第七話「見えない、ということ」
誤解されがちかもしれないが、霧熊霞美はかなり優れた魔法使いである。
主として得意なのは《幻覚魔法》と《変身魔法》。
幻覚とはいわずもがな、対象の五感に幻の刺激を与えることだ。
ただそれだけのシンプルな魔法が、この世界では驚異的なのだ。
掌から炎を出そうが、指を振るだけで物を宙に浮かせようが、この世界の人々は見向きもしないだろう。
そんな超常が『当たり前』となった世界において、例えば誰かが掌から炎を出したとする。
しかしそれが本物の炎か、あるいは幻覚なのか、どう判断すればよいのだ?
つまり、彼女が掌から炎を出現させているような幻覚を相手に見せるだけで、ありもしない物に対する恐怖を植え付けることもできてしまうというわけだ。
尤も、本当に炎を出してしまえればそんな遠回しなことをしなくても済む訳なのだが、個人で扱える魔法には得意不得意がついてまわるのだ。
霧熊の得意とするそれらの魔法はどれも万能というわけではない。
幻覚を見せる場合は、『直接』肉眼でその対象を捉えさせなければならない。
つまりカメラの映像越しなどに見られてしまうと、彼女の魔法は何の意味も成さないという欠点を抱えている。
便利に見えて意外と不便な一面もある彼女の魔法だが、
霧熊の武器はなにもそれだけではない。
(警備は三人。一人は確実に監視カメラの映像や館内のセキュリティを一括して管理する中央管理室にいるはず。
フリーは二人。館内を巡回しているとしたら、
一階と二階で一人ずつに分かれているか、
それとも二人一緒に行動しているのかでこっちの出方も変わるけど……、
まあとりあえず、最初は中央管理室にだけ集中できればそれでいっか)
霧熊は一瞬にして思考を巡らせる。
いつものフワフワした雰囲気は一切感じられなかった。
至って冷静に、あらかじめ知り得た情報を元に状況を分析し、
自分が次にとるべき行動の答えを早急に導き出す。
(まあどのみち、中央管理室さえ抑えちゃえば残りの警備員の動きも分かるよねー。今はとにかくそっちに集中できればいっか)
状況判断能力。
とくに魔法などで補っていない、潜在的な力。
霧熊のそれは、他の二人と比べて段違いだった。
追い詰められ、窮地に立たされるほど、
彼女は冷静に物事を考える事ができる。
焦燥に駆られず、足元に転がっているたった一つの正解を掴みとることのできる、磨き上げられた業。
彼女が育ってきた環境は、一人の少女をそうしてしまうほど熾烈を極めていた。
静まりかえった館内に、カリカリカリ……、という音が響いていた。
ここに務める警備員が耳にしたら、それは天井と壁の接合部分に沿うように取り付けられた|通風管の中を、
ネズミの爪が引っ掻く音であると経験則的に分かるだろう。
そしてそんな音を立てながら通風管の中を進むのは体長10cmほどのアカネズミ……、に化けた霧熊である。
(ちゅー……、別にこの姿なら直接館内を練り歩いてもいいんだろうけど……、
警備員の誰かが解呪術を使わないとも限らないし、なによりセキュリティトラップに引っかかる可能性を否定できないから無闇なことはできないよねー……)
心の中でボヤく霧熊は、頭の中にある館内の地図を思い浮かべながら、迷うことなく的確に通風管内を移動していく。
通風管内ではゴウンゴウンと音が響き、生温かい空気がゆっくりと霧熊の全身を包み込んでいた。
(建物の中央に位置する中央管理室ならびにその二階にある光石展示ホールには窓がない。ならば侵入経路は必然的に換気口になる、か)
いくつかの曲がり角を曲がり、予定の場所を確認すると、
薄暗い通風管の床から光が差し込んでいる場所へ差し掛かった。
淡い光を覗き込むように、所々にくせっ毛を立たせたアカネズミは下の様子を伺う。
『あっ!! ずりーぞこのイカサマ野郎!』
『ばーか。テメェの運の悪さを人のせいにすんじゃねえ』
『お前がこっそりトランプに《丸分かりの呪文》をかけてるの、俺さっき見ちゃったんだけどなー』
『ばっ!! おまっ!! バラしてんじゃねえ!!』
『やっぱイカサマじゃねえか!!』
中央管理室には、なんと三人の警備員が雁首を揃えていた。
三人は木目調の長テーブルを囲み、トランプで遊んでいたのだ。
紺を基調とした警備服を着込んだ三人の大人がババ抜きをしているところを見ると、どうも激しい違和感がある。
その様子を通風管から眺めていたアカネズミこと霧熊霞美は眉根を寄せて、軽蔑の視線を眼下へと向けていた。
(仕事しろよ給料泥棒ども!!
