第一話「三匹のウサギ」
大都市・天都。
《レフタイル大陸》の最東端、総人口一億三千万人を誇る島国《大和》の首都だ。
大きな港と国際空港を持つ大和の玄関とも言える都市で、様々な人間や異種族たちが頻繁に出入国をしている。
多くの飲食店や娯楽施設が備わった《繁華街》から、
貧困層が密集した《スラム街》まで存在するこの都市は、
百年前に勃発した《センターラ侵攻大戦》を終えた直後の混乱期も乗り越え、
黎明期に突入した現代に大分落ち着きつつあった。
そんな天都の繁華街。
日が沈み、空が暗くなるにつれて活気が増すこの街は、
仕事が終わったサラリーマンたちが少し顔を赤らめて千鳥足になりながら酒臭い街を練り歩いている。
目抜き通りから少し外れたアーケードの中に、控えめな、
それでいて華やかな電飾で光る《ヴァルハラの華たち》と書かれた電光看板が立っていた。
「お兄さん! 可愛い子いるよ! 寄ってって、寄ってって!」
店の前では黒いスーツを着たボーイが、
よろよろとおぼつかない足取りで歩く、お世辞にも『お兄さん』とは呼び難い二人の中年男性へ声をかけていた。
今夜もまた、こうしてまんまとボーイの口車に乗せられた活きのいいカモが、《ヴァルハラの華たち》へ入店してくるのだった。
※
「はぁ~い☆ 二名様ごあんな~い!」
天井に吊られた豪勢なシャンデリアが、青みを帯びた照明に照らされてまるで宝石のように輝く。
ガラステーブルをグルッとコの字にソファで囲む小さな空間が、等間隔で並んでいる
両手で一つのグラスを持ってチビチビと酒を飲む、遊び慣れしていない中年男性や、
ガッハッハと大口開けて笑い、両手にグラマラスな女性を携えた成金オヤジなど、
種類は異なるが大抵は仕事疲れの溜まった40代から50代ほどの男性が多かった。
そんな脂っこい中年のオヤジ達の相手をするのはここのホステスたちだ。
平均年齢22歳という、ここらでは群を抜いて低年齢層の女性たちが働いていることで人気を博している。
しかしここで働く夜の蝶たちは、普通とは少し違う格好をしていた。
際どい角度のレオタードに網タイツ、
頭には長い耳のようなものが二つ付いたカチューシャを着けているのだ。
只今キャバクラ《ヴァルハラの華たち》は『バニーガール強化月間』という、
なんとも性欲で頭が満ちた大人がポッと考えたようなイベントの真っ最中なのだ。
そのイベントに順ずるようにホステスたちは皆、
各々配布された《選べる七色バニーちゃんコスチューム》をそれぞれ工夫して個性を作っている。
そんな艶美な空間の中に、似つかわしくない幼きホステスが三名。
「キミ若いねぇ……、未成年じゃないの?」
小太りの中年男性が、隣に座る黄色いバニーガールに問う。
黄色いバニーガールは、その肩甲骨くらいまである茶髪を揺らしながら、首を傾けた。
「ほわー……、うーん……、今日はー、ベッキーの代わりに来てるのー」
黄色いバニーは麦茶の入ったグラスをテーブルに置きながら、アゴに人差し指を当てる。
まるで宙を舞う蝶を目で追うようにボーッとしながら答える。
「あー! お嬢ちゃん、どっかで見たことあると思ったら、あの『なんでも屋』の子か。
なるほど。今日はレベッカちゃんが見当たらないと思ったら、『なんでも屋』に代理を頼んでたのか。え、でもキミ未成年――」
どこかの客が言った。
黄色いバニーはそれでも変わらずボンヤリと、どこか遠くを見据えた雰囲気に覇気のない声で適当に相槌を打つ。
「え!? 仕事で来てるって事は、もう二人の女の子も来てるのかい!?」
片手に持つグラスに入った焼酎をこぼしそうになりながら、一人の客がまるで食い入るように黄色いバニーに声を放つ。
「んー?」と黄色いバニーがやる気のない声を放つと同時に、
また別の二人のバニーガールがシャンパンのボトルをそれぞれ一本ずつ持ってテーブルへとやってきた。
「はぁーい、二人ご指名はいりまーす」
テーブルにシャンパンのボトルを乱雑に置いたのは、
その珠肌を黒のエナメル衣装で包んだ、見た目10歳ほどのかなり身長の低い幼女だった。
よくその痩身矮躯な体に合うサイズがあったなと、
オヤジ達はコスチュームを作った制作会社の守備範囲の広さに関心を持ったのだった。
「指名料は、ドンペリ二本で手を打ってあります。今日は飲み明かしちゃってください」
