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転生歴女 〜メイドとオタクと歴史の終わり〜  作者: 平沢ヌル
第三章 物乞いの子
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第5話 エックハルトの記憶・1

 エックハルトは、その場にずっと転がっていた。

 残っているのは、首の周りに回された腕の感触、それから、頭と背中に感じる彼女の体温、耳に残るその声、その言葉。

 彼女の反撃はエックハルトにとっては思いもよらぬ痛打となったが、おかげで酩酊からはほとんど醒めた。話をしているうちに拘束は緩んでいたから、男性としても膂力があるエックハルトが本気で形勢逆転しようと思えば、造作もないことだったかもしれない。だけど、そんな気は完全に失せていた。

 その腕を首に回されながら、床に寝転がったまま、静かに言葉を紡いでいる。他の誰にもしたことのない、誰にもできない話を。

 その時間はもう過ぎ去ってしまって、きっと戻ってくることはない。今は記憶にだけ残る温度、手触り、響き。それをエックハルトは意識の裡に感じていた。


 どうして、こんなに弱くなってしまったのだろう。


 悪夢から覚醒しかけた人間のように、エックハルトはそれを考える。自制心の低下も、暴発する被害者意識も、自暴自棄も。それらとは長年の付き合いで、水パイプや、その他の非常手段に頼ってなんとか対処してきたものだった。その根幹を、他人には知られないようにしながら。


 その母とされる女、公爵の葬儀を訪れて雪の中で死んだ浮浪者の命日が近づくと、エックハルトは狂気に駆られる。その苦しみへの処方は見つからない。『持病』とは、自暴自棄に駆られたエックハルトの不行跡について予めリヒャルトが用意している公式見解だ。

 そして、彼女の言葉。

 エックハルトは、ここに至るまで、心から信じてはいなかった。彼女が語る、その遠い世界、遠い時代での記憶のことを。アリーシャ・ヴェーバーはこの世界の人間だ。学識が本物で、また正気であったとしても、空想世界の自分こそ本物の自分と思い込み、周囲にもそのように振る舞う人間だっている。辛い現実から自分の心を守るために。

 今は少なくとも理解していた。アリーシャ・ヴェーバーの中には、もう一人、知らない誰かがいることを。その言葉にも、考え方にも、行動原理にも、彼が知って、縛られている、この世界にはないものが、確実に存在していることを。

 遠い世界、遠い時代の女。

「……ずるいなあ」

 呟いて、エックハルトは天井を見上げる。

「いつだって、あいつが取っていく」


 あいつ、つまりはリヒャルトのことだ。エックハルトは、リヒャルトに嫉妬している。それは、冷然としていて思慮深い、だが裏腹にどうしようもなく粗野で幼稚な部分を抱えている、エックハルトの荒廃した性格を特徴づける一要素だった。

 血縁者で年少、なのに目上で主君、それがエックハルトにとってのリヒャルトだ。君主の座を狙おうなどという気は微塵もない、だがリヒャルトは愛されている。一方のエックハルトは、その身を保護して行く末を気遣ってくれる周囲からの愛情など持ったことがない、その母親にすら殺されそうになったのだから。エックハルトの血統の証明が曖昧でしかなく、もしかしたら卑しい上にも卑しい存在、浮浪者が連れてきた出身不明の赤子を貴人として取り立ててもらっているだけの可能性は何の救いにもならなかった。

 母親、あるいはそれに代わるもの。自分の在り方によらず愛してくれる存在。そんなものがいたら、救われるかもしれない。自分も同じように愛することができれば。エックハルトは冷酷で苛烈な、その経歴に相応しい邪悪な人間でもある。誰かから愛されるほど、容易に愛することができない。それなのに面の皮一枚でそれを隠蔽できる、そうやって今まで生きてきた。きっと天国には行かれない。

 救済されなくてもいい。自分の地獄に束縛されなくていい世界があるのなら、それを疑いもなく認識させてくれるなら、それだけでいい。

 エックハルトはある過去を思い返す。それは、なんの役にも立たない過去の記憶、その母親の正体に関するはっきりしない推量と同じぐらい、思い返すほど自分を傷つけるだけで、持て余しているだけの代物だった。

 それはエックハルトが十三歳、公爵筋として見出される直前の、ある小さな事件に端を発していた。




 その記憶は、こんな風に始まる——




 僕、ランデフェルト公宮の外郭に位置する兵舎の管理をする下働きの手で育てられ、今は宮廷に出入りする連中のご用聞きに走っている十三歳の孤児が、兵舎の営倉に閉じ込められてから一日が経過しようとしていた。

