第3話 多世界解釈
「ありがとう」
御者に声を掛け、心付けを渡す。
もう夕闇が、すっかり舞い降りていた。公宮の通用門を前にして、私は躊躇する。普段のように何気なく入っていっていいのか、私には分からない。
「…………」
軽い目眩を感じて、私は頭を抱える。
エックハルトの約束。来世では神様がまた巡り合わせてくれる、そんな単純な話ではないのだ。若葉が私の前世なら(もうほとんどその可能性はないという結論になってはいたが)、若葉の来世は私。私が来世でエックハルトと巡り合う? その構図は、なんか、とっても嫌だ。若葉が私の前世でないなら、転生なんてシステムがあるかどうかすら分からない。
だから有り得るとすれば平行世界。無限に存在しているだろう位相のずれた多世界のどれかには、若葉とエックハルトが同じ時間を生きる世界だってあるかもしれない。そして、平行世界間での記憶の継承は私たちの経験上、起きる可能性がある。でもそれは、そちらの世界のエックハルトにとっての可能性で、このエックハルトにとっての未来じゃない。あるいは記憶なんて関係なくて、何も知らない二人の人間が別の世界で出会う可能性、それだけに賭けているのか。
こんな考察は全部、それが絶対に不可能、可能性が文字通りの、最小の非負整数ゼロだと断定する理由はない、だからこうであって欲しいという願望に過ぎない。普通に評価すると可能性は限りなく低い。そして、それは全部別のエックハルトの話。このエックハルトは二度と若葉には出会うことはない。でも、それでもいいと、そういうことなんだろう。
そもそも、こんな約束を私が覚えていていいわけではない。二人に対する信義に反している。この世界の神様は、そういう細かい心配りをしてくれなかった。神様がしてくれたことは、この世界線、この時間軸の人類を究極的な破滅から救うために、新井若葉、ちょっとだけ普通ではない普通の女性の記憶、意識、存在、その概念を、私に投げて寄越したことだけだ。
とにかく、いつまでも扉の前で逡巡していても仕方がなかった。私は中へと足を踏み入れる。
「……アリーシャ」
暖炉のある家族の居室にリヒャルトはいた。
膝には末娘、ベアトリクスを載せている。この夕方、ずっとベアトリクスをあやしていたということだったらしい。
「すみません、遅くなりました。あなたも、お忙しいんだから乳母に任せておけばいいのに」
「一人で見ていたわけじゃないさ。さっき帰らせたが」
今では私も王侯貴族の端くれ、それも夫のステータスに全面的に寄り掛かった上でのことだが、なので、子供の面倒はある程度は使用人に任せられると、そういうことだった。リヒャルトの子供時代は母親に会う機会すら稀だったらしいので、そういう感じからは離れようとはしているが。
「どうだった、あいつは。エックハルトは」
そんな風に彼は聞く。
「やっぱり例の持病でした。彼の悪い癖です」
「ああ」
呆れたように、でも理解しているように彼は応じる。リヒャルトとエックハルトの関係もまた、普通ではない。
「ちゃんとやめるように言って来ましたし、本人も最後には納得してくれたみたいです。これでまだやめられないようだったら、しばらく病院にでも放り込んでください」
「そうだな」
彼は簡単に応じる。
ヨハンはあまり理解していないが、私は昔の私とは違う。ことに当たっていちいちあたふたしなくなったし、冷静に判断を下し、物事に対処できるようになった。そして、リヒャルトもそれを評価してくれている。エックハルトの代わりはできなくても、リヒャルトにとって必要な存在でいることはできる。それは幾分かは、元々私のどこかに備わっていた力だったのかもしれない。でも、若葉がいなければ私はこんな風にはなれなかった。今の私は昔の私でもないし、だけど若葉でもない。二人の人格と経験、記憶が、新しい私を作り上げたということなのかもしれない。
でもそれは、実は大きな問題だった。
