第1話 悪い夢
これは悪い夢だ。そう自分に言い聞かせたかった。
「どうか、幸せになって」
目の前の少女は微笑みながら言った。
その胸元には剣が深く突き刺さっている。彼女は壁にもたれるようにしていたが、立っていられずに座り込んだ。
領地の中で一番聖なる場所と言われている精霊堂。そこにはいくつもの像が立ち並んでいた。像たちに見られている。
「シャルロット、君は……」
問いかけに、シャルロットは返事をしない。荒く息をしながら、こちらをまっすぐ見ていた。
「あなたに殺されてよかった」
シャルロットは無理やり笑みを浮かべて、血に濡れた手をこちらに伸ばした。その手を取ると、彼女は目を細める。
「幸せになれなくて、ごめんね。約束を破って、ごめんね」
大きな瞳からボロボロと涙を流し、彼女は謝った。手の力が抜けていく。ゆっくりと目は閉じていった。
「……シャルロット」
自分はただ周りに流され、彼女を救うことができなかった。自分は弱くて醜い。……もう後悔しても、意味がないというのに。
シャルロット、こんな自分を許してくれるというのなら、破ってしまった約束を、もう一度結ばせてほしい。
……必ず、君を幸せする。そう君に誓う。
表紙:滝沢ユーイ様
「シャルロット。今日は君の婚約者が来る日だ」
シャルロットの父親は娘にそう言った。自分に言われたのだと気づくのが遅れて、あいまいな返事をする。
「……そうなんですか」
それを聞いた父親は仕方なさそうに眉を下げた。
「嫁入りするのが決まれば、君が後継者から外れることが決まってしまう。それが気に入らないのはわかる。だが、これはシャルロットのための婚約なんだよ」
シャルロットと呼ばれた少女は、ぐっと息を飲む。
「……少し、一人にしてください」
そう言って、席を立つ。後ろからは疲れたような溜息が聞こえた。
屋敷の外を歩けば、大きな庭が広がっていた。ここはシャルロットが育った場所。自然が豊かで、地の大精霊の力が満ちた土地だ。……知らないはずなのに、よく知っている景色に違和感を覚える。
屋敷の庭の隅にある小さな泉の側に辿り着いた。そっと腰を下ろし、泉に目を向ける。
水辺に映ったのは、淡い桃色の髪をした少女。白い肌に大きく少し凛々しい瞳がこちらを見ている。その子にそっと声をかける。
「あなたはシャルロットというのね」
水辺に映った彼女は悲しげに微笑んだ。
労働を知らない手。華やかで可愛らしい衣装。そのすべてが自分とは違うものだと感じてしまう。まるで別人……いや、別人になってしまったのだ。気づけばこの世界の住人になってしまっていた。『シャルロットになる前の自分』のことを思い出した。
名前は紫音。普通の女子大学生だった。大学を機に上京し、一人暮らしをしていた。大変だったけれど、充実した生活を送っていた。それなのに長期休みに入って、久しぶりに顔を出した家で……紫音は殺された。
どうして、殺されてしまったのだろうか。考えてもわからなかった。……ただ、あの子を幸せにすることができなかったことだけはよくわかった。
もう自分は紫音じゃない。水辺に手を入れると、シャルロットの顔が歪んだ。
シャルロット。その子は侯爵家の娘だった。一人娘だったが、弟が生まれたことで跡継ぎから外されてしまった可哀想な子。婚約も決まり、大好きだった領地から出ることが決まってしまった。それが新しい自分の人生だという。
こんな可哀想な子の人生を背負いたくなかった。
膝に顔をうずめる。スカートが濡れることをいとわなかった。
肩を震わせて泣く。そうしていると、カサリと草を踏む音がした。
「――どうしたの?」
声が耳に届いた。顔を上げると、シャルロットと同年代の男の子がいた。黒い髪に、深みのある赤い瞳をしている。こちらを見ると柔らかく微笑んだ。彼は隣に座る。
「……泣いているの」
「どうして泣いているの?」
穏やかな声だった。その声があまりにも優しかったので、思わず本音を漏らした。
「……この人生は私のものじゃない」
この人生はシャルロットのものだ。彼女のものだったはずだ。彼女の代わりにはなれない。自分は自分でしかないのだから。
「私はね、やりたいことがいっぱいあったんだよ」
大学生になって、アルバイトをいっぱいしたかった。友達とたくさん遊びたかった。いろんなことを勉強し、将来は何になろうかと友達と語りながら悩み、いつか好きな人と結婚して、家庭を作る。
そんな当たり前の日々を過ごしていけるんだと思っていた。
だが、紫音としての人生はあっけなく終わってしまった。それだけでなく、次は知らない人間の人生を背負わなければならない。
他人になってしまった瞬間、感じたのは驚き。そして怒り。
知らない世界の住人になってしまった。それだけでなく、他人の人生を背負わなければならなくなった。
シャルロットという子の人生はもう親によって決められている。自由はなく、ただ決められた道を進むだけの人生。しかも、他人の人生だ。受け入れられるはずがなかった。
「私は自分の人生を歩みたい……こんな、他人の人生は嫌なの」
叶うなら、自分の望む道を進みたい。ただそれだけだった。
「そうなんだね」
男の子は考え込むように下を向いた。そして赤い瞳をこちらに向ける。
「……でも、その人生を歩むのは君なんだろう?」
その言葉に首をかしげながらもうなずく。
「じゃあ、これから君のものにしよう」
「これから……?」
「そう。これからは君のものなんだから、好きなことをして、好きなように生きよう。……俺がそれを手伝ってあげる」
彼はそう言うとこちらに手を差し出した。剣ダコのついた大きな手だった。
「どんな状況でも、どんな立場でも。君は君らしくあるべきだ」
「……私らしく」
その言葉は不思議と自分の中でストンと落ちた。胸の中でじんわりと染みていく。
「私は私の人生を歩んでいいの?」
「もちろんだ」
シャルロットにならなきゃいけないと思っていた。他人を演じなければいけないと。けれど、違った。自分の好きな人生を歩んでいい。他人の人生じゃない。自分がシャルロットなんだから。
少女……シャルロットは顔を上げて、彼の手を取った。
「……ありがとう。すっきりした」
そう伝えると、彼は頬を緩めるようにして笑った。
……その笑顔がとても綺麗で、胸が落ち着かないような、そんな気持ちになった。
この日、紫音はシャルロットになった。
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表紙の画像は滝沢ユーイ様からいただきました。ありがとうございます!
毎日7:20 の定期公開となります。
最終話公開は 5月2日 となります。
しばらく更新が続きますが、お楽しみください!