第6話 エックハルトの記憶・2
僕が預けられたのは、ヴィクター殿下の奥方、ヴァイオラ様の実家のローゼンハルト家、その郊外にあるお屋敷だった。貴族の子弟みたいに僕には家庭教師が付けられ、今まで足りなかった分の教養を補ってもらい、それからこの国では騎士階級の嗜みとされる槍術や、射撃の稽古なんかも付けてもらうことができた。今まで盛大に出遅れた分で取り返しがつかないこともある。十三歳といえば世間一般の庶民であれば徒弟に出ている年代だ。なんとか取り繕うだけの教育をしてもらえるだけでありがたい話だった。
感心してもらえたこともあった。僕の筆跡だ。この家の人たちは、僕が読み書きですら覚束ないんじゃないか、そんな心配をしていたらしい。だけど筆記体なんて、何十種類しかない文字の書き方の規則でしかない。これを真似て書けるようになるだけでその分は人から舐められなくなるのだったら、僕にとっては安いものだった。
そんな教養の問題よりも、僕には信じられないような欠陥があることに、僕は初めて気が付かされた。僕には食べ物の味が分からない。悪臭や強い匂いまでわからないとか、酸味苦味が感じられないというわけじゃない、そんな風だったら今頃生きてはいなかった。でも美味しいという感覚がなかった。それは、今まで酷いものを食わされていても何も感じなかったという意味では良かったが、こうして下にも置かない扱いをされて、良いものを食べさせてもらえても、何も感じないということでもある。
ヴァイオラ様は末子で、その上には兄と、何人かの姉がいるとのことだった。もうみんな結婚していて、家に残っているのは次期当主である兄上だけだったが、二つある屋敷のうち街中にあるもう一つの方で生活しており、僕とはあまり顔を合わせることがない。このお屋敷で起居しているのは、もう年老いつつある当主ご夫妻と、数人の上級の召使、それから下働きだった。君主の妻の実家としてはこじんまりとしていて、権勢には乏しい。それもそのはずで、ヴィクター殿下は元々公位継承者ではなかった。第三子として育てられ、幼なじみのヴァイオラ様と成婚相成ってから、二人の兄が立て続けに死んだ。そんなわけで公爵としてはやや後ろ盾に乏しく、先行きを不安視する向きもあったらしい。
そういうわけで、今ではヴィクター殿下とヴァイオラ様が、本当に僕にとっての主君だった。でも何故ここまでしてくれるのか、僕にはわかっていなかった。ある日、それを尋ねたことがある。それはお二人の庇護を受けることになってから、一年ほど経った頃のことだった。
「君にはね。息子を助けてもらいたい」
ヴィクター殿下はそう言った。
リヒャルト。ヴィクター殿下とヴァイオラ様の初子で、公爵位の継承者となる男子だ。生まれてまだ数ヶ月、産着に包まれてすやすや眠っている、そんな赤ん坊だった。
僕はその揺り籠を覗かせてもらえたし、抱き上げさせてすらもらえた。その子の顔立ちや髪の色はヴァイオラ様によく似ていて、目の色はヴィクター様にそっくりだった。抱き上げるとつんと甘い匂いが漂ってきて、僕はそれが乳の匂いだと思った。こういう微妙な感覚は、味の分からない僕には珍しかった。
そんな僕たちを見て、ヴィクター殿下とヴァイオラ様は微笑んでいた。ヴァイオラ様は美しかった、僕にとっては信じられないぐらいに。貴族の女性といえば、今までは僕を冷たく一瞥して、身なりから存在価値を判断して、意識の埒外へと棄却する、そんな存在でしかなかったし、それがどれだけ綺麗だって心惹かれることはなかった。ヴァイオラ様は違っていたから、僕は心惹かれていたんだと思う、正直に白状すると。だって僕は当時十四歳だったけど、ヴァイオラ様は二十二歳で、後から考えれば年齢差なんて大したことはなかったのだから。
でもそれも、とある会話を立ち聞きするまでの話だった。
「あの子を、このままにしていいんですか」
そう尋ねたのはヴァイオラ様だ。
僕は再び宮廷に出仕するようになっていた。今までのように下働きとしてではなくて、ヴィクター殿下の従者の一人としてだ。だから、今僕がいるのは公宮の、ヴィクター殿下の私室の前だった。
きっとヴァイオラ様は、僕が公宮にいるとは想像していなかったんだろう。今までずっと、ご実家で面倒を見ていただいていたんだから。
「どういう意味だい?」
「だって、彼の生まれの話があるでしょう」
「難しい問題だね」
僕を指す言葉はない。だけど、それが僕のことだと、僕はそう確信した。生まれの話。卑しい上にも卑しい僕の身の上話を、二人は把握していて、そんな目で見ながら僕に今まで接していた。そうだったんだ。
「あの子は、どんどん似てくる。祖父、インマヌエルにね」
