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転生歴女 〜メイドとオタクと歴史の終わり〜  作者: 平沢ヌル
第七章 スワンプマン
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第6話 バタフライエフェクト

 こんな風だった私たちの再会だけど、その後いろいろあって、私が彼の住んでいる方に移住することになったわけ。だって私は今や無職で、預金がそこそこある無職だから。

 私は旅行の予定を切り上げて一度帰国した。それから、語学留学兼ねたワーキングホリデーという手段で長期滞在するために、数ヶ月の準備を要したのだった。まだ私がワーキングホリデー用のビザが取れる年齢で良かった。これでしばらくの間は一緒にいられる、その間に生活基盤を整えて、どんな風にだったら生きていけるのか模索したい。移住が無理だったらどうなるんだろうか。まだ分からないけど、何とかなるでしょ、そんな風に楽観的に私は構えていた。彼が生きていたような近世だったら、たまたま旅行で行き着いた国にそのまま居座るなんてこともできたのかもしれないけどね。

 私はやっぱり釣り合ってはいないのだ。だって彼は優秀で、イケメンで、性格も良くて。いや、性格は良くないか。あのエックハルトとは違うけど、このエックハルトはこのエックハルトで癖のある性格をしている。これは本当に。

 まず、物腰は静かで穏やかで、攻撃的な所をあまり表に出さない。これは明らかな評価材料だ。だけど時々毒舌だ、特に政治家のニュースを聞いたりしたときは。時々論理的に激詰めしてくることもある、私に対してすら。例えば、この人は私を自転車に乗せたがらない、自分は高い自転車持ってるくせに、約束したのに。フラフラとしか乗れないのに自転車乗りの真似して車道を走ってまた交通事故にでも遭ったらどうするんだと言われたら、私も反論はできない。代わりにでっかい水鉄砲を買って、車で一時間の彼の実家(ここまでのノリで、お屋敷や宮殿なんかを想像しないでほしい。ごく一般的な庭付きの一軒家だ)に行って芝生の上で撃ち合うという意味不明な展開になったのだが。

 それから、昔のエックハルトとよく似た側面もある。今のエックハルトはたまに煙草を吸う、今のエックハルトはちゃんとした人だから、あくまで普通の煙草、それもヘビースモーカーではなくて嗜む程度だけど。でもそういう時に私が奪って一口吸ってやり、煙に咽せたりすると、今度は彼が断固としてそれを奪う。やっぱり自分のことより他の人のことだし、今のエックハルトもストレスに対して物凄く強靭というのではなくて、僅かに嗜癖的な部分を見せる時がある。

「知ってる? 口寂しくて煙草を吸う人って、ママのおっぱいが恋しいんだって」

 そんな風に言っていじめてやると、仕返しのつもりなのか今度は私の唇を吸ってくる。そういうときは煙の味がする。


 ここまで話してきて、このエックハルトが、本当にあの私たちのエックハルトと同じ人なのか、気になってくる人もいるんじゃないかと思う。だって、明らかな個性の違いがあって、それが表の顔と裏の顔の違いだけでは説明がつかないって。でもそれは簡単な話だ。あの世界のエックハルトは、私が出会った時点で既に、社会によって複雑に侮辱された人生を虚勢を張って二十七年生きてきた、世間擦れした人間だった。一方で、この世界のエックハルトは、恵まれた家庭に生を受けながら、たっぷり苦しんで生きた男の人生の記憶を引き継いで、子供の頃から理解されずに育ってきた、どこかしら悲しげな浮世離れした人間なのだから、性格形成の段階からして違っている。だからある意味では違う人間だ。

 それでも私が、どちらも同じエックハルトと考える理由は、同じあの純粋な愛情を、この私に向けてくるからだ。

 そう、一番大事なことだ、私に対してのエックハルトについて。これは、ベッタベタに甘えてくると言っていい。私は溺愛されたいと思ったことはないけど、エックハルトは溺愛系だ、甘やかしてくるんじゃなくて甘えてくるという意味の。正直、甘えると甘やかすにどれだけの違いがあるか分からない。甘やかされているというにはこの人、そんな風に依存するには不安が大きいというか、甘やかしていると解釈されるのは腹が立つというか。でも、不案内な土地での生活では頼りになる存在だし、ちょっとしたことで嬉しそうだし、なんかいろいろやってくれるし、外では紳士として振る舞ってくれるし、私がやりたいって言ったことに、大抵の場合は付き合ってくれるし。例えば博物館なんかに誘ってくれて、展示をきっかけに果てしなく逸れていく話題を語ることもできて、それも楽しそうに聞いていてくれて、時々口を挟んでくれる人がいるだけでも私は幸せだ。

