくともここで立ち竦んでいても、状況が好転することはないだろう。
「よし。行ってみよう」
俺たちは一縷の望みをかけて、足音を殺しながら階段へと向かった。
方角としては船尾を目指して歩く形だ。
右手には男子トイレ、左手には女子トイレ、進む先には絨毯張りの一本道が続く。
「あ、あのぉ?」
途中、女の子は上目遣いでこちらを覗き込んだ。
「こんな時に訊くのもどうかと思うんだけど、お名前、教えてもらってもいい?」
そういえば自己紹介がまだだった。
「私、ヒヨノって言います。あなたは?」
「俺はコトラ。よろしく」
「コトラくんだね」
彼女はうんうんと頷いてみせる。
「コトラくんっ」
ヒヨノはにっこりと微笑み、照れくさそうに髪の毛をいじった。
「えへへ……呼んでみただけです。でもちゃんと憶えたよ?」
あ、あざとい! でも可愛いから許す!
それからしばらく進むと、廊下の突き当りに階段を見つけた。
「ここだね」
「暗いな。照明の備え付けも無しか」
階段は螺旋状で、どこまで続いているのか目視できない設計だった。
「だ、大丈夫かなぁ?」
「さてな。敵の待ち伏せだけは勘弁して欲しいけどね」
平衡感覚を失わないように指先で壁を撫でながら、一歩ずつ慎重に下りていく。
ステップの建付けが悪いのか、足を踏み出すたびにギギッと軋んだ音色を奏で、俺の不安を掻き立てた。
下へ進むにつれ、背後からの明かりが届かなくなってくる。
ふと、どこからか漂う古書にも似た匂いが鼻をくすぐった。
「……あ、木の香り」
と、後ろでヒヨノが呟く。
木とは言っても森林の青々とした芳香ではなく、加工された木材を彷彿とさせる匂いだ。
少しずつ芳香が濃くなってくる。導かれるように歩みを速めると、香りの源はもうすぐ目の前まで迫っているように思えた。
最後の一段。踵が床に降り立つ。
「着いた」
俺たちを待ち構えていたのは薄暗い空間だった。
ひんやりとした冷気が頬を掠める。暗闇に目を凝らせば、そこにはいくつもの木箱が整然と積み重ねられていた。
貨物室の名の通り、部屋最奥には搬入用の巨大なフラップ扉が構えている。しかしお目当ての迂回できそうな通路については、残念ながら見当たらないようだ。
「うーん。行き止まりかぁ」
「コトラくん、この木箱!」
ヒヨノは自分の声に驚いて口に手をやった。
「ご、ごめんなさい、おっきい声出しちゃって」
「どうした?」
「ラベルに"竜の卵"って書いてあったから、つい」
積み上げられた木箱は大きさも形も大小様々だった。
似たようなサイズの箱をロープで連結して床にペグで固定してある。蓋には釘が打たれていて、中身を覗くことは叶わなかった。
「空賊の目的はこれだな」
「でも卵だけ盗む方が手っ取り早いんじゃない?」
「荷物が固定されてることを知ってたんだと思う。だから、船ごと乗っ取った」
「そっかぁ。確かにその方が合理的だもんね」
この時、俺たちは完全に油断していた。
山積みの卵に夢中になるあまり、階段を駆け下りる足音に気付いていなかった。