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大変長らくお待たせして申し訳ありませんでした。亀更新ですが、お楽しみいただければと思います、よろしくお願いいたしますm(__)m
王都を出て、十二日後。
エレノアは国境近くまでやってきた。乗合い馬車を乗り継げば、もう少し時間を短縮出来たのだろうが、愛馬に無理をさせるわけにもいかず、どこかで馬を替える気にもなれなくて、時間を浪費してしまった。
ようやく明日には国境を越え、隣国の城下町で暮らしている乳姉妹であるターニャの許へ赴くつもりだ。ターニャには、この宿に着く前の街道沿いで手紙を出しておいた。
乳姉妹であるターニャはとっくの昔に所帯を持ち、今は隣国で夫と子供と暮らしている。乳母であるアーニャは、腰を悪くしてサージェントを辞めてから随分経つが、元気にしているのだろうか……。
家から捜索されるのを恐れて、アーニャの所に寄ることは出来なかったが、ターニャに聞けばきっと教えてくれるだろう。
エレノアは一年かけて、少しずつ市井の人々の暮らしも学んでいたが、身を立てていくには、まだまだ不足があることは承知していた。ターニャの負担にはなりたくないが、実際にどう暮らしていけばよいのか相談にのってもらおうと考え、まずは隣国へ行こうと計画を立てた。
王妃様が隣国からこの国に嫁いで来られてから、国境の警護はかなり緩いと聞いてはいたが、身分を偽っていることに不安があることは否めない。明日は国境を越えることが出来るよう、シャツの上から母の形見のペンダントを握りしめた。
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一方、サージェント侯爵家の執務室では。
「まだ見つからんのか!」
執務机にドンと拳が下ろされる。勢いで二、三枚、机の上の書類が落ちたが、侯爵はそんなことはどうでもいいとばかりに、机の前に立っている執事に厳しい視線を向ける。
「申し訳ございません、四方手は尽くしておりますが……」
老境に差し掛からんとする執事は深々と頭を下げる。
「あの娘は一体、何を考えておるのだ!」
イライラと人差し指を机に打ち付ける主を、執事が冷めた目で見つめている。
「なんだ、何か言いたいことでもあるのか」
「いえ。旦那様はお嬢様を連れ戻されて、どうされるおつもりなのか、と思いまして」
その言葉に、サージェント侯爵がギロリと執事を睨みつける。
「お前に答える義務はない」
「……失礼いたしました」
執事は再度礼をすると、ドアを開け、部屋を出て行った。
廊下では、エレノア付きの侍女がオロオロと執務室の前を行ったり来たりしていた。
「こんなところで何をしている。持ち場へ戻りなさい」
「あ、あの、ルーカス様、お嬢様は……」
「心配しなくとも、お探ししている。きっと見つかるだろうから、安心しなさい」
侍女を安心させるように、ルーカスと呼ばれた執事は微笑んでみせた。
「は、はい……では、失礼いたします……」
侍女は一礼すると、踵を返して去って行く。
それにしても、お嬢様はどこへ行ってしまわれたのかーーールーカスは、侯爵が寡黙な分、エレノアとの接点は多かった。父である侯爵の手を煩わせないよう、何事も一人で黙々と取り組んでいた姿を見るにつけ、侯爵にもっと団欒を持たれてはどうかと助言していたのだが、成長するにつれ、微笑んだ表情が亡き夫人とよく似ているエレノアを見るのが辛いのか、いつもはぐらかされていた。
その結果がこれとは……。
エレノアは何事にも聞き分けが良すぎるぐらいだったが、こうまで思い詰めていたことを気付かなかったルーカスは、己を呪うしかなかった。
主から捜索にあたり、なるべく目立たぬよう迅速にと注文をつけられていた。もちろん、それについて異論はなかったが、ルーカスは一つ重大なミスを犯していた。エレノアが男装で出奔しているなど、想像もしなかったのだ。
その為、乳母であるアーニャの家はもちろん、国境にも捜索の手を伸ばしていたが、エレノアの行方は掴めず、エレノアが時間を浪費していた分、行き違っていたことも要因だった。
その頃、サージェント家の馬丁同士が、こんな会話をしていた。
「シュヴァルは今頃、どこまで行ったんだろうなぁ」
「そうだなぁ、ここんとこ運動不足だったからな、喜んで走ってんじゃねぇか?」
「ははは、ちげぇねぇ」
シュヴァルはエレノアの愛馬である。馬丁たちは、エレノア自ら世話して可愛がっていたことを知っていた。
本来なら、馬が一頭いなくなったことをルーカスに報告せねばならないのだが、馬丁頭が何も言わないのであれば、自分たちが言う必要もないだろうと思っていた。シュヴァルがいなくなったということは、エレノアが連れて行ったとしか考えられなかったが、エレノアを慕っていた馬丁たちは、例え罰を受けたとしても一切報告するつもりはなかった。