 それから、エックハルトは外を歩いている時なんかに、不意に私の手を強く握ることがある。ちょっと恥ずかしいし、その握る力が強すぎて文句の一つも言いたくなるけど、彼は彼で、時々注意散漫になって車道の方にふらふら歩いていきかねない私のことが危なっかしくてしょうがないらしい。実際交通事故で死にかけたのだから、彼の方が正しいんだろう。年下のこの人にお守りされているという解釈は腹立たしくもあるけど、でも気を遣ってくれているのは素直に感謝するべきなんだろう。もう今は現代人のはずなのに、手の甲に口付けみたいな気障ったらしい真似も平気でする男だから、それは本当に恥ずかしいけどね。

 でもいつでも従順なわけではないし、時々どっかしら性格悪いのが垣間見えることもある。それに彼は私に好きと言わせたくて、そのためならなんでもやる。ようはこのエックハルトはこのエックハルトなりに不埒だと、そういうこと。


 ごめん、そうじゃないね。やっぱり私は、エックハルトのことを茶化しすぎている。私はもっと真剣に考えなければならないと思う、彼を本当に愛すると決めたことを。

 私は本当は怖いんだと思う。私が自己決定権の全てを明け渡してしまってから、私の全てを知られてしまってから、彼が人生をかけて愛するような価値のある存在じゃなかったと理解されてしまうことが。

 決して塞がることも癒えることもなく、ただ天に向かって開いていただけのあのエックハルトの心の傷は、一度死んで最初から人生をやり直したって跡形もなく消えてはくれなかった。血を流したり膿んだりすることがなくなっても、それは歪な形の痕になって残っていて、それがある限りは、彼の一番の理解者は私でいられると思う。私でない誰かなら、もっと上手にその傷を癒やして、消してしまうことすらできるかもしれないけど。そうなったら、私はどうなる? そうなった暁にも、このエックハルトがあのエックハルトと同じ人だと私に思えるだろうか。それは死よりも忘却よりも決定的に、あのエックハルトの存在を消してしまうことにならないだろうか。

 私はその日が来る可能性に、心の底では怯えていると思う。でもそれって、このエックハルトの幸せを願っているのではなくて、どこかしら不幸を抱えて生きることを願っていることにならないだろうか?

 なんで私は怖がってるんだろう? こんなに幸せなのに。私が幸せになっていいのか、それが分からない。この私がこんな美しい人に愛されて、求められて、大事にされるなんて、やっぱりどこか間違っていて、そのうちこのつけを倍返しで払わされるんじゃないかって杞憂に陥っているのかもしれない。

 それでもやっぱり私は彼のことが好きだ。家で仕事をしている夕方なんかに、エックハルトは疲れていたってそうは言わないけど、段々と動きも返答も鈍くなってきて、ソファで丸まっていることがある。そんな時に手を伸ばして彼の頭を撫でてやったりする、巨大なハスキー犬を撫でているみたいな気分で。でも、そんな時に見返してくるなんとも言えない眼差し、その目で見られると私は正気を失いそうになる。それは愛情という本能の暴力で、その意味において私は脳内麻薬の犠牲者だ。私はその顔が見たくて、本当は正気なんてない自分が顔に出ないように内心で戒めつつ、彼の頭を撫でる。

 私がエックハルトに、こんな風に必要とされている理由。彼は多分、魂の深い飢えを満たす過程にあって、私は彼に摂取されている。あの昔のエックハルトみたいな、愛されているのに同時に頭から喰い殺されそうな張り詰め方がないだけずっと良かったのだけど。

 食らうこと。それは昔のエックハルトにとっては大きな問題で、今のエックハルトにとっても少し問題だった。

 あの世界で生きていたエックハルトには味が分からなかった、そんな風に私は今のエックハルトから聞いた。甘味と旨味に偏った味覚障害なのか、精神的なものなのか。強靭で嫌味なポーズを取り続けていた正気の時のエックハルトが見せた内面のストレスの表現だったのかもしれない。