誰にも言えない、だけどその疑問は常に存在している。この私が、元の私と若葉の統合された人格だとしたら。エックハルトと最後の約束を交わした若葉は、私自身なのか。それとも、あくまでも彼女は、今の私とは別の人格なのか。
前者の可能性から考えてみる。この私が二人で一人の存在とすると、同時に二人の男を愛しているということになるんだろうか? でも違う。だって私はエックハルトを愛してはいないし、エックハルトも私を愛していない。エックハルトにとって私は、リヒャルトと若葉、最愛の存在を二人とも奪っていった女だし、私は内心では恨まれているのかもしれなかった。
私はエックハルトにとって、愛する対象ではなくて、愛を競い合う存在だった。エックハルトはリヒャルトと若葉を愛していて、私もリヒャルトと若葉を愛しているのだから、彼にとってはライバルだったわけだ。そう考えるとちょっとおかしい、でもいろいろと合点がいく。あのつんけんした態度も、わざわざ私の大事なものを選んで壊すところも、私が腹を割って彼の立場に歩み寄ろうとしても、それなのに噛み合わない会話も。ずっと私たちは、小説の中の恋のライバルみたいだった。こんなことを考えている私はちょっとおかしいけど、でもエックハルトも相当おかしい。
だけどエックハルトは今だって私たちのために、それから私自身のためにも立ち働いていてくれる。だから、私がエックハルトに個人的感情を向けることはない。もう、今となっては。
じゃあ、私と若葉が別の人間だとすると? 私という存在を完全なものにするために、若葉は消えなければならないのか。私という存在をして、あんな風に良くしてくれた若葉に、この世に別れを告げさせているのか。彼女を愛してくれたたった一人の男を置き去りにしてまで。
別の道はあったのか? 別れを告げることもなく、私たちは私たちの人生を歩んで、公爵と公妃としての栄誉を享受しながら、エックハルトが立ち上がれない時だけ私が自分の中の若葉を無理やりにでも呼び起こして励ますみたいな、そんな人生が可能だと思うか?
多分、それが一番の間違いだ。そんな可能性をちらつかせることすら、若葉と、エックハルト、あの二人の覚悟への侮辱だ。それができないことを皆知っていたし、もし私が若葉のふりをして、エックハルトがそれを見破ったら? あの人は見破るだろう。そんなことになったら、絞め殺されても文句は言えない。いや、文句は言ってもいいか。絞め殺されてしまったらどのみち自分の口から文句は言えないけど。いや、そうじゃない。そうじゃなくて。もしそんなことをしたら、彼をどれだけ傷付けることになるだろう。
「…………」
椅子に腰掛けながら私はこめかみに指を当て、ぐりぐり数回押す。泣きたいような、頭痛がするような気持ちだった。誰も傷つけない、みんな幸せになれる、そんなルートが存在しない。
結局、替えの効かない大事な人の生命が失われてしまったことが、決して解決できない問題なのだ。一人の人間が死んでから、それがどれだけ大事な存在だったか、他の者が気がついたところで取り返しが付くはずもない。私の生命が便宜的に、失われた若葉の生命の代わりを務めていたけど、それは所詮代わりでしかない。私の存在によって死を超えることができるのだったら、みんなこんなに苦悩はしなくてよかったはずだ。だけど、私は私、生きている一人の人間でしかない。そうだろうと思う。そう思うしかない。
エックハルトの約束。それはお伽話じみたもので、実現可能性なんてほとんどなくて、気休めでしかないものかもしれない。客観的に、冷たい目で見れば。だけど、それ以外に道はない。
この世界はあの世界じゃない。だから、この世界があの世界と同じように発展を遂げればいいのか、私には分からない。だって、あの世界でいずれ訪れる破局的な状況が、システムに恐ろしい決断をさせたのだから。だけど、この世界の未来はあの世界の未来よりもっと良くなるかもしれない、そんな可能性の話なんてエックハルトの救いにはならない。だって、彼自身はその未来に行けないのだから。生まれとか身分とか、そんなもので痛めつけられきった彼の精神を究極的に救済する手段は、この世界のこの時代には存在していない。エックハルトはそれを理解していた、正気ではいられないぐらい賢い人だから。だから、彼はあんな風に言った。どうしても自分では別れを告げることができない、でも、それを伝えても何もならない、だから。