この様子じゃ、一晩中遊んで終わりみたいだなー……。
ここで待機していても無駄に時間がすぎるだけだよねー)
霧熊はため息をつくと、その小さな手で換気口を少しなぞった。
「焼き切れ」
換気口の縁を一周するように青白い閃光が走る。
凄まじい熱によって金具が溶断された換気口の蓋は、そのまま重力に従って中央管理室の床へと落ちる。
激しい轟音に三人の警備員の視線は釘付けになる。
そして床に落下した換気口の蓋の上へ、一匹のネズミが降りてきた。
「な、なんだ……?」
警備員の一人が不意に声を漏らす。
それに応えるように、体長10cmほどのアカネズミは、
まるで何かを巻き取るかのような音と共に、竜巻のような風に包まれた。
しかしその竜巻は周りのものを巻き込むことはなく、蜃気楼のようにネズミの姿を歪める。
蜃気楼の竜巻が止む頃には、その中心にいたはずのネズミは中学生か高校生ほどの少女へと変貌していた。
そこでようやく、警備員の三人は事の異常さに気がつく。
「なんだお前!!」
「侵入者かッ!?」
「そこを動くなよ!」
三人が一斉に行動に出る。
腰に提げられた明らかにプラスチック製の拳銃を引き抜き、侵入者の少女へとその末広がりの銃口を向けた。
銃刀法が存在するこの大和では、拳銃などは専用の資格を保有する者か、警察官以外の所持は許されていない。
(テーザーガン?)
突きつけられた拳銃は、よく見ればゴツゴツとした重厚な形状をしていた。
その玩具のような見た目に、霧熊は《ライティア大陸》にある大国の警察官達に支給されている射出型のスタンガン・『テーザーガン』を思い浮かべる。
(そういえば、依頼人から送られてきた資料の中に警備員に支給されている武器の詳細も載ってたっけなー。
たしか高濃度の人工魔力を凝縮して造られた特殊な銃弾が使用されていて、それに被弾すると一時的に昏倒するとかなんとか)
魔力とは、生命という器に湛えられた『水』だ。
その水は絶えることなく一定の間隔で波紋を生み、生命活動の一角を担っている。
その波長や鼓動の周期をデータ化すれば、一個人をGPSのように追跡することも可能だ。
警備員に支給されている特殊な銃弾は標的に着弾すると同時に高濃度の人工魔力を体内に注入し、
その者の魔力の波紋を一時的に乱すことで昏倒状態に陥らせることが出来る。
いわば、本来電極を射出して標的に電流を浴びせる武器であったテーザーガンの魔力版。
《ハイウェーブガン》。
一発の被弾だけでは死に至ることはまずないが、もちろんそれは確率的に低いというだけの話。
当たりどころが悪ければ死に至る可能性は格段に高まる。
霧熊は思考を巡らせる。
3対1。
成人男性と少女。
飛び道具と素手。
圧倒的な絶望。
しかし霧熊霞美は一切の焦りを見せない。
いつものフワフワした雰囲気は全く感じられない。
薄く開かれた瞳は虚空を舞う埃ではなく、
確実に目の前の警備員の男たちを捉えている。
すると男の一人が腰に掛けられていた無線機へと手を伸ばすのを、霧熊は補足した。
彼女の《幻覚魔法》は、対象の五感で直接感じ取られることでその効果を発揮する。
つまり機械越しの映像や音声になってしまっては、彼女の手の届く範疇を超えてしまう。
それなら。
「欺く」
霧熊は唇の動きを最小に抑えながら、言葉を紡いだ。
その言葉はただの声ではなく、彼女の内に秘められた魔力を元に紡がれた異能の力。
しかし警備員たちも知っている。