黒バニーの隣に立つ白いエナメル衣装のバニーガールは、
その手に持つシャンパンのボトルを優しくテーブルに置いた。
脂ぎったオヤジ達は、二人のバニーガールを交互に見る。
透き通るような白い肌に、肌より白いウェーブのかかった短髪をさらに際立たせる、
真っ黒なバニーコスチュームを着ている幼女。
外見年齢10歳ほどの幼女がエナメル素材のバニーガールの格好をしているというのは、
どこぞのPTAの目に留まれば直ちに社会問題になりかねない要素を孕んでいる。
まるで闇夜を照らす清白の月明かりを具現化したようなその小さな幼女の瞳は、
それら全てを否定するように、赤く煌々と輝いていた。
「レイティアちゃん!? うっひゃー……、まさかこんなところでレイティアちゃんのバニーガール姿が見れるなんて生きてて良かった!!」
「いやいやしかし犯罪的だ。娘よりも幼い女の子がこんな格好しているのは圧倒的に犯罪的だ……っ!」
どこからかオヤジ達の感嘆の声が聞こえてくる。
隣に立つのはチョコレートのような褐色肌にサラサラの黒い短髪を持つ少女。
自分を真面目に見せるために黒縁メガネをかけている知的で堅実な雰囲気を醸し出す少女は、
恥ずかしげもなく真っ白なバニーコスチュームを着こなしていた。
「確かに小悪魔系のレイティアちゃんも捨て難いが、
俺はどっちかというと普段の慎ましやかな外見とは裏腹にちゃっかり艶のあるバニーガールになりきっちゃってるシルビアちゃんの方がそそられるぜ」
勝手なオヤジ談義を始める客たちのもとへ、二人のバニーガール……、もとい『なんでも屋』の二人はソファへ腰をかける。
賑やかな店内にはカラフルなバニーガールと客が多くのテーブルを囲っていた。
複数のボトルを宙に浮かせて運ぶ黒服のボーイや、ただの水を赤ワインに変えるホステスなどがちらほらと見て取れる。
新雪のように白い肌を黒バニーの衣装で包んだ幼女が、
中年男性に執拗に密着してこの店で一番高いシャンパンを無理やりグラスに注ごうとしていたその時だった。
どこかのテーブルからなにかが割れる音と、複数の悲鳴が聞こえてきた。
「いーじゃねーかネーチャン。これくらい最近当たり前のサービスだよぉ?
そんなカッコして、本当はおじさんに触られたいんでしょぉ???」
悪酔いした男が、嫌がるホステスの一人に執拗に擦り寄っていた。
それを止めに入ったボーイを殴りつけてその場を牽制する様子も窺える。
「オイオイなんだぁこの店は!? 客に対してクソみてえな対応しかできねえのかぁ?」
皆の視線がその客へと集まる。完全に酩酊して自我を失ったその男の手には、鈍く輝く棒状の何かが握られていた。
「ねえ……、あの人、ナイフ持ってない?」
誰かがそんなことを口にした。その何気ない一言に、周りの空気がさらに張り詰める。
しかしそんな緊迫した空間の中で異彩を放つ三人のバニーガールは、
雰囲気に飲まれることなく鋭い眼光で声を荒げる男を見据えていた。
「シルビィ、氷操作なんて魔法あったっけ?」
「そんなピンポイントなものはありません。おそらく《水属性魔法》を応用しているのでしょう。
空気中……、もしくはグラスに継がれた液体を操作、凝縮、凍結させた、いわゆる裏技的なものですね。規模から察するに【E判定】か【D判定】どまりでしょうけど」
黒バニーの問いに、白バニーはいたって平淡に答える。
その頭に収まる世界の知識を元にどう見ても異常なこの状況を、
極めて冷静に観察し、分析し、解析し、考察し、結論を導く。
しかしこうしている内にも、男はその氷の刃を振りかざし、
黒ずくめのボーイに食ってかかろうとしている。
「んあー……、あたしが行ってこよーかー?」
黄色いバニーが首を大きくかしげながら、二人の白黒バニーに対して子供のように上目を使って問う。
「(や、やめとけお嬢ちゃんたち。その綺麗な肌に傷が付いちまうぞ)」
同じテーブルにいた中年男性が小声で『なんでも屋』の三人に忠告するが、その頃にはもう遅かった。
「おいそこの客」
勇ましいセリフを放ったのは、正義感に駆られて立ち上がった勇敢なヒーローでも、黒スーツの上からでも分かるモリモリの筋肉を携えたスキンヘッドのオーナーでもない。
「あ? なんだテメェ。ちっこい図体しやがって、マセガキがナメた口きィてんじゃねえぞ!!」
顔をほんのり赤らめて目の焦点すらまともに合っていない男は、
