第7話 真夜中の遭遇
それから、半刻ほど経っていたと思う。
私は公宮のバルコニーにいた。夜着(って言ったってセクシーなものをイメージしないで欲しい、シンプルな綿のワンピース型の寝巻だ)に厚手のショールを羽織っただけの格好で、今のアリーシャの身分には相応しくないかもしれないが、誰も見ていなければ関係はない。真夜中の風は冷たかったけど、私には気持ちが良かった。だって満月に近い月が天頂近くにあって、明るいぐらいだった。前世の私だったら、暗いと感じたかもしれない。だって元々の目は暗い色をしていたし、近視でもあったし。今はアリーシャの感覚、アリーシャの目で見ているから、暗さはそんなに苦にならない。むしろ夏などは日の光が強すぎると感じることもあるぐらいで、違いはこんなところにも現れるのは面白い。
「……アリーシャ、ごめんね」
私は呟く。ただ、アリーシャが眠っている間に、ちょっと若葉の意識のままで、外をほっつき歩きに出たというだけだったが。ただこの場合、私が私として見聞きしたことを、アリーシャが自分のこととして捉えられない可能性がある。
アリーシャも最近ではしっかりしてきたし、受け答えも堂々としてきていた。この分だと、ピンチになったからって私がしゃしゃり出ることもないかもしれない。何よりこれからはアリーシャ自身が相当にタフにならなければならない。エックハルトごときに相対したところで、物怖じしている場合じゃない。
「……あなたでしたか」
私は顔を顰める。
「ちょうど、あなたのこと考えてたわ」
「光栄ですね」
「いい意味じゃないけどね?」
お察しというかなんというか、エックハルトだ。公宮でのお勤めの時のいつもの服装で、小さな燭台を手にしていたが、蝋燭の火は今は消えている。
「どんな意味でも光栄ですよ、あなたが私のことを考えていてくれるのなら」
そんな彼の言葉に、私はもう一度顔を顰める。
「そういうお戯れはやめていただけません? 私だって本当は、あんまり納得行ってないから。リヒャルト様にも、それからあなたにも」
ことさらに突っかかる言い方をする私だけど、エックハルトは薄く微笑む。この顔、それから言い回し。この男は気がついている、私が今、若葉の方だということに。最初の一言は探りを入れていた、だけど二言目は確信めいていて、三言目は完全に分かっている口調だった。
「じゃあ、あなたの苦情を伺いましょうか」
「言ったところで何にもならないでしょ?」
「その割には随分、言いたそうですが」
「…………」
私は軽く歯軋りする。
リヒャルト様にだって、当然エックハルトにだって、この状況を容易に動かせるわけじゃなかった、それは分かり切ったことだった。
よくある異世界転生ものの物語では、王子様が婚約者たるご令嬢と婚約破棄する場面が出てくる。それは大体において、王子様にとってその婚約が意に染まなくて、別の愛する人を見つけたために、邪魔になった女を計略によって排除するという筋立てなわけだけど。それは所詮私達には他人事だから、その行いを褒めたりもしなければ責めたりもしないけど、ここでは少し事情が違っている。
元の私の世界の歴史でも、王権の世襲が当然とされていた時代においては、王位継承者はあくまで血筋に固執する必要があった。この世界は、元の世界とは宗教や哲学のあり方が少し違っていて、王権の根拠となっていた思想も少し違う。だけど王権にしかるべき裏付けを求めることでは元の世界の歴史とよく似通っていたと思う。こんな風な婚姻関係における政治的側面の強さは、それらの当事者であることを必ずしもロマンチックな方向には向かわせない。
それを理解することで、元々リヒャルト様とヴィルヘルミーナ様の間で結ばれていた婚約関係、それからその後の経緯についても、もう少し理解ができる。ランデフェルト公国の心許ない権勢と、その中でもしかるべき支配権の根拠を示すことに縛られている彼らにとって、いわゆる婚約破棄ものの王子様みたいな、あるいは歴史上の人物では、その権勢を拡大しながら何度も何度も女を取っ替え引っ替えしたイワン雷帝のような専横はまず不可能と言っていい。ヴィルヘルミーナ様との婚約は自分のためじゃなくて純粋に国益のためだった。そんな要求に唯々諾々と従っていたリヒャルト様は、冷たい人間だったというより、その義務に縛られていたと言っていい。
一方のヴィルヘルミーナ様にはそんな義務はなかった、だって彼女は君主ではないから、その親であるリンスブルック侯爵は君主だけど。結婚したくないヴィルヘルミーナ様は、目一杯我儘な娘として振る舞って、迷惑をかけるぞと親を脅して、リンスブルック侯爵の側から折れさせたらしい。