エックハルトだけじゃない。きっと私も、別れを告げなければならない。私自身が、私自身として、彼女に。
「……何か、あったのか?」
リヒャルトはベアトリクスを抱き上げながら、私の側に立って、私の顔を覗き込んでいた。逆光になっていて顔はあまり見えなかったが、声は優しかった。
「……あなた」
私の声は嗄れていた。自分が泣いていることに、私は気がついていなかった。
この悲しさは、私のものなのだろうか。それとも、あの『若葉』の、私の中に残った感情なんだろうか。
私は実のところ、もう一つ問題を抱えていた。それは目を背けてさえいれば、新たな問題には波及しなさそうな、小さな問題。だけどそれだけに、解決することが難しい問題だった。
いろんな偶然の積み重なりでエックハルトが私と『若葉』の関係を理解してしまったのとは違って、リヒャルトは、私の中にいた『若葉』という人格と交流したことはない。名前や、知識については把握していても、それが私の中で思考する主体として、ある意味私の別の側面だったことは知らないのだ。
それは半分は彼女の意図するところでもあった。災厄撃退前は、『若葉』は『アリーシャ』の人生を成功に導くことに心血を注いでいた。そして災厄撃退後は、誰も知らない、きっとエックハルトだけのヒーローとして、少しずつ世界から本当に消えていく自分を受け入れようとしていた。
だから、私は若葉のことを、リヒャルトにちゃんと説明する機会はなかった、これまでは。
だけど、これからも同じでいいのか? 若葉は、私の中で欠かすべからざる重要な一部分で、リヒャルトは私の大事な人だ。私は私に関する大事なことを、リヒャルトにちゃんと説明していない。そして、私の中の若葉は、きっともう、いない。ということは、全ての意思決定の責任が私にあるということだ。
じゃあ、全部説明できるのか。若葉が私の人格の一部で、エックハルトが若葉を愛していて、今しがた若葉はエックハルトに別れを告げてきたと。それは、私がリヒャルトを裏切っていることにはならないのか? たとえ愛の行為に類することは何も(最後の若葉の行動を考えれば、ほとんど何も、というべきか)していないとしても。
だとしても、言った方がいいのかもしれない。私はリヒャルトを愛していて、エックハルトを愛していない。だけど、だとしたらエックハルトが若葉に告げた言葉まで、私はリヒャルトに教えられるか? それは無理だ。あの人の心までは、私はリヒャルトに渡すことはできない。それは、私の責任の範囲を超えている。
じゃあ、私が言えることって何。今のこの私が、自分の人生を生きる上で、自分のために選べる言葉って何。
「……『若葉』が、消えてしまいました。残っているのは、思い出だけ」
「……そうか」
リヒャルトはベアトリクスを下ろすと、私の肩に手を置く。私が『若葉』の消失を恐れていたことを、彼は知っている。その時私が恐れていたのとは、全く違った消失なのだけれども。
「……ごめんなさい、うまく説明できなくて。何と言っていいのか分からないのです。私たちは、これまでと同じように生きていけるかもしれません。私たちが、何かを失ったわけじゃない。でも、彼女はもういない」
今は私がベアトリクスを膝の上に抱えている。彼女は眠そうで、少しだけ不服そうな顔をして私の裾を掴んでいる。ベアトリクスには私の言うことは理解できないし、リヒャルトにだってきっと理解はできない。
「エックハルトは…………」
私はそこで言い淀む。言葉を続けることができない。水の中で呼吸する魚が、俎板の上では酸素を求めて喘ぐように私は口を動かす。
