第6話 歴史の歯車
「…………」
リヒャルトは鋭い目でその顔を見る。彼女は顔を上げようとはしない。椅子の上で肩を落とし、視線を足元の床に投げている。そこにある見えない何かを凝視するかのようにその目は見開かれている。
アリーシャだ。呼び出しには応じたものの、いつもとは明らかに様子が違っていた。絶望したような表情で、寒さに耐えかねているようにすら見える。
ここはリヒャルトの書斎だった。アリーシャにとっては久しぶりの場所だった。彼女の様子を聞き及ぶに、多数の人々の同席の下で話を聞ける状態ではないと判断し、リヒャルトは彼女をここに呼んだのだった。
外の光は明るいが、それと対照的に室内は暗い。その部屋の暗さよりもアリーシャの目は今は暗く、光が消えているようにリヒャルトには見えている。
まあ、あれを見たのだから、と、リヒャルトは思った。
蒸気機関車の公開実験にて現れた超巨大災厄。それを目撃した時にも、アリーシャはリヒャルトの側にいた。その恐怖に竦み上がった表情をリヒャルトは思い返してみる。自分だって恐怖したし、目撃した人間の皆がそれは同じだっただろう。
それから十日余りが過ぎており、リヒャルトはその後、体制を立て直し始めていた。客人の安全を確保して帰路につかせる。あれを目撃した市民の恐慌状態をなんとか収め、また首都内での衛兵の配備によって混乱に伴う治安悪化を統制する。そんな仕事に没頭することで、少なくとも自分の中だけでは冷静さを取り戻すことができていた。
一方のアリーシャだ。彼女のことだから、今回の混乱に打てる手を進言してきても不思議はなさそうだが、沈黙を保ったままで、それどころか自室に引きこもっているとのことだった。前に彼女が言っていたが、災厄を支えている技術はアリーシャが知っているものより高いらしい。そのため打つ手が思いつかない、ということは有り得た。
(……それにしても)
リヒャルトは訝しむ。以前、遺構の攻略作戦で、敵方から放たれた砲門の一撃を目にしても、アリーシャは冷静だったのだ。あの超巨大災厄の攻撃はその印象すら塗り替えるものだったが、今回はアリーシャの方が怯え切ってしまうのはどうにも腑に落ちない。
「……例の災厄は去っていった、例によって。だが、今回の場合、それだけでは終わっていない。各地の災厄と、遺構の様子が変化している、と、そういう連絡を受けている。……聞いているか?」
リヒャルトの言葉に、アリーシャは無言で頷く。心ここにあらず、というわけでもないようだ。
「お前は、何か分かるか? 現在の状況について。根拠がなくても、断片的でもいい。思いつくことがあったら、何でもいいから教えてくれ」
「…………」
なおも黙り込むアリーシャに、リヒャルトは歩み寄る。
「……できません」
「アリーシャ?」
それから、堰を切ったかのように、アリーシャは捲し立て始めた。
「私は、あれが歴史を変えてしまうことを知っていた。あれが、いつ、どこでできるか、それだけで全く変わってしまうことを知っていた。それなのに、私は。私は引き金を引いてしまった。私は。私は。私は、偉そうに講釈なんてしてはいけなかった、あんな風に。『その歯車が噛み合っていって、誰もその先を見る人がいなければ、どこに向かって行ってしまうのか分からない』なんて。それを知っているのに、理解していなかった。できない、できません。私はそれができるほど賢くなんてない」
アリーシャは頭を抱える。その絶望的な目には、リヒャルトは映っていないかのようだ。
リヒャルトはアリーシャの前に立ち、その肩を両手で掴む。その手の力に、アリーシャは身を固くする。
「こっちを向いてくれ、アリーシャ」
弾かれたように、アリーシャは顔を上げる。
「お前は、私の未来を見届けてくれるんじゃなかったのか」
その約束の言葉、そう言ったのは彼女の方だった。そんな過去の言葉で縛るような資格だって、もうないのかもしれないが、とリヒャルトは思っていた。そんな風に言ってくれた彼女を、彼は裏切ったのだから。
リヒャルトの裏切り、つまりアリーシャの『公妾』の件は、彼にとっても苦しく、同時に心を擽られる話だった。確かにそれは宮廷の要請で行ったことで、リヒャルトは渋ったが最後には折れた。だが、全く意に染まない、気に食わないだけの無理強いに屈したのかと言ったら、多分そうではないとリヒャルトは認めざるを得ない。アリーシャと恋愛関係になるには、これ以外の手段はなかった。彼女は年上でもあり、何もしないでいればいずれ自分の手を離れていく存在だった。
だからある意味では望んだ結果なのかもしれない。理性的で分別があり、誇り高い振る舞いをしようと努めている意識下のリヒャルトではなく、人間の皮を剥がせば誰にも存在している、打算と欲望のみに基づく合理性に突き動かされる無意識の彼が望み、その通りに行動した結果だった可能性をリヒャルトは否定できない。
でも、こんなのは望んでいない。やっぱりこんな在り方は、アリーシャと自分には全然しっくりこないと、ずっとリヒャルトは考えていた。アリーシャには戦友でいて欲しい、そんな言葉すら間違いかもしれない。親友でいて欲しかった、同時に彼女が彼の欲望の対象で、ただ一人の恋人になりたかったとしても。君主と愛妾、そんな風にあらゆる意味で対局にある男と女として振る舞う、それは深い人間理解を遠ざける。彼女は違っていて、だから彼女に惹かれたはずだった。
自分は愚かだと、リヒャルトはそう思う。公妾として遇している現状でどの面下げて言えるのか、それに自分の望むことが女性に対する正しい態度、考え方なのか、リヒャルトには分からない。男の中の男を演じている、それでいて相変わらず、自分の殻を破ることすら出来ていない彼の側にいてくれるというのに。
『だから、私は。あなたの側で、あなたがどこに向かうのか、その未来を見届けたい。駄目、でしょうか』
そうリヒャルトに告げたアリーシャ。あの時のアリーシャの目を、リヒャルトは忘れられない。それと同じ目で、もう一度自分を見てほしい。リヒャルトが今アリーシャに望んでいるのはそれだけで、それは笑えるほどささやかで、同時に強欲すぎる願望だと、リヒャルトは思っていた。
だが、とにかく今は自分たちのことより、未来のことだ。ここで災厄、あるいは自分たちの運命を捻じ曲げようとしてくる何かの力に屈してしまったら、リヒャルトの未来も、アリーシャの未来も、それから他の誰の未来もきっと閉ざされてしまう。
リヒャルトは君主、支配者だった、その義務と存在意義において。どれだけアリーシャから嫌われようと変わらない、それは彼女にすら変えられない運命だ。だから今のリヒャルトには、今はその言葉を語りかけることしかできない。
「お前の言う、その言葉も。それからそのことで、今のお前がどれだけ辛い思いをしているのかも、私には分からない。だけど、私は、それでも戦え、と言うしかないんだ。許してほしい」
「……殿下。リヒャルト様」
アリーシャはその大きな、怯えた暗い目で、やっとリヒャルトの目を見返した。