 今のエックハルトには味が分かる、それは良かった。一緒にごはんを楽しめるから。だけど、彼は料理が下手だ、お茶だけは淹れられるのが奇跡ってぐらいに。それから、自分一人ではごはんを楽しむのすら下手だ。朝はリンゴ丸かじりに焼いてないパン、エネルギー切れてきたらパックゼリー、それからその辺のコンビニのデリコーナーで適当に買った何も美味しくないサンドイッチ、そのエネルギーも切れて虚脱、栄養バランスは牛乳がぶ飲みしてサプリとプロテインで補う。そんな生活で、悪食と言わざるを得ない。別に今の親御さんが酷い食生活をさせていたわけじゃないらしいので、これは彼の特性だ。

『あなたと一緒なら、何でも美味しい』

 そんなことを彼は言う。それも味覚が雑すぎるんじゃないのと思わないこともないけど、凝っているとか熟達しているとは言い難い私の手料理を美味しく食べてくれるのだから、それはそれでいい。

 昔のエックハルトと、今のエックハルト。同じだけど違う、違うけど同じ。そういう奇妙な概念、自己同一性の綱渡りをからくも渡っている、そんな人生を私達は許容しつつあった。


 それでも私にはやっぱり、どうしても折り合い切れないことがある。

 週末の夕方で、食事も終わり、居間で寛いでいる時間のことだった。エックハルトはソファの上で彼の仕事のテーマだという研究資料にじっと目を通していた。服装は薄手の黒のスウェットの上下で、素足で、眼鏡をかけていた。昔のエックハルトは射撃の名手だったけど、今のエックハルトだって視力は悪くなくて、かけているのはブルーライトを遮断して視力を保護するための度無しの眼鏡だった。外ではいつもさりげないけど瀟洒な出で立ちを見せているこの人は、室内ではこんなしどけない姿になっている。

 私はソファの反対の端に浅く腰掛けて、そんな彼の様子を観察していた。この頃の私は、語学学校の課題を終えてしまうと手持ち無沙汰になりがちで、日々の研鑽が明らかに足りていない。そんな風にしているエックハルトとの差を埋めることができないでいた。

 昔のエックハルトはどうだったんだろうか。私が知っているエックハルトの裏の顔は、人知れずどん底まで落ち込んで着のみ着のままで死んだように横たわる姿だけだ。そうでない時の姿は私にはイメージすることしかできないけど、ストレスへの対処方法はやっぱり違っている気がする。やっぱり同じ人で、違う人だ。

 彼は聞いてくれるんだろうか? 躊躇いつつ、私は口を開く。私が言いたかったのは、このエックハルトのことじゃなくて、昔のエックハルトのことだった。

「あなたに、自分の人生を捨てさせてしまった」

 そんな謝罪すら虚しい欺瞞でしかない。だってその文脈において、私が謝りたいのはこのエックハルトじゃないのだから。

 エックハルトは一瞬悲しげな表情になる、が、やがて静かな声で答える。

「捨ててはいないよ。僕は五十七歳まで生きて死んだ、あの世界で。リヒャルトとアリーシャのことも見届けた、僕の生命が尽きるまでは」

「…………」

 私は黙ってしまう。だってそれは相当な早死にだ、こっちの世界の基準では。でもそれは同時に、彼があれから十七年間も耐えたということでもある。

 それから、静かな声でエックハルトは続ける。

「ちゃんとしたよ、僕なりには。食べるのが、咀嚼の一噛み一噛みすら苦痛だったこともある。でも元気でねって、あなたが言ってくれたから。僕が生きているどの瞬間だって、別の世界にいるあなたが心配しているはずだから、約束を守らなければ、そう思って生きることにした。そうでないと、二度と会えないと思ったから」

 エックハルトは感情を表さず、淡々と語っている。一方の私は対照的に、こみ上げてくる感情を抑えられなかった。

「…………うー。うう……ん。んー」

 そんな幼児の喃語みたいな呻き声を上げているのは、私が泣いているからだ。

 起きているのが記憶の継承だけだとすると、そのエックハルトはたぶん、今ここで生きているエックハルトではない。つまり、このエックハルトにはあのエックハルトの経験の記憶があっても、あのエックハルトがこのエックハルトの経験を自分のものとして感じているわけではないことになる。今こうして私たちが出会えたことは、あのエックハルトがあの『若葉』と再び出会えたことを必ずしも意味していないのだ。