 そもそもが、あんなくだらない話を世話してやったのが間違いだった。貴族の不良少年どもが思いついたろくでもない考え、ヴォルハイムのお坊ちゃんが来訪される、趣向を凝らした宴でもてなしてやりたい、なんて計画を。

 このランデフェルト公国に、格上の盟主であるヴォルハイム大公国からの来訪者があったのがきっかけだった。本来の目的は大人たちの会合だったと思うが、詳しい話は僕には分からない。その際の便宜上の主賓、次期大公である十三歳のマクシミリアンがこの問題の鍵となる人物だった。

 マクシミリアンは常日頃退屈しており、面白い遊びを提供すれば彼のお気に召すらしい。狐狩りが彼のお好みだが、それも二度三度とあっては退屈する。だから、もっと背徳的な、ぞくぞくするような遊びを提供したい。それがこの会の趣旨だった。今度は、女の子たちを狐に見立てて、『狐狩り』をしようという話だった。この国では知らないけど、他のどこぞでその手の宴が開かれていることなら誰だって知っている。だけど、今回の主催者はまだ十四歳だった。そんな実体験はないし、参加する女性も集められない。だから、女を集める必要があった。

 僕が斡旋してやった女の子たちだが、確かに街角に立っている。宮廷じゃお目にかかれない卑しい娼婦たちだ、だけど悪い子たちじゃない。みんなお金が必要だった、それだけだ。悪ガキどもに酷い目に遭わされるかもしれない、だけどその危険を押しても協力してくれたのは、報酬が良かったからだ。

 即日でことは露見して、主催者たちはみんな自宅謹慎の憂き目に遭ったけど、僕に待っていたのは折檻打擲だった。後ろ手に縛られて、背中をひん剥かれて、大人たちから何度も鞭打たれる。そして、その様子をご覧になっていたのが来賓たるヴォルハイムの若君だった。いかにも被害者面で憮然としながら、腕を組んでふんぞり返り、こっちの様子を伺っている。お前が一番楽しんでただろ、僕はそう思っていた。

 それよりも不気味だったのは、主賓のマクシミリアンとそっくりな双子の妹が、ニヤニヤしながら打擲される僕を観察していたことだ。鞭が唸りを上げるたび、その笑みが深くなる。どうやらこの女、暴力が好きだ。

 マクシミリアンもその妹、ツィツェーリアも十三歳で、僕と同い年だった。同じ人間なのに、境遇が違いすぎている。だけど別に、あの二人みたいに王侯貴族として扱ってほしいなんて僕は思っていなかった。徹底的にいたぶられて、被害者面のマクシミリアンが満足すると、僕は解放された。それは後ろ手に縛られたまま営倉の床に転がされて、鍵を掛けられるということだったが。この状態のままずっと置かれたら、さすがに酷いことになる。散々暴れて騒いでやっと見張りに気づいてもらったが、トイレが我慢できないからなんとかしてくれと頼んだら、してくれたのは後ろ手に縛られた腕を解放してくれることじゃなくて、ズボンを下ろしてくれることだった。

 人間として扱ってくれ。僕は、それだけを願っていた。

 この大人たちには分からない。僕が僕の尊厳を保って生きていくには、非常手段に訴える必要があることを。読み書きですら誰も世話してくれない。数年前まではこんな感じだった。バレないようにくすねた兵舎の備品を闇市で金にして、それを使って手に入れた子供用の教本を、ベッドの下じゃなくベッドの底面に固定して隠す。それが見つかったら引き裂かれてバラバラにされる、だから用心する必要があった。人が寝静まった夜になってそれを引っ張り出して、同年代の子だったらとっくに理解しているような内容を浚う。そんな境遇が惨めで涙にくれたこともあったけど、そんな涙はもうとっくに涸れてしまった。

 馬鹿どものおいたに付き合ってやるのは、そんな境遇から抜け出すための一手段でしかなかった、僕にとっては。背徳的な遊びの手段を提供できる、それには特別感が伴う。同じ身分としては扱われない、だけど秘密の遊びのお仲間であれば酷い扱いは受けないし、差し出すもの次第ではこちらに便宜を図ってくれることだってある。そういう生存戦略だったが、この一件でもう無理だ。これからどういう扱いを受けるのか、僕には想像が付かない。