魔法が普及したこの世の中で、魔法を使用する際になにかしらの呪文を詠唱するのが一般的であることを。
ズパァンッ‼ という轟音が響き渡った。
警備員の一人が、躊躇なく引き金を引いたのだ。
《ハイウェーブガン》は、一発だけでは死に至ることはない。
しかし、被弾箇所が急所であった場合は、その限りではない。
この世界では昔より格段に命を奪う技術が高まっている。
どんな些細な魔法であれ、使い方によってはいとも簡単に人一人を殺すことが出来るのだ。
しかもそれがナイフや拳銃といった、
明確な凶器という形で存在するものであれば事前に対処のしようがいくらでもあるのだが。
魔法とはそれが放たれるまで、何が、どの角度で、どのように迫ってくるのかが全くの未知数である。
呪文を詠唱されたら終わり。
やられる前に、やらなくてはならない。
それが、この世界で自分の身を護る最善の策である。
「な……に……ッ!?」
確かに放たれた人工魔力の塊は、目の前に悠々と立つ少女の心臓に直撃した。
そして、侵入者の少女が床に倒れるところも見たはずだった。
「お前……、なにしてんだッ!!」
しかし、これはなんだ?
目の前に倒れているのは、少女ではない。
突如として疾風のように目の前に現れた少女は、
はたして紺を基調とした警備服を着ていたか?
体のサイズに合っていない大きめのサルエルパンツを履いていた、寝癖の多い少女はこんなに大きな体であったか?
違う。
そこに倒れているのは、
「た、焚口ィィッッ!!!???」
男は、目の前に惨めに倒れる同僚の名前を叫んだ。
自らの手に持つ拳銃が、世界で一番凶悪なものに感じる。
「あーあ。ちゃんと見て撃たないからー」
声がする。
それは、右隣から……いや、先ほどまで正面だと思っていた方向から聞こえた。
そこで、銃の引き金を引いた警備員の男はようやく気付く。
別に少女は焚口を盾にしたわけではなかった。
というか、一歩も動いてはいなかった。
動いていたのは、自分自身。
正面に立っていた少女からわざわざ左隣の同僚へと銃口を向け直し、
そして無線で本部と連絡を取ろうとしていたその同僚に向かって引き金を引いたのは、紛れもない自分自身だったのだ。
「なん、で……、俺は……、俺はッ!! 違う!! 俺は撃ってない!!」
「おい落ち着け。今はそんなこと言ってる場合じゃねえ!!」
残ったのは二人。一人はどうにか霧熊に銃口を向け続けている。しかし無意識にとはいえ自分の仲間を昏倒させてしまったことに対して膝から崩れ落ちている同僚と、少女とを交互に見ながら一筋の汗を流す。
「――視覚を欺く。《虚像の複製》」
呪文が紡がれる。
少女に銃口を向ける警備員の一人がそれに気づいたのは、すでに少女が呪文を紡ぎ終わったあとだった。
視界が、歪む。
まるでゴーグルを着用しながら大量の涙を流したように、じわじわと視界が歪んでいく。
いや、違う。
歪んでいるのは視界ではなく、少女の姿そのものだ。
それは周囲に突如として大量の鏡が出現したかのように、
目の前に佇む中学生か高校生ほどの少女の姿が、
二人、三人、四人……、と増えていく。
「なんだこりゃ!? 幻覚……? 《幻覚魔法》の一種か!! クソッ!!」
侵入者に銃口を向けていた警備員は完全に幻覚に取り込まれる前に、
最初から捉えていた真正面の少女へ向けてすぐさま発砲した。
純白の閃光が迸り、それは確実に本物であるはずの少女に命中する。
確実に、拒絶の弾丸は、その額の中心に突き刺さった。
