第1話 公爵殿下のお話し相手
次の年。新帝国歴一一三一年の、春先のことだった。 もう私は二十歳になる。この年には私はメイドではなくなっていたが、職階がはっきりしてはいなかった。メイドとしての労働からは解放されていて、技術相談役としての仕事を多くこなすようになっていた。でもそれは職階ではなかった。それからもう一つのお役目、公爵殿下、リヒャルト・ヘルツォーク・フォン・ランデフェルト様のお話し相手も、職階ではなかった。
「…………」
閉じた瞼を通して入ってくる太陽の光で、私は自分が、うとうとしていたことに気がついた。寝入っていたかもしれない。
「……す、すみません」
私は、ソファの反対側に座っていた彼に詫びた。どうも、こういう謝り方が多いのは、自分でも感心はしない。
ここはリヒャルト様の書斎だった。壁一面を覆う本棚には、天井まで本が並んでいる。厚い布張りまたは皮張りの本で、その内容は刻印されたタイトルからしか判別できない。内容に合わせて凝った装丁が付けられたような本はこの時代ではまだ奢侈品の部類だが、彼がそういう本を所有しているのかどうかは分からない。
今は午後二、三時ぐらいだったろう、窓から午後の陽光が差し込んできている。ティータイムに当たるのかもしれない。
「……別に、いい。仕事じゃないから」
正直な話、リヒャルト様がこれだけ喋ることは珍しい。普通の会話が得意でない、それは本当だった。
学問上のお話で召し出されることとは別に、個人的な『お話し相手』として、私は週一度ほど、リヒャルト殿下の書斎に通される。その実態はほとんど、リヒャルト様の読書のお時間に、ただその場にいるだけのことだった。入室して一言二言会話した後は、彼は静かに本に目を通していて、ほとんど喋らないで時間が過ぎる時もあった。
傍目では執務なのか何なのか分からないところだが、どうやら目下の仕事とは関係のない読書に興じておられるらしい。その時間を意識して作らないと、公私の別がない生活になってしまう、ということのようだった。
問題は私の存在だった。私はこの場ではお話し相手、でもプライベートなお話し相手って何だろう。私が好き勝手なことを喋るとつい、前世由来の雑学の話になって、それは彼にとっては『仕事』になってしまう。意識して作られている余暇の時間に強いて負担をかけるのは避けたい。だが、私は私で、知識の交換のような要素がない、喋るためだけに喋る会話が別に得意ではなかった。
それにリヒャルト様は私を無視しているわけじゃない。不意に口を開くことがあるのだ。そして彼は、頭がいい、残念ながら私より。言いたいことをちゃんと飲み込んで返事をするには、それなりに頭を使う必要があった。それで、そこにある本に軽く目を通しながら、彼が喋り始めるのを待っていることが多かった。
「……殿下と私では、立場が違いますから。せっかくお呼びいただいているのに、退屈させてしまっては申し訳ないです」
「そんなつもりじゃないんだがな」
そう言ってリヒャルト様は、視線を私の顔に向ける。その鋭い目に、私は目を逸らす。意識していなくても彼は鋭い目になっているらしいから、あまりそわそわするのも悪いのかもしれない。
視線を逸らした先には、小さなティーセット。カップにはお茶が注がれていて、まだ湯気を立てている。
「…………これは」
「持って来させた」
(くっ…………)
私は無言で赤面していたと思う。手が震えていたかもしれない。白磁のティーカップの持ち手は金色の縁取りがされていて、不意の手の震えだけでも壊れてしまいそうなほど繊細だ。
カップにティーバッグを入れて、電気ポットからお湯を注いで、自分でお茶を入れるみたいな何気ない日常の動作すら、発達した文明の所産なのだ。この世界ではお湯を沸かすにも炊事場で火にかける必要があるし、そもそもお茶は東方からの輸入に頼った高級品だ。そのためこの時代では、ハーブティの方が一般的だ。だが見たところこれは、お茶そのものだ。
この状況を総合するとこういうことになる。他のメイドか、あるいは侍従が部屋に呼ばれ、リヒャルト様から命令を受ける。彼女あるいは彼は、高級品のお茶を入れろと所望されるのだ。そしてその間、私はソファで眠りこけている。
(流石に、これは駄目じゃない……?)
私はそう思う。せめてお話し相手らしい振る舞いを意識するぐらいはしなくては。上品で知的な、洗練された大人の会話にはならなかったとしても。
「……殿下の、将来の夢は、何ですか?」
「は?」
「……お話させてください。機会がなければ、できませんから」
「お前、突拍子もないな。…………」
少しだけ考え込んでから、リヒャルト様は話し始める。
「……公国からはるか北西に、とある島国がある。そこは南からの海流に守られて、冬でも雪に閉ざされないという。そして盛夏には、荒野を覆う一面の藪が、一斉に青紫の花をつける。それを見ることが、私の昔からの夢、だな」
訥々と、言葉を選びつつ、リヒャルト様は語る。
私は思い返す。映像でしか見た事のないその光景を。
「……ヒースの、荒野」
「知っているのか?」
「……島を取り巻いて流れる南からの海流は、その気温を氷点以上に保つ代わりに、霧を発生させます。そのためその島は、いつも霧に取り巻かれていて、晴れと雨が一日に何度も変わる。高緯度のために冬は薄暗く、代わりに夏には、青い空がずっと、夜遅くまで続いている。白い岸壁が、ガラスのように透き通った薄緑色の海から屹立している」
語りかけるとでもなく、私は呟く。
そう。元の世界と地形は同じなのだ。それが、あの『遺構』で見た地図から分かったことだった。元の世界の地理で言い変えると、ここはユーラシア大陸の西部。とすると、はるか北西の島国とは、グレートブリテン、アイルランド、アイスランド、あるいはグリーンランドのどれかが当てはまる。そのうちヒースの荒野で有名なのはグレートブリテンとアイルランド。今喋った特徴は、その地理について語ったものだ。
「詳しいな」
「い、いえ」
私は少し遠慮する。流石に、元の世界とこの世界で、そこまで特徴が共通しているのかどうかは分からない。
「……行ってみたいな」
リヒャルト様はぼそっと呟く。その様子はいつもとは違っていて、まるで普通の少年のようだ。リヒャルト様だってもう十六歳なのだから、青年と言った方がいいのかもしれないが。
「ヒースの荒野も。極北の海に浮かぶ氷山も、それを照らす緑の極光も。南の大陸の大砂丘も。西の大陸の大瀑布も。世界の裏側にある塩湖の、鏡のようなその湖面も。行こうと思えば、行けるはずです。行こうと思わなければ、永遠に辿り着けない。いつか、行きましょう」
そんな私の言葉、言ってしまえば妄想に、リヒャルト様は少し呆れた様子だった。
「……お前な。予算をいくら付ければいいんだ、それには。支出の根拠もないだろう」
「……すみません」
「そこまで本気で言ってない。……大望だな、つくづく」
そんな感じで、私の立場はいろいろな意味ではっきりしていなかった。リヒャルト様がどういうつもりで、こんな時間を持たれているのかも。でもそういえば、私がお願いしたんだっけ、元はと言えば。
そんなはっきりしない身分で、でも結構良い扱いに私は甘えていた。そんな私とは対照的に、自分の人生の地位を少しずつ、でも着実に築き上げている者がいたのだ。私の弟、ヨハンだった。