「例の話を信じることにするのですか?」
「まあ、そういうことがあっても、おかしくはないんじゃないか?」
「おかしくないかと言われれば、おかしいような気もしますけど。あり得ないかと聞かれれば、あり得るとは言わざるを得ませんね。でも」
「でも、なんだい」
「ただの臣下として扱うのも、血族として扱うのも難しい。だから、今のあなたもそうしているのでしょう」
「酷い話ではあるね」
僕は二人の会話を聞いているだけで、見ているわけじゃない。だけど、ヴィクター様がふっと黙って外を向いたような、そんな気が僕はした。
酷い話ではある、だけどその結論は。結論は何なんだ、言ってくれ。そう僕はひたすらに願っていた。だけど、ヴィクター様はそれを言葉にしない。それは、彼がその『酷い話』を容認している、そのことに他ならなかった。
「とにかく、彼があんな風に今まで放って置かれたのが間違いだ、どんな意味でも。どうしてこんなことになったのか、先代の落ち度だな」
「とは言え、難しい問題ですから。先々代の醜聞を公に認めることにもなりかねません」
「知らぬ存ぜぬで問題を避けていて、避けようがない大問題に発展してから対処するのでは元も子もないだろう。その対処法自体が落ち度だ」
それから、ヴィクター様は言うのだ。
「『地獄の釜の蓋が閉じたような』気性。感情を向けていないものには冷淡で、一度感情を向けると、手がつけられないほど情熱的だと。ランデフェルトの男たちはそうだと、誰かが言っていた。祖父のインマヌエルだってそうだった。それが、私がエックハルトの件を、有り得ると思っている理由だ」
この二人が言っていることが僕にとって良いことなのか、悪いことなのか。僕にはもう分からなかった。
「常識的な人の……自分の祖父に対する考え方としては……あまり理解はできませんね」
「常識的な人ではないよ」
「あなたの話です。あなたは、そう」
「確かに、私にはそんな気性はないね。それがどんなものか推察しているだけかもしれない」
それから、ヴィクター様が笑ったように僕は感じる、その息遣いで。
「エックハルトにはその気性がある。あんなに若くて、経験が少なくて、子供なのに。苛烈にして冷徹、だけど誠実で熱情に溢れている。その気性以外で、ランデフェルトという国家を支えてきたものは存在しないんだ。私たちには彼が必要だ。そして、リヒャルトには」
なるほど、理解した。そういうことだったんだ。
ヴィクター様は君主、そして僕は臣下。
君主としてのヴィクター様、そして赤子のリヒャルト様を支えることが、僕の存在意義だった、最初から。ヴィクター様もヴァイオラ様も、それを踏まえて僕を値踏みしていた。その試験に僕は合格した。
もう一つ、無視できないことがある。二人の話を総合すると、僕が彼らの縁者である可能性を彼らは考慮している。それなのに、決して縁者としては扱わない。家族じゃないけど家族のような存在にすらなれない、その資格がないわけじゃないのに。いや、やっぱりそんな資格なんてないのかもしれない。資格があるのかないのか、酷い話なのかそうじゃないのか、僕には分からない。
僕がヴァイオラ様に惹かれていた? そんなの馬鹿げた話だ。理解して欲しいと思ったことはなかった、理解して欲しくなかった。家族が欲しかったのに。二人が家族として扱ってくれているんじゃないかって、そう僕は錯覚していた。
きっとこれは当たり前なんだ。二人の言葉。醜聞。問題。僕はそうだった。最初からそうだったし、それ以外ではなかった。そして、この度公爵御自ら、僕という問題に『対処』されたと、そういうことなんだ。
僕は本当に愚かだった。身の程知らずだった。分かり切っているはずだった。自分で作り上げた人生の罠に、自分で勝手に嵌っただけだ。こんなことで傷付くなんて馬鹿げている、お前にそんな資格も、権利も、筋合いもない。そうだ。
それを自分に言い聞かせるほど、それと似ていて、でも少し違う、氷のように冷たい観念が侵入してくる。心を許すなと。心を許すな、誰にも。無学で粗野な下層の男たち、高慢で傲岸な貴族の子弟、そして、上品さと威厳を称えた高貴な女性、その誰にも。心だけは渡すな。その代わりに用意できるものだったら何だって取引してやる、それがこの身だって、他のどんな人間だって、悪魔の心臓だって。だけど心は渡さない。
それはあの日からずっと続いていて、僕に取り憑いた幽霊、そして分かち難い僕自身の一部になっていった。僕はそう思っていた。
僕は甘い期待を捨てた。現在の身分の保証は貰えて、将来も約束してもらえている、僕が彼らの期待に答え続ければ。だから、そうなることにした。僕自身の人生への甘い考えは置き去りにして。