 私はエックハルトについて考えるときはいつも、前世とか、転生という言葉を避けている。この不可思議なシステムでも、あのエックハルトを完全に救うことはできないことを忘れたくないからだ。人間の死はあくまでも人間の死であって、取り返しがつかないものだと私は思っている。

 そしてあの世界の『私』も、あくまでもアリーシャから分離した人格で、アリーシャの中からは消えてしまった。そして私はその記憶を持っているだけなんだと思う。だから、エックハルトも、『若葉』も、あの世界で死んだ、あるいは消えた私たちと、今の私たちは、同じであって違う存在。

 でも、魂は? 魂のことは分からない。もし魂が確かにあるとして、あの世界で私は魂として確かにいて、生霊としてアリーシャに憑依していたとか、こっちの世界のエックハルトもあの世界のエックハルトと魂は同じだとすると、もっと救いのある話になる。だけど、それは気休めでしかないかもしれない。事実は、あのエックハルトは死んだ、それだけだ。

 膝の上で握った拳に涙をボタボタ落としていた私に、エックハルトは近づくと、私の手を握る。

「それだけじゃない。人を信じてもいいと思えるようになった、やっと。リヒャルトのことも、アリーシャのことも。だって僕にはあなたがいるから、少しぐらい誰かに裏切られたって、僕にとって期待外れだってどうってことはない。だから、あなたは僕を救ってくれた、本当に。そう言って僕が自分を追い詰めているだけだと、そう思っていたでしょう? でも、違うんだ」

「……もう少し早く、行ってあげれば良かった。大丈夫だよって、言ってあげられれば、もう少し早く」

「どうかな。もしそうだったら、未練が断ち切れなかったかも。僕の方が。だから、これでいいんだ」

 私は黙って、顔を覆ってしまう。エックハルトは静かに、私の傍らに座っている。

「僕は、ここにいるから。……泣かないで」

「違う。泣いてない。…………あのさあ」

「若葉?」

「なんで、そんなに可愛いの! 五十七ってさあ! さすがに予想外ですけど? そんな歳になってそんな可愛いこと言われてたら、私どうしていいかわからないんですけど? 嫌味で気障ったらしい伊達男気取りの女誑しだったはずじゃん、元々さ! なんでそんな風になっちゃうの! ねえ、それでいいわけ?」

 と言いながら、私は半分以上泣いているのだったが。

「……僕は」

 何故かエックハルトは、言葉を失ったように言い淀む。私は自分が失言をしかけていることに気が付く。

「そういうさ、不埒な所も結構好きだったんだけど、私はね?」

 違う、これでは取りなしになってない。エックハルトはむすっとした顔になって、私は慌てる。過去の世界のことで、話題が微妙な部分に差し掛かると彼は不機嫌になる。昔の彼にも、それから今の彼にも思うところは色々あって、その心の襞までは容易に説明できないのだろう。

 それにしても、ちょっとおかしくない? あの世界にいた私の記憶の最後にあるアリーシャとリヒャルトは今の私たちと同じぐらいの年齢だったけど、ずっと大人だった。よそはよそ、うちはうち、でもなんで私たちはこんなに幼稚なんだろうか。

「ええと、あの、その。ごめん。あのさ、そうじゃなくて。違う、あなたが可愛いって言いたいだけ」

 恐る恐る、エックハルトの方に私は手を伸ばす。説明した方がいいのか、なんでいつまで経っても、私がこうして悪びれているのか。

「……ええとさ。あなたが私みたいな女とは違う世界の人だったとしても、私は好きだった。その、綺麗なのに人間くさい所が。あなたが現実にいる私を見てどう思ったとしても、嫌いになんてなりたくない。でも、今は女として愛してしまった。どうする? 私が嫉妬したら。もっとあなたに相応しい人が見つかっても、私が嫌だ、離したくないって喚いたら」

 こんな、みっともない女の私が。世界一可愛いとか頭がおかしいことを時々彼は言うけど、ごく客観的に冷たい目で見て、私とエックハルトを並べたときに、釣り合っているなんて私には言えない。

 それでも、私は彼に向かって手を広げてみせる。

「女にされちゃったんだよ、あなたにさ。どうしてくれるの、責任取ってよ」

 エックハルトは私の片手を取って、もう片方の手で私を引き寄せる。そして今は、ソファの上で足を伸ばしている彼の脚の上に私が乗る形になっている。彼の素足、その白い足の指に目をやって私は慌てる。足の指ですら信じられないぐらい長くて、そして器用なのだ。彼はその足の指で私の足先を撫でて、掴むことがある。

