第10話 タイムマシン行列理論
ディスプレイに表示されていた文章は、こんな感じだった。
『……タイムマシンが時空間に及ぼす作用を、ミンコフスキー時空において記述する試みは従来より行われてきた。しかしながらそれらの議論は、物理数学的取り扱いの厳密さを要求するためにエネルギー論に終始し、却って本来の目的に対する結論から遠ざかっている。
この本来の目的とは「望み通りの歴史を実現するために、タイムマシンをどのように動作させれば良いのか」という題目と位置付けることができる。これは解が既知でその達成手段が未知という逆問題的アプローチを必要とする。
そのような逆問題的アプローチを可能にするため、本理論では以下のような定式化を行う。
定式化1 タイムマシンが作用する対象である時空間のすべての要素を、無限次元のベクトル v で表現する。一般にはこの v は全宇宙空間の始まりから終わりまでを意味するが、 タイムマシンによる時空変換が相互作用しない領域は独立に取り扱うことができるので、実用上、地球上でタイムマシンが動作した時間領域だけを対象とする。
定式化2 タイムマシンによる v の変換を考えるため、新たにタイムマシン作用軸 m を導入する。ここで、時空間の座標に対応する全要素はベクトル に内包されるため、陽に取り扱う必要がない。
定式化3−問題の取り扱いを容易にするため、2の定義に加え、タイムマシン作用軸上での離散化を行う。すなわち、タイムマシン作用軸 m = 0 にあった全時空ベクトル v(0) は、m = 1 にてタイムマシンの作用による変換を受け、以下のようになる。
v(1) = Tv(0)
この行列 T をタイムマシン行列と呼称する。
これらの定義をもとに、全時空ベクトルとタイムマシン行列の性質について考えていくと、以下の性質が自然に演繹される。
性質1 タイムマシンは変換前の時空間により動作が決定するため、この T は変換前の全時空ベクトル v の関数となる。
性質2 自己無撞着的に導かれない全時空ベクトルは安定に存在しない。
これらの性質について、簡単な例を考えてみたい。
タイムマシン行列の作用によって
v' = T[v] v
v' = T[v'] v'
となった場合を考える。
これは、「最初のタイムマシンの作用によって最初の歴史が別の歴史に変化し、その後は別の歴史が固定される」というケースに等しい。これはタイムマシンによる歴史改変の最も理想的なパターンである。この際、変換前の全時空ベクトル v は不安定解、変換後の全時空ベクトル v' は安定解といえるが、この状態に達することができるかどうかは自明ではない。
さらに重要なことは、実験者にとって v' が望み通りの歴史となっているかは自明ではない。そのため一般に、ベクトル v' は新たな時空変換 T[v'] ≠ 1 を生成する。
我々の目的は、目的とする全時空ベクトルを安定解、あるいはループ安定解として存在させることである。
ここでループ安定解の定義を行いたい。全時空ベクトルのループ安定解とは、「全時空ベクトル v0 が複数回のタイムマシン行列変換を受けた後に、また元の全時空ベクトル v0 に戻ってくる」という性質を持つ v0 を示す。これを式で示すと
v0 = T[vn]T[vn-1]…T[v0] v0
ただし
vn = T[vn-1] vn-1
となる。性質1を繰り返し用いると、上式は以下のように書き換えられる。
v0 = Tn[v0] Tn-1[v0]…T[v0] v0
Tn = T○T○…○T
この性質を満たす v0 を、実験者が実現したい歴史を与える全時空ベクトルの近似解として求めることが、タイムマシンによる歴史改変の究極的な目的となる。
このための必要条件として、det T ≠ 0 が要求される。さらに安定的な時空変換を与えるための条件として det T = 1 が予想されるが、数学的には証明されていない。……』
こんな文章が、延々とディスプレイを流れている。
私は呆然とした。
こんなの知らない。こんな文章は見たことがない。
何か、未来の科学の理論を示しているんだろうか。タイムマシンに関する科学論文だとしたら、そんなの私に分かるわけがない。
そもそも、『システム』は、この先に進ませる気はあるのだろうか。
この部屋に開きそうな場所はなく、あるのはディスプレイだけ。
前世の世界の人間であればギリギリ解けそうな問題を出してきたけど、それがどんな意味があるのかは教えてはくれなかった。
むしろ、悪意のある罠だったのかもしれない。
そんなことは誰も何も、教えてはくれない。
ここまでなのか。
「う、わああああ……ああああああ!」
私は叫ぶ。
せっかく、ここまで来たのに。
やけになり、私は拳でディスプレイを叩いた。
私の手がディスプレイに触れると、それに反応して、ディスプレイが淡い、光を放つ。
その黄緑の光は、画面の中央に集まっていって、やがて一つの形を取る。
小柄な女性の人影。
『新井若葉』、だった。




