跫音響く図書館
司祭の男の影が一人の学生を飲み飲んだ──それは瞬き一つの出来事で、なまじ目撃した者がいても、何が起きたかは分からなかっただろう。
結果として、その学生……生徒会長は糸が切れたようにふらりと膝をつく。その身体を支えたのは、いつのまにか現れたホスト仮装姿の学生だった。
「めちゃくちゃやるなあ」
すらっとぼけるように言って、わらわらと集まってくる、これまで生徒会長を尾行していた侵入者たちをぐるりと見回す。そして、胸ポケットから小さな紋章を出した。
それを見て、侵入者の一人がほっとしたように息をつく。
「学園内の協力者とは、君のことか」
アッシュブロンドの長い三つ編みの男子学生は、にこりと人好きのする笑みを浮かべる。
「そ。なんで、ここは俺が運ぶね? 合図したら布被せて。いかにも備品の運搬に見えるようにね」
「おお、さすが慣れてるな」
「おっちゃんたちが素人すぎ」
そして、気を失ったままの生徒会長を抱き上げる。白い手袋をはめたその手つきは、とても丁寧だった。
そのまま、彼らは人気のないところまで移動していく。そこは養護室に程近い渡り廊下だった。
「なあ、駐車場には遠回りじゃないか」
「こっちの方が誰にも見られないよ?」
呼び止められた三つ編みの学生は振り返ってにこりと笑う。底知れない笑み。
ついてきていた司祭以外の四人が、ぴたりと動きを止めた。そして次の瞬間、顔面を蒼白にして次々と倒れる。
一人残された司祭は焦ったように顔を歪めた。『協力者』と名乗った学生は、仲間であるはずの者たちが倒れても、表情をまるで変えない。その不気味さに怯えるように、司祭は一歩退がって叫んだ。
「……何をした?!」
「何、ねえ」
アイスブルーの瞳が静かに司祭を射抜く。
「わざわざ説明しなきゃいけないのかな? 『イーター』くん」
「!」
イーターと呼ばれた司祭は驚いた表情をした後、気が触れたように笑い出す。
「ふ……ふふ……! つまり正教徒の協力者というのは嘘で、本当は生徒会長の守りをしていた、ということか。しかし、そやつの魂はもう──」
「へえ」
言葉を途中で遮り、三つ編みの男子学生……サリオンは作り物のように空虚な笑みを浮かべた。
「お前、何に手を出したかまだ分かってないの? こいつはお前らが敬愛する白の教皇そのもの。そして俺は、『司書』サリオン──お前らの大嫌いな、最古の放浪パトロンさ」
† † †
† † †
「子どもになってるっ……!?」
私は、『彼』をまじまじと見る。
その少年は、相変わらず感情が読めない無表情のまま、くるりと背中を向けた。
「こっちの方が本来の力が出せるんだよ。俺は兎を狩るときも油断はしない」
「本来……?」
「何、あいつ説明してない訳? パトロンは世界を転移するとき、転移先の世界に適応する肉体や能力をイメージして作り出す。その元となるのは必然、パトロンになる直前の姿なの」
「……」
つまり。サリオンも、パトロンの一人だったと? あいつ? 説明? ……父のことか?
頭の中がまだぐるぐるしている。私は教皇の一部で、サリオンは子どもの時からパトロンで? 転校初日、クラスで同い年の学生たちと笑い合ってた姿が思い出される。あれは全部演技で。この冷ややかな少年が本当の姿。どおりで口調が子供っぽいと。
「……じゃあ、ここは」
「あの喰らう神の腹の中。パトロンはそれぞれ魂の中に、『内部世界』っていう小さな世界を持ってる。いわば、新世界を創造するための卵みたいなものだね。喰らう神は対象を吸収するとき、だいたいそこに閉じ込めて、獲物が絶望して自死するように仕向ける。世界ってのは入るのは簡単だけど、出るのは難しいからね」
「喰らう神……というのは」
「そこからなの?」
小さなサリオンは眉間に皺を寄せて、面倒そうに私を見た。
「神のならず者。パトロンになる者の二割は世界を創造したり守ったりする。六割はただ放浪するだけの無目的な普通のやつら。残り二割は他のパトロンを喰らってその力を奪うことに自分の存在意義を見いだすゴミクズ。狙われるのはだいたい、狩り易い弱者……『神の子ども』」
「……私のことか」
「ま、お前は本来子どもじゃないんだけどね」
「だから、どうしてそれを──」
私の問いは突然起きたざわめきにかき消された。
真っ暗だった空間から、槍のようなものが突き出してくる。光源……サリオンの手にあったランプがかき消えた。彼の姿も。
「っ!?」
周囲を改めて探知するが、何の痕跡も見つからない。完全に、一人?
そういえばなぜサリオンが一緒にいたんだろう。ここに取り込まれる直前、サリオンの声がしたはずだ。気づかなかっただけで、実は近くにいたんだろうか。私が狙われることを分かっていたから? 守るため?
二週間ぶりに話した彼は相変わらず淡白で、尊大で。いつものように話せたことが、正直、嬉しかった。
これで終わりなんて、絶対に納得できない。
私は自分の体すら視認できない暗闇を睥睨する。
どこからか、声がした。
「……るし……さ……」
さっきの司祭の男性の声?
