第八話「疑念」
「ま、こんなもーんかな♪」
声を発したのは、霧熊霞美。
厳密には、天井と壁の接合点に沿うように備え付けられた通風管に開いた穴から、悠々と中央管理室を眺めていたアカネズミから発せられたものだ。
そう。
彼女は換気口の蓋を焼き切ってから、一度も部屋へ降りてはいなかったのだ。
霧熊が見ていた光景は、ただ三人の警備員が見えない敵に向かって悪戦苦闘しながら、勝手に自滅していく様であった。
大の大人であり、特別な訓練も受けているであろう大柄な三人の警備員たちは、
たった一人の少女が見せた些細な幻影に、完全に心身を掌握され、その意識を完璧に奪われてしまった。
これが、魔法。
人智を超えた技術の支配する世界。
ここでは、歳や性別だけでは個の力量は決まらない。
幼稚園に通う女児が、横綱の力士を指一本で組み伏せたとしても、なんら疑問を抱かれない。
そんな、世界。
「とうっ」
くせ毛の多いアカネズミは、今度こそ換気口からその身を投じる。
着地と同時に、アカネズミの身体を包み込むようにギュルルルルゥゥッ!! と激しい音を立てながら空気が歪み、蜃気楼の竜巻が生じた。
その竜巻に捕らわれたネズミは、見るみるウチにその姿を変えていく。
竜巻もその大きさに合わせるように伸縮を繰り返すと、
最終的には全長155cmほどの大きさに収まる。
空間を歪ませていた蜃気楼の竜巻が床に溶けるように消えると、そこには所々に寝ぐせの目立つ茶髪を持った中学生か高校生ほどの少女の姿があった。
霧熊霞美という名の少女は、中央管理室を見渡す。
足元に倒れているのは、紺を基調とした警備服に身を包んだ三人の男たち。
霧熊の見せた幻影に翻弄され、呆気なくその意識を奪われた者たち。
木目調の長テーブルにはトランプが散乱していて、床にも数枚落ちている。
一面の壁には多数のディスプレイが設置されていた。
それらは館内の映像をリアルタイムで映し出している。
どうやらこれが、館内に仕掛けられた監視カメラの映像のようだ。
ディスプレイに併設されたデスクにはそれらを操作するものなのか、様々なボタンや使い方のわからない機器などが接続されていた。
(たしかここの映像はネットを介してリアルタイムで外部のデータベースに転送されているんだったよねー)
肩に斜め掛けされたショルダーバッグのような目覚まし時計をチャリチャリと鳴らしながら、霧熊は監視カメラの映像が映し出されているディスプレイ群の前に近づく。
依頼人に提供された資料の中に、中央管理室の無力化という項目があったはずだ。
そこには機材の詳細や、機能を停止させるための正しい手順などがつらつらと載っていた気がする。
記憶を辿って、それらの内容を元に霧熊は手順通りに機械をいじっていく。
すると全てのディスプレイに『オフライン』と表示され、速やかにオンラインに切り替えるようにといった警告文が表示された。
これで、この館内の映像がネットワークを通して外部に証拠を転送されることはなくなったはずだ。
(さ、これで後には引けなくなったね。流石にいつまで経ってもオンラインに切り替えないとなると、遅かれ早かれ外部の人間が何かしらの接触を図ろうとするはず。もたもたしてられないよ)
霧熊はまるでいつも扱っているかのような手馴れた手つきで別の機械を操作し、今度は館内に張り巡らされたセキュリティトラップを解除していく。
(赤外線センサーにネズミ捕りの魔法、振動センサーに踏み抜きの呪い……、案外、厳重なんだなー)
科学と魔法の境なく施されたセキュリティの数々。
しかしそれを一括して管理するこの部屋さえ潰してしまえば、その全てに干渉することができてしまう。
そう考えると、ただがむしゃらにセキュリティを張り巡らせてるだけとも考えられる。
念のために美術館全体を対象に《丸分かりの呪文》を行使してはみたが、
どうやらこの管理室で扱えるセキュリティがこの館内を護る要素の全てだったらしい。
(んー……、厳重なんだかまぬけなんだか……)
霧熊は苦笑しながら手早く作業を終わらせ、今度こそ本格的に動き出した。
目指すは二階――この中央管理室の真上――に設けられた光石展示コーナー。
狙うは吸魔の石、《柘榴石の原石》。
現代アート美術館・《メルベイユ・ジャルダン》の正門前のブロック塀に、レイティアドール=ロンバルドは背を預けていた。
雪のように白く、まるで指でなぞったらそのまま溶けてしまいそうな肌を10月の寒空の下に晒しながら、
純白の幼女は腕を組み、瞼を閉じてただ考えに耽っている。
(霞美のヤツ遅いわね。まさか正面玄関の施錠を外すの忘れちゃいないでしょうね……)
彼女の体感で約5分前に侵入していった霧熊が、
作戦通りに動いていればもっと早い段階で中を無力化して正面玄関を内側から解放する手筈になっていた。
(まさかしぐじっちゃいないわよね……。あと1分待って進展がなければこっちから強行突破しましょうか。それにしても、少し気になることがあったわね……)
それは《柘榴石の原石》について。
否、《光石》全般の効力について、だ。
《光石》。
魔術の影が薄らいでいたその昔から、魔除けやパワーストーンなど数多くのオカルトグッズが存在したが、それは存外的外れではなかった。
長い年月を経て様々な偶然が重なって初めて輝きを得た光石たちは、古来から不思議な力が宿るとされていた。
実際にその美しさに魅了された人間は数多く存在する。
例えば、一国の王室に渡った曰くつきの蒼い光石のネックレスは、
その魔力によって国民に革命を起こさせ、
王と王妃を処刑に追い込むまでに至ったという。
例えば、紅い光石をあしらえた王冠を冠って戦場に赴いた太子は、
その赤き輝きによって敵の視界を奪い、その一瞬で死を免れ勝利したという。
それらの逸話はただの伝説として語り継がれてきた。
しかし魔法や魔術といった力が明るみに出た現代では、
そういった古来のオカルト分野の研究も進み、
近頃では光石による魔力の制御技術というものも見出されている。
それらは専門的に吸魔の石と呼ばれ、
光石の種類によって抑制される魔力の強度も決まるという話も囁かれている。
(確か『柘榴石』は【池沼級】以下の魔力を完全に吸収してしまうって資料に書いてあったわね。
霞美の魔力は【大海級】だから完全に魔法を使えなくなるってことにはならないだろうけど……)
しかし、そこでレイティアドールには別の考えが浮かんだ。
そしてそれは、レイティアドールの心を多少なりとも揺るがすに足る疑問であった。
(……、待って。それはあくまで人が手を加えた光石、いわば《装飾品》の話。
何の加工も施されていない《原石》なら、あるいは……)
レイティアドールは目を開き、美術館の正面玄関へと視線を移す。
しかしそこには、ただ静かなガラス張りの扉が佇んでいるだけだった。
冷たい風が、レイティアドールの肌を撫でる。
今日の風は、やけに冷たい。