第2話 公宮のヴィルヘルミーナ
それから一週間、俺は公宮に何度か出入りする機会があった。姉のアリーシャもこの公宮のどこかにいるはずだが、あまり会う機会はなかった、別に構いはしないが。離れて暮らしている家族だからって、毎日毎日会わなくても構わない。時々会って近況報告が交換できれば、元気そうだと分かればそれで十分だった。なんせ、今や身分違い、ということになるのかもしれない。形式的にはまだ未婚の女、でも実質は別の家に入っているのだから。
それよりも珍しい人間たちが公宮をうろついていたので、アリーシャのことまで気が回らなかったと言ったほうがいいのかもしれない。その日見たのも、そんな人物の一人だった。
「ああー! もう、駄目ですわ!」
独り言にしては華々しいその声に、俺は中庭にいた人物が誰なのかをすぐに理解した。例の、殿下の元婚約者殿、ヴィルヘルミーナ嬢だ。
何が駄目なのか。俺が駄目なのか。俺はそちらの方を見る、だがヴィルヘルミーナ嬢はこっちを向いているわけじゃない。
画架を立てかけて、ヴィルヘルミーナ嬢はそれに向かい合っていた。絵を描いていたらしい。と言っても油絵などではなくて、大きな紙にスケッチするのにそんなものを使っていたようだった。
ということは、駄目だと言ったのは、自分で描いていた絵のことだったのか。俺は思わず、その絵を見る。それなりに離れていたので、覗き込んだというほどではなかったが。
中庭の真ん中に生えていた、すらりと伸びた楡の木が彼女の画題だったようだ。上手い絵とは言いかねた、というか、写実的ではなかった。写実的に描くよりは、目に見えたものを装飾的図柄に落とし込むことを目的として描いているようにも見えた。こんな子供で、技術的に高いわけでもないから、絵自体の客観的価値を真剣に考えなくてもいいだろう。だが、それは何故か、俺にとっては羨ましかった。きれいにまとまっているとか、それを見せて誰かに褒められるとか、そういうことを考えて描かれてはいないのかもしれない。力強い線、白い紙に黒のペンでその絵は描かれていた。
「集中できませんわ。途中の作品を勝手に見るのは失礼ですわよ」
ヴィルヘルミーナ嬢は振り向いて俺を睨み付ける。
「そりゃ失礼」
彼女の様子に俺は改めて目を向ける。こんな作業をしていながら、彼女の服装は相変わらず豪華だ。服が汚れることを気にしないのだろうか?
だが、それ以上に問題があった。
「鼻。付いてるぞ、インクが」
そう言って俺はハンカチを差し出す。普通にペンを使っていて、そんなところにインクが付くか? その様子は、この女の豪華な衣装にも似つかわしくなくて、まるで悪ガキだ。
昔アリーシャ相手にも顔を拭く布を差し出したことがあった、それを俺は思い出す。大丈夫、今回は綺麗に洗濯されたハンカチだ。拭けば拭くほど汚くなるボロ布じゃない。ヴィルヘルミーナ嬢は流石に慌てたようだった。彼女が拭き終わる前に、俺はその場を立ち去る。
なぜか俺は悲しかった。この状況に、その立場にはあまり似つかわしくない、ヴィルヘルミーナ嬢の屈託の無さが。アリーシャだって、昔は屈託がなかった。その屈託のなさは、二人で違ってはいるが。大人しくて控え目で、お前はそんな女だったか? 本当に。
俺はこの四年で成長したし、アリーシャも成長した。大人になったってことだろう。だが、大人になる代償に、俺たちが何を失ったのか、俺にはよく分かっていなかった。




