第3話 四年間、そして前日
ここまで俺が見てきた蒸気機関車の公開実験前のあれこれを話してきたが、じゃあこの俺がなんでこんな話をしているのかと言ったら、俺が過ごしてきた四年間について語らなければならないだろう。
『ヘロンの蒸気機関』の献上後、俺は『蒸気機関車』の完成に携わる技師見習いとして、公爵直属の工房で働くことになった。同時に勉学も支援してもらうことができ、順調な人生航路を踏み出すことができたと言えるだろう。だが、勉学と技術研鑚、それは長く、先の見えない道程だ。これだという出来事はなくて、工房と学校の行き来に明け暮れていた、という他はない。時々アリーシャのアイディアで、妙な機械を作らされることもあったのだが、その話ならアリーシャの方が詳しいだろう。
アリーシャの出処不明の知識については言及しておかなければならない。蒸気機関も、蓄音器も、ジャガイモの疫病とやらも。最後の話はまだ結論が出たとは言えなかったが、何とか無難な線で収まりそうだった。そうでなかったらこんな蒸気機関のお披露目なんてやっていられなかっただろうから。
姉が突然天才になったかと言われると、そうではないような気がする。アリーシャは物事に取り組む速度が格別速いわけではない。例えば本の読み方だ。俺だったら、一冊読んで内容をだいたい把握したら、次の本に移りたい。アリーシャは違う、気に入った本を何度も読み返して、その内容の細部まで覚えている。昔からそんな感じだった。そして、その出処不明の知識。何と言ったらいいのだろうか、まるで一冊の本がばらけてしまって、そのバラバラのページを眺めているような感じだった。
とにかく、蒸気機関車については、俺の方が貢献度は高いと言っていいだろう。いやどうだろうか。根本原理については、アリーシャがいなかったら何もできなかったかもしれない。だが、技術的貢献度は俺の方が上だった。
もちろん、最初からそんな豪語ができたじゃない。俺は言わば徒弟だった。その師匠と言えたのがこの工房の長、ウワディスラフ・エミルだ。
ウワディスラフ・エミルは元がこの国の人間ではない。東方の国から旅をしてきて、厚遇を受けられるこの国に最終的に落ち着いた、とのことだ。俺が初めて会った時から五十ぐらいに見えていたが、本当はもっと若かったらしい。人類の発展に供するような技術を手掛けることがウワディスラフの希望であったようだ。この小国の小さな工房では、できることは限られていたが、それでも俺たちは希望を持っていた。彼は頭の切れとは裏腹に穏やかな人で、いろんなことを教えてくれた。
そんなこんなで、技師としての俺の人生の始まりは、比較的恵まれていたと言える。『蒸気機関車』の公開実験はそして、華々しい主舞台となるはずだった。
いよいよ蒸気機関車の公開実験が迫った、その前日のことだった。夜中遅く、俺は工房にいた。もう暗いので何か作業ができるわけではないし、ランプの油を無駄にするのも申し訳ない。製図机の前に座って、俺はずっと考えていた。
「緊張してるのかい、ヨハン」
「……先生」
ウワディスラフだ。俺は彼を、時々先生と呼んでいる。
ウワディスラフの姿だけから、強い印象を受ける者は少ないかもしれない。背丈は小柄で、アリーシャなんかよりも確実に低いし、猫背で頭は半分禿げ上がっている。若い頃に鍛冶の仕事をしていたせいで視力をやられており、この時代では珍しくいつも丸眼鏡をかけていた。そのために、俺たちには溶接なんかの安全管理にはうるさい。丸眼鏡の奥の目は小さく、鋭い印象ではない。逆に、優しい目だとは言えたかもしれないが。
「俺は別に、ただの運用技士ですから」
俺はそう言った。公開実験での俺の役目は、蒸気機関車の運用中、その燃焼火力を監視し、実験中に一定の速度が保てるように作業することだった。弁舌爽やかにその動作原理を説明する機会があったりとか、華々しく注目されるわけじゃない。むしろ、率先して埃と灰を被ることになる仕事で、上流階級である聴衆には特に覚えが悪いかもしれない。聴衆への蒸気機関の原理、それから実験内容についての説明はウワディスラフの役目だった。
「君がいなかったら実験は成り立たないよ。一番重要な役目かもしれない」
そう言って、ウワディスラフは俺の隣に座るのだ。
「むしろ、私が代表みたいな顔をしているのが間違いなんだ。実際にこの計画を手掛けたのは君で、私は君を指導しただけだからね」
俺は少し考えてみる。
「どうなんでしょうか。姉なのか、俺なのか」
根本原理と技術提供。蒸気機関はその両輪で、どちらがどちらとも言えなかった。
「君たちは才能に恵まれているね。それぞれ、別の才能に」
「……才能」
俺は繰り返す。
アリーシャは幼少の頃は口下手だった、今よりもずっと。それに少し吃音があった。だから馬鹿だと思われていたのだ、実際よりもずっと。本人なりに苦労して直したのだが、今でも考えながら喋っている時には途切れ途切れになることがある、それが辿々しく聞こえたりもする。そうやって考えていること、その思慮深さの方を認めてくれる人間なんていない。それに、劣っている部分を直して、人から遅れを取らない努力をして、それに成功したところで、人からちゃんと認めてもらえることは意味しない。余人に優れた部分を理解させることができないのなら。
その特異性、一見の理解の難しさをもってなお、天才と称えられる人間の才能は、傍目に見えているよりずっと凄まじい。アリーシャにあるのは中途半端な才能だけで、そんな才能は得てして本人が持て余すだけで終わる。俺は多分、持て余す中途半端な才能がなくて、自分の貧弱な能力を把握して、それを活かすことに全振りしていた。それが俺とアリーシャが、一見ではこんなに性格が違う、その理由になっていたんだろう。
「…………」
俺はずっと考え込んでいた。そんな俺を、ウワディスラフは笑う。
「君たちが羨ましいよ。そんな風に自慢できる家族がいるんだから」
ウワディスラフに家族はいなかった。彼はその家族を、正確にはその家族の墓を、その出身であった東方の国に残してきている。その地に起きた戦火で家も畑も家族も何もかも失って、その能力だけを頼りに西方の国へ流れてきた。
この話は、ウワディスラフは自分の不幸な境遇を乗り越えて、その能力を存分に発揮することに成功したんじゃないかと、その悲しみこそが彼を強く、賢くしていたということじゃないかと、そんな風に響くかもしれない。でも俺には分からない。ウワディスラフが俺の目に見えている通りの人間だったのかも。それを確認することは、永久に不可能になってしまった。




