1「ぼくのリスタート」
ぼくはフランケンシュタイン。
名前はなくて、体もなくて、そして心もありません。
右手を上げれば埃が落ちて、足を上げれば土が落ちます。
体の大部分を構成するのは、フランケンシュタインと名乗るとおり、死体です。
屍を繋ぎ合わせて生まれたぼくは、ある日忽然と動きだしました。
その場所は、もう忘れ去られた深い森の中で、ぼくは全ての記憶を失った状態で、目が覚め、意識をはっきりとさせたのです。
最初は何に対しても、違和感を抱きませんでした。
ただ無意識と知っていた感覚は一つだけあり。
それは、『呼吸』をすることだけだったのです。
ぼくは最初の数週間は、呼吸をただ繰り返していました。
思考するコツを掴むまで、ぼくは指してくる光をずっと眺め、肺を膨らませるだけの生活を送り、空虚な胸の寒さと、妙によく感じる体の痒さがあって、ぼくはそれに、ただただ触れているだけでした。
そこから思考することを覚えたのは少し後の事でした。
思考は、凄まじかった。元々、知能はそれなりにあったようで、ぼくは土から這い上がってからは二本足で生活しました。
ついにぼくは、移動を始めたのです。
……。
孤独が世界を覆って、まるで人が、自然を忘れてしまったかのような寂寥感が、フランケンシュタインの眼前には広がっていました。その森は、人に忘れられた結末だった。
とても、孤独に溢れていた山でした。季節の影響か、落ち葉が多く、葉を落とした黒い枝の痩せた木々らは、まるで怯えるような様子をみせていました。細い枝の隙間から通ってくる静かな日光は、フランケンシュタインの土臭い頭頂部を焼いて、ざくざくと進む傾斜の先には、空気に乗って水気が漂っていました。
フランケンシュタインは全裸でした。言うまでもありませんが、彼は男です。生まれたままの姿、とても文字通りで結構です。さて、彼の風貌について語りました。
世界を目に収め、歩き、空気を食べる。それら行動、見える景色、触る感触に対し、理解を示すたびに、フランケンシュタインは一つ。カケラを拾っていきました。
地を這っていくと、ふと足を湿った落ち葉に翻弄されて、終いには尻餅をついてしまいました。衝撃は、彼の脳まで揺らしてしまい。ただでさえ脆い体に、明らかな爪痕を残していきました。それは一つのカケラであって、そして人なら当たり前に持っていると、フランケンシュタインは直感的に理解しました。それは『痛覚』。痛みや苦しみを、初めて感じたのです。その頃になってやっと、フランケンシュタインは『自分が何かを忘れている』と気が付きました。でも、その違和感を抱えたままで、もちろん、彼にはそれを払拭できるほどの経験がない。だから彼は、諦めて歩き始めるしか、ありませんでした。
フランケンシュタインは歩くことをやめませんでした。聞くまでもなく、歩く事しか知らなかったからです。それに、歩くだけで一つ、また一つと彼はカケラを獲得していきました。
そしてフランケンシュタインはそのたびに、自然と口角が上がっていくような高揚を覚えていき、まさに気持ちが浮かれていたのです。…ただ、そんな感覚を表現できるほど、まだ彼は語彙を獲得してはいません、だからこそ、私が注釈を行いましょう。
呼吸を続け、歩みを続け、そして彼は数々のカケラを獲得していきました。記憶が呼び起こされる感覚が相次いでいて、彼もその生を、少し楽しんでいた。
生への好奇心が、いつの間にか芽生えていたのです。
だからこそ、次に獲得したカケラが、そのフランケンシュタインの初めての絶望となりました。
「…」
始めは水がぽつぽつと滴り落ちて、瞬間、劈くような音が背後から向かってきました。
訳も分からずぼくは足を進めて、
逃げよう逃げようと斜面を駆け下ろうと踏ん張ったのですが、
全く遅く、その音はやがて世界を包んで、そして。
僕は水浸しになってしまいました。
次々と、休む間もなく天から降り注ぐ水に、ぼくは戸惑いました。
とても震えるような寒さが全身を包んでいき、