 違う、そんなことより顔だ。エックハルトは、私の首の方に片手を移して視線を合わせてくる。いつも私はたじろいでしまう、その金色の目で見られると。

「…………責任」

 今しがた自分で発した言葉を私は繰り返す。責任取ってくれようとしてるの? 違う、そういう意味じゃなくて、私が言いたいのは。

「賭けは僕の勝ちだ。僕が孤独で、全世界から切り離された人間でなくなっても、僕はあなたを愛している」

 私に好きと言わせるためなら、この男はなんでもする。さっきの拗ねたような顔は演技だったのかもしれない。いや、こういう主張はむしろ、彼の当然の権利なのか。

「あなたには想像もつかないでしょう。あの日、あなたと別れた後の僕が、吐きそうなぐらい泣いていたことが。だってあれは、生と死への、永遠かもしれない別れだった。本当にそうだった」

 エックハルトは私を見据えながら、同時に彼の記憶の中の、遠くの時間を見ているようだった。そうしながら彼は言葉を続ける。

「あなたは、僕という罪深い存在を赦すためにあの世界に現れた。内面ではほとんど怪物と化していた僕に、あなたは手を伸ばしてくれた。あの最後の日ですら、僕はあなたを引き留めたかった。あなたは生きていていい存在だって言いたかった。でもそれはきっと、あなたを余計に苦しめるだけだったから。本当に大好きだった。あなたに出会えて良かったと、それだけを繰り返していた。だからこの今は、神様が僕に一つだけ赦してくれた奇跡で、決して失えない。あなたはやっぱり、あまり分かってはくれないけど。違う?」

 私は沈黙してしまう、長いこと。


 エックハルトは見た目でも態度でも全然分からなかったけど、その内面はずっと純粋で、私の可愛い少年だった、その五十七年間の生涯の最初から最後まで。彼は多分あの世界で死んでいて、あのエックハルトだった意識はもう存在していない。そう言っていいのだろうか、私たちの物語には時間軸上の座標の一致にあまり意味がなくなってしまったから。つまり、その同一性を保った一個体の生命はあの世界の限られた時空間には存在しているとはいつだって言うことができるが、だけど、この世界のどの時空間にも存在してはいない。だけど彼は、その記憶を今ここにいる私のところまで持ってきてくれた。ただのお伽話みたいなあの約束で。

 あの言葉がなかったら、物事はどうなっていたんだろうか? 私はずっと考えていた。強く念じること、それ自体が現実に作用する、それは非科学的な、非現実的な考え方だ。と言っても、私たちの物語は平行宇宙を跨いでいて、その相互の関係は普通の物理法則では多分記述できないから、科学的とか現実的とか、そういう考え方にも意味はないのかもしれないけど。

 とにかく、想いが叶う、それはそうなる未来に向かって努力できるからだ、普通の世界の現実では。じゃあ、絶対にどうにもならない運命に対しては、願うことには意味があるのか? 意味はないのかもしれない。だけど、私たちは願ってしまう。奇跡の生還を、一万回の失敗の後の、たった一回の成功を。それが世界を動かす冷たい歯車の歯のたった一つだけを欠けさせ、絶対に勝てないゲームの盤面を引っくり返す、その日を私たちは待ち続けている。バタフライエフェクト、蝶の羽搏きが巻き起こす僅かな大気の擾乱がやがて嵐となって地上に恵みの雨をもたらす奇跡を、私たちは願い、祈る。


 これは私の迷信かもしれない。だけど私は考えてしまう。

 もしかしたら、元々の運命では、私は助かっていなかったのかもしれないと。

 彼があの約束をしてくれたから、彼も私は今、ここで生きている。

 記憶と多世界と歴史を巡る私たちのこの不可思議な旅では、そんな突拍子もない想像の話すら、あり得ないとは言い切れなかった。


 エックハルトは私の耳元で囁く。

「『悠悠生死別経年、魂魄不曾来入夢』」

「……え??」

 さすがに私は聞き返す、だってそれは中国語だった。

 エックハルトに関して、もう一つ話がある。どうやら東洋人らしいと、私の印象についてそれだけ思い出した彼は、私と巡り合った時には話ができるように言語を学んでいた、確率考えて一番話者人口の多い中国語。そこで外すのがいかにもポンコツな今のエックハルトらしい。それに私はあの、ドイツ語と似ているけど少し違う、あの世界で使っていた言語を結構覚えていて、それを何とか今の世界の普通の言語に近づけようとしている。一方の彼は、あの世界から遠ざかって長いし、言語の類似もあって、大体普通のドイツ語の方で喋る。私が理解できない時には前の世界の言葉を思い出して、もしくは英語で喋ってくれる。コミュニケーションに難はあるけど、辿々しさ一辺倒でもない。私たちの会話はそんな感じだと思ってもらえばいい。