目の前に佇む身長135センチメートルの黒いバニーガールを泳いだ眼光で睨み付ける。
そして。
ついに糸の切れた男はテーブルに置いてあったシャンパンのボトルを床に叩きつけ、中身を撒き散らした。どこかで悲鳴が上がったが、男はそんなことに興味を示さない。
すると撒き散らされたシャンパンが、一滴残らず宙に浮いた。
それが半分ずつの分量に分かれ、二つの水球は男の両手へと向かうと、
液体から五寸釘ほどの鋭い個体へと変化した。
これが魔法。
世界に点在する森羅万象に変化を与え、それを手足のように操ることさえ可能にしてしまう技術。
「死ねやァアアァアァァアアァァァァアアァアアァアァ!!」
男は叫ぶと右手に持つシャンパンの杭を黒バニーへと投げた。
しかしそれは中年男性の投擲力を遥かに上回り、一瞬にして万人の視線を振り切る。
氷というよりは弾丸。投擲というよりは射出。
か弱い幼女の柔肌を穿つには充分すぎた。
ひとつの命を容易く奪えるようになった世界。
日常の何気ないワンシーンがいとも簡単に崩落し、
血で血を洗うような戦場へと変えてしまう、そんな世界。
しかし。
男の放った鋭利なアルコールは少女の柔肌を穿つことはなく、
遥か前方の壁にぶち当たり、砕けた。
だがそれは別に、男が氷の杭を射出する方向を誤ったわけではない。
「ひとつだけ、教えてあげるわ」
背後から声が聞こえる。それは、男がつい先ほど奪うはずだった命の声。
男は現状に苦虫を噛むような表情になりながらも、
もう片方の手に収まる氷の杭の矛先を背後へと向け直し、思い切り射出する。
まるでガス銃で射出されたかのように、
なんの前兆もなく虚空を裂いたほのかに甘い香りのするその冷たい凶器は、
背後にあったソファに深々と突き刺さる。
「お客様は神様だ、なーんて言うけどさぁ」
耳元。
まるで、囁くように。
恋人を誘うような作られた甘い声で、耳と唇がほとんど当たりそうな位置から、声が聞こえる。
それも、ただの声ではない。
自分よりも身長が30センチ以上は低かったはずの人間の声が、である。
周りの人間には、こう見えたはずだ。
男が氷の杭を前方に射出したその瞬間、
黒バニーの少女はそれに勝る速さ、力で跳躍し、男の頭上を飛び越えた。
周りの人間には、こう見えたはずだ。
男が瞬時に氷の杭の軌道を変え、ほぼ音速に近い速度で背後に冷たい凶器を射出したのを合図に、
黒バニーの少女は背後から思い切り男の膝裏を蹴り、男が仰け反るように体勢を崩させた。
周りの人間には、こう見えたはずだ。
自分の胸元の高さまで仰け反った男の頭を、
まるで恋人が後ろから抱くように腕を回し、
それを最後に幼女の体から男の体へ、眩い紫電が伝った。
壮絶な轟音とともに、酒に濡れた男の体はあっという間に電気に飲まれ、
死にかけの魚のように痙攣した。
「自己陶酔も大概にしときなさい。私がこの世界に足をつけた時点で――」
周りの人間には、こう見えたはずだ。
命というものがそれはもうシャボン玉のように握りつぶせるそんな世界においても、
この少女はおそらく、いや確実に、他者を圧倒するだろう、と。
黒いバニーガールのコスチュームに身を包んだ真っ白な幼女は、
気絶して腕の中で震えている男の頭を、最後に優しく撫でた。
その外見では誰もが予想だにしなかった圧倒的な実力差が、男と少女の間には明確に存在した。
人間とは明らかにかけ離れた力量を見せつけた少女はもはや意識のないその男へ、
それでも冷徹に、しかし眠る我が子に教えるように言葉を紡ぐ。
「――この世界の神は、シルビィただ一人なんだから」
小さな腕の中で白目を剥いた男にはもう興味が無くなったのか、
つまらなそうな表情とともに黒バニーはそこら辺に男を放り捨てる。
ウェーブがかった真っ白な髪をさっと払い、純白の幼女は自分の客が待つテーブルへと戻っていった。
確かに、突発的な出来事に驚きはした。
しかしこの場にいる誰しもが、物理法則を完全に無視した今の大道芸に、一切疑問は抱かなかった。
「な、なんだあの魔法? いや、魔術? 《杖》使ってなかったよな?」
「《暗号符》だよ。珍しいものを使うやつもいたもんだ!」
一昔前の人間には考えられない領域で机上の空論が繰り広げられている。
「一足遅かったようですね……」
褐色肌の白バニーは、呆れたように中指の先で額をツンツンと叩いた。