重かった体が、更に重くなっていきました。
ふと、空が光りました。観測した事がない超常現象。
驚いたぼくは、逃げる事しか出来ませんでした。
息が上がっているのも無視して、とにもかくにも、前へ前へと走り続けたのです。
そうこうしていると、斜面でまた、思いっきり足を滑らせて、
「あ」とひらがなを口から吐くと。
ぼくは迷いなく、ただ真っ逆さまになって、自重の赴くままに転がりました。
まるで、世界が回転しているような、感覚。
全身に転々としていく痛みはついに、
体験した事のない領域へと届いていき、
ぼくは意識を、手放しそうになってしまいます。
でもそうなる前に、また衝撃が全身を驚かせました。
ガシャン。
という音と共に。世界の回転は乱暴に終わりました。
背に地を着けながら空を仰いでいると、水がひたひたとまだ降り注いでいて、無情な空に初めて憤りを覚えると共に、ぼくはぐったりとしながらも、首を傾げて、真下にあった、自分の体を見つめました。そこにあったのは、泥にまみれて汚らしい上半身と、ぼくの長い灰色の髪と似た色の――血でした。
ぼくの体は、見るに堪えないものになっていました。
目をつぶりたくなる惨状に、言葉が出ません。
足は砕け手は斜面に残されていました。
そして流れる。灰色の血。
ぼくはそれを、自分の血であると、知っているようでした。
それも、獲得といえるのでしょうが、
そんなことよりも、そんなことよりも、――意識の限界を、刻々と感じた。
ぼくは目を閉じました。
初めて、閉じてみた瞳に多少の感動を覚えながらも、ぼくは意識を、ついには手放しました。
それは、初めての『死』でした。
そこで。
ぼくは一つ。思い出しました。
感覚です。
ぼくはまた、それを獲得しました。
それはぼくにとって、後にかけがえのない物に変わっていく大事なカケラでしたし、また別の意味も含んでいたのでそれも言ってしまうと、それはその瞬間、ぼくにとって、一生付きまとう事が確定した。してしまった事なのでした。
それは正しく――『ぼくが人ではない』という真実に他ならなかったのです。
感覚的に捉え、そして本能で理解したそれに戸惑いました。
ぼくは何を感じているんだ?
まずまず『人』とは、なんだ。
人ではないとは、どういう事なのか。
そう、まるっきり分からなかったのです。なんせ、何も覚えてはいないのですから。
「…」
腕が動きました。足が動きました。
空は晴れていて、空気は湿っていて、そして何より、体が軽くなっていました。あの傷が何もかも嘘であったように無くなっていて、ぼくは力をこめて起き上がると。
するとふと軽くなった体に明らかな違和感を覚えて、その手を見てみると。
小さくなっていたのです。
そして、ぼくはどうやら『生き返った』ようなのでした。
ついに、ぼくは、一つ。
またふつふつと記憶を獲得しました。
それはずっと知らなくて、考え方すらままならなかった真実で、
そう、ぼくという怪物は。
いまハッキリと『自意識』を獲得したのです。
故にぼくは、忘れていた言葉を、初めて口に出す行動にでて、
空虚で乾いていたぼくという怪物は、
その時、正式に、はっきりと、覚醒を果たしたのでした。
フランケンシュタインはそこでやっと『自我』を見つけた。
そしてこれから、彼の長くも儚く、そしてちょっぴり寂しい人生のテープが、ついに巻かれ始めるのです。
さあ、開演です。
貴方は観客で、そして貴方だけが、彼を人として観測できる。
これは物語。たった一つの、怪物のお話なのです。
「…ぼくは、フランケンシュタインなんだ」
乾いた喉から吐き出た言葉にしては、まるで言い慣れたような、懐かしさを覚えていて。彼はもう一度、果てが見えない空を見つめて、息をする理由をふと、思い出したのだった。
何者でもなく、人でもなく、にしては、人の様な見た目をしている怪物は。
幼い手で目を擦って、また歩み始めたのだ。
さて、フランケンシュタインのリスタートが、始まりました。