「『長恨歌』。知ってる?」

 そう中国語で発音されても私には分からない。エックハルトはそれが書かれた本を、彼の書棚から引っ張り出してきて私に見せる。

 長恨歌とは、唐代の詩人白居易の漢詩で、玄宗皇帝に寵愛された楊貴妃の死を詠ったものだ。長い恨みの歌と書くけど、それは想い続けるという意味らしい。私もこの詩を知っていた、こんな長い漢詩が授業で出てくることはないけど、高校の時に図書館で読んでいた。

(やっぱり、変わり者、だなあ)

 そんな風に私は思う。日本人である私なら、古典の勉強をしているのなら、漢詩を日本語に置き換えて読み下すなんて大したことじゃない。でもエックハルトは違う。彼にとっては完全な外国語だし、しかも現代で使われている言葉じゃないし。今のこの人、もしかしたら私の同類なのかもしれない。人には理解されなさそうなことに限って情熱を傾ける雑学オタク。


『悠悠たる生死別れて年を経たり、魂魄曾て来たりて夢にも入らず』

 生と死に別れたまま長い年月を過ごした、きっとエックハルトにとっては本当にそうだった。私にとっては一年弱、それでも体感としては十分長かった。だけど、私は何度か夢に見ていた気がする。アリーシャと、リヒャルトと、エックハルトと、それからみんな。何も変わらず生きている姿を見て、ああよかった、私は間違っていたんだ、そう思った。でも目が覚めてみればそれは辻褄が合わない夢だった。夢は心を一瞬だけ、現実の苦しみから解放してくれる、だけど実際に起こったこととは違う。夢で会えても、夢で出てきた影が大丈夫だって言ってくれても、それは実際の彼が大丈夫だってことを意味しない。そんな夢から覚めるたびに私は心の痛みに、無意識の裏切りに喘いだ、彼にもう一度会えるまでは。

 他の箇所を見ても、私自身にぴったりした表現は見当たらないように、私には思えてしまう。分かるかな? 古の物語や歌は、ほとんどが美しくて高貴で、それによって神にすら至るような男女の愛について謳われている。地を這いながら天を仰ぐ者のための歌、それは自分たちだけが知っていて、生きている限り、魂の限り歌い続けても、死んでしまったら大抵の場合は、誰も思い出してはくれない。だからこそ生きて、この世界に残し続けなければならない、自分自身の爪痕を。

 エックハルトは物語に相応しい。だけど私は違う、それは見た目だけの問題じゃなくて。知性でも、感性でも、意志の強さでも、私は彼に全然及んでいない。私は変われるかな? 努力すれば。こんなちっぽけで、若くすらない今の私でも。それでも差は圧倒的で、私が彼の物語の終着点として存在しているべき澪標だとは、私には思えないのだ。

 私たちが生きているのは天国でも仙界でもなくて、あちらとこちらで同じように俗悪さに塗れながら、暗闇の中で自分の誇りの在り処を探している、そうやって必死で生きている人間の世界だ。エックハルトが探していた究極の答え、虐げられることも踏みにじられることもなく自由に生き方を選べる世界は、あの世界では確かになかった。でも、だからと言ってこの世界がそうだとは私には言えない。

 答えはない。問いが変わっただけ。この世界でもう一度問い続ける人生があなたに与えられただけ。違いはと言えば、私が生きていることだけ。この平凡な女でしかない私が、あなたの隣にいることだけ。

「……ねえ、私で、いいの。本当に。本当にあなたがいいなら、私はそれでいい。あなたが良くなかったとしたら……」

 その後を続けようとした私をエックハルトは押し留める。

「……自分がいなくなった方がいいんじゃないかなんて言わないで。あなたがいなくなったら、僕の心はまた引き裂かれて痛む。だから、どうか」


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