集中して耳を澄ませる。
「お許しください」
何を? ……声の方向は特定できない。
「お許しください、白の教皇!」
「!」
「あなた本人だとは知らず、あんな、大変なご無礼を……!! ですがあの『司書』めは、私が必ず滅ぼしてご覧に入れますのでしばしお待ちを」
いやに恭しい口調。正教徒の司祭だけあって、白の教皇の熱心な信者だったのか? さっきと全然態度が違う。そして──
「『司書』…………?」
「ええ、そうです! あなたを追いつめ封印した、我らの宿敵!!」
……。
…………。
今、なんて───。
『あの司書』という単語に連想するのは一人しかいない。さっきまで一緒にいた。
その存在が、白の教皇を封印したということは、つまり…………?
私はゆっくり息を吐いた。
これは駄目だ。鵜呑みにせず、本人に、確認した方がいい。
私は気が長い方だと思う。
嘘や隠しごとに、いちいち目くじらを立てたりしない。見抜けない私が未熟なんだ。
だけどこれはあまりにも。
父は何と言っていた?
白の教皇は罪を犯し、封印された。
私なら、そんな罪人から目を離さない。二度と道を間違えないよう。……サリオンが封印した張本人なら、初めて会った時のあの態度は。
ふと、目の前から声がした。
「俺が許せない?」
「そんなはずがないだろう!!」
叫び返す。
これは憎いとか許せないとかそんな感情じゃない。
私だけ知らなかった。
それが悔しいんだ。
こんなこと、そりゃ言えないだろう。忘れたままの方が都合がいいくらいのはずだ。でも、皆そうはしなかった。
私は目の前の暗闇に向かって吐露する。
「……ずっと、もう一度話したかった。また、前のように、図書館で、穏やかな時間を過ごしたかった」
皆私に何を求めているんだ。
父は幸せになってほしいと言った。
サリオンはしきりに気にしていた。私の記憶を。私がこれから何をしようとしているのかを。────私は、まだ何も答えられていない。
私はくしゃりと表情を崩す。
「知っているのなら、教えてくれないか。封印を解く方法を。私はちゃんと、君と向き合いたい」
「……」
真っ暗な場所に向かって半分叫ぶように訴える。
しん、と静まり返ったあと、急にまた景色が変わった。
「なっ」
漏れた悲鳴は、私じゃない。あの喰らう神か。
「ここは……」
先ほどのような息苦しさはない。地平線がかすむくらい途方もなく広い空間。そこに、図書館のような書棚が延々と並んでいた。一つ一つの棚が頂上が見えないくらい高い。まるで、幼い子どもにでもなった気分だ。天井はないようで、書棚の間に微かに星が瞬いている。
ガラス張りの床の下には小さな無数の光が散らばっていて、時折蛍のようにふわふわと浮かび上がっては消えていく。
幻想的で、静謐な空間だった。
「ここは、俺の内部世界」
隣から声がした。見遣ると、やっぱり小さな姿のサリオンがいた。
その向こうに、司祭服姿の男性が這いつくばっている。
「な、なにが……」
「お前の小さな内部世界ごと取り込んだってだけ。そもそもお前ごときが俺に敵うはずないでしょ。そこでじっとしてて」
一瞥しただけで、鳥籠のような鉄格子が現れ、喰らう神を捉える。
「……さて」
サリオンは気のない表情で、私の後ろを指し示した。
「お前の封印は、そこ」
「……」
その言葉に、恐る恐る振り返る。
そこに、一冊の本が浮かんでいた。抱えるくらい大判で分厚く、ガラスのような半透明な鎖が何本も、がんじがらめに巻きついている。中央に、青く明滅する錠がかかっていた。
「これは、喰らう神が獲物を絶望させるためによく使う、時の牢獄と同じもの。本の中の空間はもうすでに、何千年か経ってる」
サリオンの手にいつの間にか小さな鍵が握られている。鍵は錠と同じリズムでゆっくりと光っていた。
彼は説明しながらじっと淡く光る本を見上げる。彼はここに教皇を封印してからずっと、こうして見守っていたんだろうか。
「これを解いて記憶が戻ったら、もうお前はお前じゃないかもしれないね」
「でもずっとそのままって訳にはいかないだろう」
「……まあね。もしお前がまた秩序を壊そうとするなら────今度こそ殺してあげるよ」
アイスブルーの瞳に映り込む白い光は、空に浮かぶ雲のようにふわふわと揺らいでいる。
いつものように淡白な口調。
でも、なんとなく分かる。彼はそれを望んでない。
私は尋ねた。
「そう、ならなかったら?」
「……」
彼は口ごもる。
以前望みを言って欲しい、と訴えたときと、同じ表情。彼は決して私の問いに答えない気がした。
だったら。
「……鍵を、もらえるだろうか」
「……」
サリオンは、じっと手の中の鍵を見つめる。
彼らしくなく、ひどくためらっているようだった。
アイスブルーの瞳がこちらを見上げてくる。相変わらず感情が読み取れない。けれど、私は微笑んで見せた。
不安がないといえば嘘になる。でも、私は自分で望んでここにきた。だったらあとは、飛び込むしかない。
彼は眉をひそめてから、小さくため息をついた。そして、手の中の鍵を軽く放り投げる。鍵は落ちずに私の前にすい、と移動してきた。鎖や錠前と同じくガラスのような半透明で、触れると冷たい。まるで氷のようだった。
私は鍵を手にとり、青白く光る本に近づいた。
サリオンが指し示した錠前は、心臓の鼓動のようにほのかに明滅している。
鍵穴を回す、かちゃん、という音が響いた。