 僕は多分、あの貴族の不良少年たちのようにもなれなければ、公宮の下働きの男たちのようにもなれないし、他のどんな存在にもなれないと思う。敢えて言うなら、僕という存在に一番近いのは、僕が世話してやったあの若い娼婦たちだ。もしかしたらこの件で公宮から放逐されて、あの女の子たちを頼って、娼館の下働き、それからいずれは女の子たちに客を引かせて上がりを巻き上げるクズ男の仲間入りをするのかもしれない。それが僕にお似合いの人生なんだろうか。でも、そんな風にはなりたくなかった。じゃあ、どんな風になりたい? それも何も分からない。むしろ、このまま死んだ方がいいのかもしれない。

 このまま僕が死んだら、ドブにでも放り込まれるのかな。それとも便所か。そんなことを考えた時だった。営倉の扉が開いて、若い男性と、それからその従者が入ってきたのは。


「エックハルト、だね」

 穏やかな声でその男性は尋ねる。

「はい、彼が」

「私は彼に話しているんだ。大丈夫かい」

 そんな会話を二人はしている。

「……殿下」

 僕は掠れた声で呟く。若干二十一歳、公爵位に即位したばかりの君主、ヴィクター・ヘルツォーク・フォン・ランデフェルトだった。公宮の下働きのさらに下、ゴミのような存在の僕ですら、その顔は知っていた。黒っぽい髪に青い目という珍しい取り合わせで、略装だったが、その衣装の仕立ての良さは歴然としている。

「大丈夫かい」

 彼は再び聞く。

「……この状態を見て、大丈夫だと思いますか?」

 ついつい僕は口答えしてしまう。なぜかと言ったら、背中は半分ひん剥かれて鞭の痕だらけになっているし、あまつさえズボンまで下ろされている。この状態で大丈夫です、なんて答えたら、それこそ頭がおかしいか馬鹿か、その両方だ。

「すまないね。衣装を整えてやりなさい」

 傍らの従者にヴィクター殿下は声を掛ける。

「結構です。それよりも、縄を解いてください。自分で整えられますから」

 僕はそう言った。一日そうやって転がされていたので、今の僕の不潔さと来たら酷かった。パリッとしていて光沢のある殿下の衣装とは大違いだ。だからこそ触られたくはない。

 腕を縛る際に乱暴にされたせいで、縄の一箇所が手首に食い込んで皮膚が切れていた。縄を解いてもらう際にそこが触れて痛む。僕は顔を顰めただけで、声を上げたりはしなかった。

「……ありがとうございます。帰っても?」

 そう言いながら僕は、帰ったら水浴びぐらいさせてもらえるだろうか、そう考えていた。裸になっているところを見られたら、首周りの痣をからかわれるんだろう、どうせ。だけどそんなくだらないことになんて構っていられない。人間の尊厳を保つには、人間の尊厳を保っているらしい外見が必要だ。この惨めな状態からは速やかに復帰しないとならない。

「私は、君に用があるんだ。質問に答えてほしい」

 公爵は穏やかにそう尋ねる。

「なんでしょうか」

「彼らは、君に唆されたと言っている。本当か?」

 つまり、あんな乱痴気騒ぎを企画した連中は、ことが露見したらその責任を全てこっちに擦り付けたらしい。身分が違うとはそういうことだった。そもそも、最初からそのつもり、いざとなったら犠牲として差し出すことから折り込み済みで僕を仲間に引き入れたのかもしれない。だとしたら僕が間抜けだった、そういう話でしかない。

「僕にそんな発言権があると思いますか? 彼らに対して」

 僕はそう答える。きっと公爵は、僕にとっての主君でもあったのだろう、だからこんな答え方は相応しくない。だけど僕自身は、公爵に忠誠を誓った覚えなんてなかった。

「私は、君の返事を聞いてるんだ。それだけ答えてくれればいい」

「唆していません。なんだったら、この命に誓っても」

「強気だな」

 そう言って公爵は笑う。その後ろで、従者はそわそわしていた。

「気に入ったよ。うちに来なさい」

 うちに来なさい、とは、奇妙な言葉だった。だって彼は公爵だ、公爵にとってのうちとは、この公宮のことではなくて?

 とにかく、その日から僕の、獣のように蒙昧な物乞いの子、エックハルトの『教育』が始まった。


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