でも、この男どもは。そんな幼気な少女の心遣い、骨折りを好機として活かすこともできないぐらい、情けない男たちだったということだ。
「で、これがあなたたちのやり方なわけ」
「やり方とは?」
「あんまり口にしたくないんだけど? 『公妾』とかさあ」
「そんな風に聞こえますか? 卑しい響きだと」
そう答えたエックハルトの語尾には、どこかしら刺がある。少し私は鼻白む。
そういえばこの男は女に戯れの軽口を叩いてさえいれば満足っていうような甘ったるい男じゃなかった、本質的には。それに血統において、エックハルトは考え方によってはアリーシャよりも貴い、だけど別の考え方をするとアリーシャよりもずっと卑しいのだ。特に、嫡子かどうか、正当な婚姻関係に基づいた生まれかどうか、その問題においては。
「卑しいとか卑しくないとかじゃなくて、あのさ。あなたたちの血統ゲームに、アリーシャを巻き込まないで欲しいんだけど。巻き込まれた結果の今があるんでしょ、自分だってさ」
この『公妾』の要請をエックハルト自身が行ったわけではない。だけど、アリーシャのような身分の者をその地位に付けること自体、結構な綱渡りが必要だと思う。それなのに準備万端整っていたこと、それを考えれば、その準備の過程ではこの男が噛んでいる、確実に。
「私はただの男ですよ。身分もなければ、後ろ盾もない。現状を変えるような力はない。あなたが、あなたたちがと申し上げた方がいいですか? とにかく、あなたが侮られないような身分を彼らに保証させるために駆けずり回るのがせいぜいって所です」
「……ごめん。言い過ぎた」
私は謝る。だが、エックハルトは言いやめなかった。
「私だって、やりたくてやっているわけじゃない。与えられた義務を果たさなければ私は無だ。私がやりたいようにやったら、どうなると思いますか? 想像したくないでしょう、あなただって」
「…………。ごめん、ってば」
エックハルトの口調には、どこか絶望的な響きがあった。私は拳を握り締め、低い声でもう一度謝る。
「……申し訳ありません。こんな話をするつもりじゃなかった。……あなたもそろそろ、お帰りになった方が宜しいかと」
そう言って軽く一礼すると、エックハルトは踵を返す。
「お休みなさい」
その言葉を最後に、彼はさっさと歩み去り、建物の暗がりに見えなくなる。私はぼんやりその姿を見送ると、また月の光に目をやる。
アリーシャは眠っている。
そして、私が今感じている、このなんとも言えない悲しさを、アリーシャはきっと知ることはない。
知らなくてもいいんだ、私のアリーシャは。
とまあ、こんな感じだった、アリーシャとリヒャルト様の、根本的な関係の変化に関する出来事は。
アリーシャにとっては、絶妙にプライドを削いでくる身分の問題を抱えながら、誇り高い身の処し方を模索する苦しい時期で、でありながらもそれは愛する人から愛されている証拠でもあるという、なんとも悩ましい話だった。
だけど私はこれが、ハッピーエンドへの布石になるかもしれないと思っていた。だって、そうでしょう? アリーシャとリヒャルト様の身分の違いはいずれにせよ避けて通れない問題だ。そして、問題の根幹である『リヒャルト様の権威を支える然るべき裏付け』をこちらが提供できさえすれば、勝機があるゲームだということだ。
そしてきっと、エックハルトは私と同じなんだろうと、この時の私は考えていた。
あくまでこの物語の主人公はアリーシャとリヒャルトで、新井若葉やエックハルトではあり得ない。例え私たちが物語をハッピーエンドに導くためには不可欠な存在だったとしても、若葉やエックハルトがハッピーエンドの主役になることはあり得ない。私たちは私たちの役回りを立派に勤め上げるだけ、それしか選択肢はないのだと。
だから、エックハルトはきっと、そのことが引っかかっているのだろう。でも『若葉』としての私は、その点ではエックハルトと同じなのだから、私だったら彼を理解してやれると、そう思っていた。
でも、それはきっと間違いで、この時の私はエックハルトのことをまだ理解はできていなかった。
とにかく、私は負けるつもりなんてなかった。その方法はまだ分からないけど、私の貧弱な知識を総動員してもそれを実現するつもりだった。
果たして、私がそれを手助けできるのか、そしてその結末を見届けることができるのか。
この件に関する成り行きは、私がこの時考えていたのとは、全く違ったものになったのだ。それを『私』が全て語るのは難しく、また長い話になる。




