儚む 文身 青貝
「ここで、これから暮らすのね…。」
段ボールが所狭しと積み重ねられ、足の踏み場が殆ど無い部屋を見てそう呟いた。無意識に右手を伸ばし、傍らにいる青年の手を取った。彼は優しく手を握り返し、裏表の無さそうな笑みを私に向けて言った。
「お金が無かったから、谷底の幽霊付き賃貸くらいしか借りられなかったけど、これから頑張って稼ぐから暫く許して!お願い!」私は苦笑した。
「許しても何も、この物件は恋人もセットなんでしょ?そんなのどんなに豪華な家よりも良いじゃない。お金のことは一緒に頑張りましょ。」
「ごめ……いや、ありがとう。一緒に、頑張ろう!」そういって、彼は私のことをゆっくりと抱きしめた。一瞬心をよぎった不安は既に消えていた。
彼は不良の一員だったことがある。中学生時代、彼はその優しさや温和な雰囲気からその中学校で有名な不良グループに絡まれ、いじめを受けていた。彼はよく耐えていたと言うべきだろう。いや、気づいていなかった場合もあるか。彼、その人たちのことを「友達」って呼んでたし。さらに、彼の不幸なところは、高校時代もその不良グループの数人と同じ学校になってしまったことだ。彼は生き延びるために、不良グループの一員になることを選んだ。そのグループでは団員全員が右前腕に何かしらの入れ墨を入れる規則があった。私は隣で寝ている彼を見る。彼の右前腕には2匹の蝶が戯れている入れ墨が入っていた。色はステンドグラスのように色鮮やかで、芸術作品として見事なものだった。最終的に、私たちが大学を卒業する頃、そのグループは派閥争いが起こり、気づいたら噂を聞かなくなっていた。小中学校以来久しぶりに彼と会ったのはその頃だった。
「…ねぇ、ここから引っ越さない?ここ、なんか変だよ。私たち、こんなに頻繁に喧嘩したこと、無かったよね。」
「…そんな金、今の俺たちにあるわけねぇだろ!」
しまった、またやってしまった。最近、私たちはよく喧嘩をする。内容はとても些細なことだ。何故こんなことで喧嘩するのか、後で外に出て考えると馬鹿らしくなってしまうほどに。それは相手も同じことを考えているようで、外に出て帰ってくると、とても反省したように「ごめん…あれは完全に僕が悪かった。」と謝ってくる。でも、この家にいると少しずつ鬱憤が溜まっていく。私たちは毎日のように家の中で喧嘩を繰り返した。
ある月の給料日翌日、久しぶりに少し贅沢をしようと思った私は駅の周りを散策していた。
「きれい……!!」
私はある店の前に置いてあったお椀に目を奪われた。真っ赤な漆に蝶を形取った螺鈿は私に今日も喧嘩をした愛しい人を否応なく思い出させた。
「……喧嘩をしないで、仲良く暮らせるようになりたいな。」
気づいたらそのお椀を手に取っていた。
夕方頃になり、慌てて家に帰ると、家の中は物が散乱していて、部屋は真っ暗で、まるで空き巣に入られたかのようだった。恐る恐る入ると。
「っっっっ!!!!!!」
そこには見知らぬ男性の死体と、包丁を握りしめて虚ろな目でこちらを見つめる彼の姿があった。
「クックックッ……ハハハハハ……」
私を見た瞬間に何かの堰が壊れたのか、突然笑い出した。それはどこか喜んでいるようにも、助けを求めているようにも見えて。
「ねぇ…どうしたの…?大丈夫…?」
そう問わずにはいられなかった。彼が一歩、また一歩と足を引き摺るようにして私に近づいてくる。逃げなければいけない。頭では分かっていた。でも、体は全く言うことを聞いてくれなかった。彼が私を抱き締めた。
「僕は君のことが好きだよ。だから、一緒にいよう。ずっと。」
私の体に意外と軽い衝撃があった後、体の力がどんどん抜けていくのを感じた。膝から地面に崩れ落ちた私は、残る力を振り絞ってお椀を取り出し、彼の方へ伸ばした。
「…お誕生日、…おめでとう…。」
彼はその言葉に驚いたかのように目を見開き、「うそだ…。そんなわけ…。」と呟いていた。もう私はその姿を見ることは出来なかったが。
運命とは不思議なものだ。二人の住んだ家があの家じゃなければ、見知らぬ男が来訪しなければ、彼が殺人に思い至るまでにあのお椀を渡せていれば、不良に関わりを持っていなければ、どれか一つだけでも違っていたら、結果も変わっていたことだろう。彼女も愛しい人に傷つけられずに済み、彼も人格が壊れて殺人鬼に変貌することはなかったのだろう。天上にあるさいころは感情なくこの一部始終を観察し、しばらくした後、ひとりでに転がった。次の運命を定めるために。
儚む(はかなむ)
儚いと思う。
文身
入れ墨。
青貝
オウム貝・ヤコウ貝・アワビなどの、貝殻の内側が真珠のような光沢を持つ貝。螺鈿の材料
青貝細工の略。螺鈿のうち薄い貝を用いたもの。