*****
明日は無事、国境を越えられるだろうか、書類に不備はないはずだ、そう思いながらも偽りの身分であることに不安を感じているのか、エレノアは固いベッドの上で何度も寝返りをうっていた。
夢か現かを彷徨っているうち、瞼の裏に懐かしい光景が広がるーーー。
別荘地近くにある森の中。
母を亡くして、しばらく元気のなかったエレノアに、王子が花冠の作り方を教えて欲しいと言ってきたことがあった。一生懸命、真剣に作っていたのだが、あまり器用ではないのか、最初の作品は散々な出来だった。
その事をとても悔しがった王子は、エレノアに教えを乞いながら、何度も何度も練習して、満足のいく花冠が出来た時、そっとエレノアの頭にのせた。
「やっと出来た。エリーにあげようと思っていたんだ」
少し頬を赤くした王子のはにかんだ笑顔を見て、エレノアは母を亡くしてから初めて心から笑うことが出来た。
また別のある日。
ふいに名を呼ばれて振り返ると、笑顔の王子が手を振ってこちらに走ってくる。
「エリー!今日は早かったんだな!」
「ええ、ジェイドはお寝坊さん?」
エレノアがクスクスと笑うと、王子はぷぅっと頬を膨らませる。
「寝坊なんかしない、朝から剣を振ってたんだ」
そういうと、自慢げに腰に佩いた剣を見せてくれる。
「わぁ……凄いのね、ジェイドは」
「まだまだだけどな」
そう言いながらも、左手で腰の剣にそっと触れる。
「頑張ったジェイドに、はい、これ」
シロツメクサで編んだ冠を差し出すと、不満そうに唇を尖らせる。
「エリー、僕は花冠はいらないよ」
「そう言うと思ったわ、ジェイドにはこっちよ、はい」
小さなポシェットからクッキーを取り出すと半分に割ってから手渡し、先に口へ運ぶ。
エレノアなりの毒味のつもりだったが、その意図を王子が汲んでくれていたのかはわからない。
「これこれ!これおいしいんだよな」
王子は満面の笑みで受け取ると、その場に胡坐をかいてクッキーを口に運ぶ。
エレノアが食べたのを見てから王子は必ず食べていたから、気遣ってくれていたのだとエレノアは考えていた。本来ならば、外で誰かに分け与えられた物など、決して口に入れてはいけないはずの身分なのだから。
言葉にせずとも、そういう気遣いが出来る王子が、エレノアにとって憧れの存在になったのはいつからだったのだろう……。
後から知ったことだが、王子はこの時、即位したばかりの国王陛下と王弟殿下の間に起こった政争に巻き込まれないよう、陛下の腹心である宰相の別荘地へ預けられていた。エレノアにも、本来の愛称である【ジーク】ではなく、ジェイドと呼ばせていたぐらいだから、よほど周囲を警戒していたのだろう。
その警戒の隙間を縫って、王子が矢を射かけられた。害する目的ではなかったというのが大方の見解だったが、咄嗟に王子を庇ったエレノアは、左の二の腕に矢が当たる怪我をした。
本当のところ、王子を庇ったかどうかは怪しかった。ヒュンと音がしたのと、王子をドンと押して尻もちをつかせたのが同時だったような、その時、左腕が焼け付くように痛んだことだけは鮮明に覚えているものの、前後のことは痛みで朦朧としていたせいなのか、あまりよく覚えていない。
幸いなことに、毒矢ではなく鏃も潰れていたそうだが、鏃を潰してあっても子供の皮膚は柔らかい。エレノアの皮膚は抉られ、骨はポキリと折れてしまっていたそうだ。しばらくは腕を動かしてはいけないと医者に言われたし、骨はしっかりくっついたが、傷口は乳母のアーニャが毎日膏薬を塗ってくれたものの、火傷をしたような跡になってしまっていた。
それ以来、エレノアは別荘からしばらく出られなかったから、王子がその後どうしたのかわからず心配していたのだが、その後、王都の屋敷に戻され、王子の城での様子を耳にすることが出来たので、無事だったのだと、ほっと胸を撫で下ろした。
いつか王子とお会いすることが出来るかもしれない……そうしたら、自分が『エリー』であると告げよう、あの、サファイヤのような深い青い瞳を大きく見開いた後、エレノアの大好きな笑顔を見せてくれるだろうか……。
だが、エレノアの置かれた立場が、エレノアの描いた小さな夢をどんどん萎れさせていく。そして、初めて社交の場で王子に会った時、もう『ジェイド』と『エリー』ではないのだという現実を突きつけられた。
エレノアがサージェント侯爵家の一人娘として、デビュタントを迎えた日、王子の視線は一度もエレノアと絡むことはなかったのだ。
ーーーゆっくりと目を開ける。
随分と懐かしい夢を見た。
薄明りにカーテンを引くと、窓の向こうには朝焼けが広がっている。