「あの人は、善人です。私とはあまりちゃんと理解し合えたことはなかった、だけどあなたには誠実で、忠実です。忠義だと言っていい。あなたを裏切ることは決してない。だけど、あなたには彼は救えない。そして、私にも」
若葉にはエックハルトが救えた、だから、そう言うことはできるか? でも、そうは言えない、言いたくない。だって、彼はまだ救われてはいないのだ。彼が救われるとしたら、あの当てのない約束の先にしかない。そして、それを口に出してしまったら、その実現可能性によって打ち砕かれてしまいそうで、触れることすらできなかった。私にはそれに触れる権利はないのだ、触れていいのは彼女だけ。
たぶん、私がリヒャルトに向ける言葉としては筋が通っていないだろう。私は縋るような眼差しを彼に向けていたのかもしれない。
長いこと沈黙しながら、鋭い青い目でリヒャルトは私を観察していた。
「……そうか」
やっと言葉を発した彼は、再び私の肩に手を置く。その手には力が篭っていた。
「今は言わなくてもいい。いつか、話してくれ。……エックハルトと、彼女のことを」
「……リヒャルト」
私は改めて、彼の顔をまじまじと見つめる。私のこの言葉だけで、リヒャルトは二人に何があったのか察したんだろうか? そうではなくて、私が若葉のことと、エックハルトのことに言及したことを言っただけかもしれない。いずれにせよ、私が二人について話していないことがあって、それをいつか話さなければならないことを彼は知ったのだ。
「エックハルトは、私のただ一人の家族なんだよ。もちろん、お前たちと築いているこの家族ではない、生まれた家の家族の一員、という意味だが。兄貴に関する大事な話だったら、私にも知る権利があるだろう」
「……そう、でしたね」
リヒャルトはエックハルトを、兄と考えているのだった。一方のエックハルトは曖昧で、弟相手のように振る舞うこともあれば、重要な存在ですらなく、取るに足りない臣下の一人として殊更にへりくだることもある。
「あの人がこれから進む道は、ここからさらに困難になるかもしれません。私たちにはきっと、見守ることしかできない。でも」
「ああ」
私の肩に置かれたリヒャルトの手を、私は握る。
あの、糸が切れそうなぐらいに張り詰めた少年と、この人は同じ人間なのか。私に出会ってから、毎年毎年リヒャルトは成長していた、今もリヒャルトは、常に現在を見据えて、見極めている。それは、彼が複雑すぎる人生の中で、どうやったら誇り高い自分であれるかを模索して生きてきた事実の積み重ねが作り上げた本然だ。リヒャルトの力は、先に進むための力だ。リヒャルトがリヒャルトの人生を歩むために、彼は私を必要としていた。私自身は賢かったり強かったりはしない、だけど、私には彼の世界を広げることができる、それは他の誰にもできない。そうして私も、彼と同じ世界の広さを生きることができる。彼と一緒のこの世界の広さを。
エックハルトは全く違う。彼がその身に抱いているのは、この世のものではない愛だ。そのために凄まじい集中力で、自分自身の精神を研ぎ澄ましている。それを信じていることができる自分、ずっと同じ自分であるように。
この世の愛に生きる弟と、この世ならぬ愛に生きる兄。
私はこの世界の人間。リヒャルトもそう。私たちはこれからもずっと、この世界で生きていく。私たちが見届けられない未来のために、暗闇の中の跳躍をこれからも、数限りなく続けていく。それは私が、私自身であって私自身では決してない、最愛の二人のうちの一人、若葉にできる唯一の約束だった。
「……この子が大きくなる頃には、皆が幸せになっているといいな」
私の膝の上で眠ってしまったベアトリクスを覗き込みながら、そんなことをリヒャルトは呟く。
ベアトリクス。元々は航海者を意味しており、幸福の運び手という意味もある名前だ。幾多の困難もあるだろう人生を泳ぎ切っていけるように、そして、彼女自身の世界をその目で見ることができるように、リヒャルトが名付けた名前だった。
「幸せになりましょう。私たちの現在を、それから、未来を生きて」