いくら少女が複数人見えていたところで、それらは全て幻。術者の意識を奪えば、タレントの機能も停止する。
これで、十人以上に増えた少女の幻影は、一人残らず消滅して、
「おー、惜しいねがんばれー」
幻影の一人が、喋る。
よく見ると、額を明確に打ち抜いたはずの少女は、何もなかったかのような表情でそこに立っていた。
そして彼が打ち抜いた額から、まるで蛇口をひねったように、
ドロリとした動きでもう一人の少女が姿を現す。
「どーするどーする?」
「どーするどーする?」
「もう残ったのは貴方だけ」
「かーごめかごめー♪」
「籠の中の鳥に、一度だけ囀るチャンスをあげよー」
「さあ、よく狙って」
「チャンスは一回だけ。そのたった一回で、」
「本当のわたしを撃ち抜くことができたら、」
「貴方のだいしょーりー♪」
「さあさあ狙って」
「私を狙って」
「引き金を引いて」
一人、また一人と直前まで声を発していた少女の声を受け継ぐように喋る幻影たち。
男はどうしていいのか分からず、声を放つ少女に次から次へと銃口を向け直すしかなかった。
「さあ」
「さあッ」
「さあッ!!」
幻影の声が男を焦燥に追いやる。
警備員の男は最後に目についた少女に向かって、
最後のチカラを振り絞りながら引き金を引いた。
ズパァンッッ!! という轟音とともに、
純白に輝く拒絶の弾道は、ひ弱な少女の心臓を的確に射抜く。
しかし、
「「ざーんねーんしょー♪」」
声が重なって聞こえる。
それは心臓を射抜かれた少女のものと、その弾痕からドロリとした挙動で粘性の高い液体のように新たに現れた幻影によるものだった。
目の前の光景は狂気に満ちている。
警備員の男は部屋の扉を開けて外に逃げるという簡単な選択肢すら忘れて、ただ笑う膝を必死に抑えながら目の前の幻影たちにあまりにも弱々しい銃口を続ける。
「や、やめ……ろ…………」
男は震える声を放つ。
気がつけば、足元には二人の同僚が倒れていた。
あまりのショックでいつの間にかもう一人も気を失っていたらしい。
圧倒的な数の幻影たちは、その声を聞くと口を耳まで引き延ばして笑みを形成する。
しかし、目は笑っていない。
気持ちの悪い笑みを四方から向けられ、
警備員の男はついに膝から崩れ落ちて頭を抱えてしまう。
「かーごめかごめー」
「「かーごのなーかのとーりーはー」」
「「「いーついーつでーやーるー」」」
まるで大量のスピーカーに囲まれているかのように四方八方から不気味な少女の声が男の耳に滑り込む。
必死に耳を押さえても、隙間を縫って入り込んでくる。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
男は目を見開いて周りの全てを遮断しようと小さく、小さくうずくまる。
そんな視界の外、幻影の一人はうずくまった男の前に近寄り、
覗き込むように膝を曲げてしゃがんだ。
スカートを履いた女の子なら少しは気を配るのだろうが、
侵入者の少女は大きめのサルエルパンツを履いているからそんなもの関係ない。
そして、その幻影の一人はその人差し指の指先を、
震える警備員の頭に添えて、まるで歌うように口ずさんだ。
「速やかに眠れ」
囁かれる、最後の呪文。
魔法が発動し、警備員の男は小さくうずくまったまま強制的に気を失わされた。
美術館の中央管理室には、気を失った三人の人間の姿がただ無様に放置されていた。
それ以外は特に、誰の姿もなかった。