エレノアは、ベッドを出る前に小さく伸びをして、ゆっくりと着替えを済まし、髪を編み込んで大振りのスカーフで覆うと朝食をもらうべく、階下へ降りて行った。
「おはようございます、朝食を頂けますか」
「はい、これね。スープはあっちのを入れて。卵はどうする?追加料金になるけど」
「いえ、これだけで十分です」
カウンターの向こう側の、この宿の女将とのやり取りを終えると、大鍋に入ったスープを掬い、固めのパンと木の器が載ったトレイを持って、この食堂の中ではあまり目立たない、隅の席に座る。
エレノアが食事を摂る姿をあまり他人に見られたくないのは、侯爵令嬢として染みついたものを悟られたくないからだった。
ここに来るまでの間、平民と一緒の食堂で過ごしたが、ジロジロと見られたのは一度や二度ではない。この国を出るまでは、ひっそりと、目立たないように、早い時間帯に宿で朝食をもらうように心掛けることを学んだ。
エレノアはなんとか早く食事を食べ終わろうと、ひたすらパンを口に運びスープで流し込んでいたのだが、何人かの旅人が食堂に入ってきた。
急がなければ、と俯いてパンとスープを交互に口に運んでいたから、そのうちの一人がゆっくりと近付いてきたことに全く気付いていなかった。
エレノアの座っているテーブルにコンという音が響く。
驚いて顔を上げると、日に焼けた精悍な顔つきの大柄な男が、右手でテーブルをノックしたらしく、左手で朝食の載ったトレイを持って立っていた。
「ここ、空いてるか?」
「……どうぞ」
エレノアは愛想もなく、ぼそりと呟くと、残りのスープを急いで平らげようと、集中する。
「なぁ、あんた、どこから来たんだ?」
男はなぜかエレノアに話しかけてくる。
「……」
「まぁ、いいさ。で、これから国境越えか?なんなら俺が案内してやってもいいが?」
「……なぜ、貴方とご一緒しなくてはならないのです?」
エレノアの不機嫌な様子を物ともせず、男はにやりと笑う。
「無理に、とは言わないが」エレノアに顔を寄せて小声で囁いた。
「あんたの腰の剣は飾りのようだ。違うか?」
痛いところを突かれて、エレノアは答えに窮した。
この男の言う通り、エレノアは剣術を習ったことはほとんどない。家を出る計画を立ててから、護身程度に習っただけだ。エレノアの細い肩や腕を観察して提案してきたのだろう、侮れない相手だ。
エレノアは考える。
ここまでは自分の生まれ育った国だが、隣国は行ったことさえない土地で、地図だけが頼りな現状は不安がないと言えば嘘になる。
エレノアが無言で男を見つめると、男は一人で頷いて勝手に結論を出していた。
「よし、決まりだな。俺はボリスだ。あんたは?」
「私の名を聞いてどうする。雇い主というだけじゃないか」
「……愛想もへったくれもねぇな……ご主人様の名前ぐらい、知っておいても不都合はないだろう」
やけに『ご主人様』に力を入れるところが、少々癇に障ったが、ボリスと名乗った男は器用に片眉を上げ、その目は面白がるような色を帯びている。気長な男のようだ、短慮な人間では先が思いやられるので、その点は合格だと密かにエレノアは思う。
仕方なく、偽の身分証と同じ名を告げる。
「エルマーだ。で、お前はいくら欲しいんだ?」
「そうだな、3レリーでどうだ?」
「……わかった、頼む」
1レリーが金貨1枚、3枚で済むのなら安いのかもしれない。ボリスを信頼したわけではないが、女の一人旅は確かに不安のほうが多かった。持ち逃げされても困るから、無事国境を越えたら支払うという約束をし、エレノアは先に席を立った。
エレノアが大した荷物もなく、マントを羽織り、しっかりと帽子を被って馬小屋からシュヴァルを引いて宿の前まで来ると、ボリスが馬と共に待っていた。
「ほう、いい馬だな」
シュヴァルを見て、ボリスが目を細める。シュヴァルは芦毛の馬で、その鬣は長く、逞しい脚を持っている。エレノアは自分のことのように少し嬉しくなって、シュヴァルの首の辺りを軽く叩く。
「ありがとう、シュヴァルというんだ」
エレノアは、言ってしまってから、ボリスに名を教えてやる必要などなかったのに、愛馬を褒められて口が軽くなってしまったと内心舌打ちをした。
「シュヴァルか、いい名だ。さて、では行きましょうか、エルマー坊ちゃん」
揶揄うようにエレノアを見て、ボリスは素早く馬へと跨る。ボリスの馬もよく手入れされているのが一目でわかる、良い馬だった。
エレノアは頷くと、シュヴァルに跨る。宿の前の街道を真っすぐ進むと、リグリッツ川という大きな川がある。その川にかかる、シュロール橋のたもとに国境検問所があるのだ。その橋を渡った先が、エレノアの目指す地があるブレゲーネ王国である。
思いがけずボリスという道連れが出来てしまったが、ここから新しい一歩を踏み出そう、過去は全て置いてきたのだからーーーマントを翻し、エレノアはシュヴァルと共に駆け出して行った。