第十七話「覚醒。そして、降臨」
グラハムの動きが止まったのは、おそらく霧熊の魔法が途切れたからだろう。
それを見て一安心する赤毛の魔法使い、アイリン=クロックホルム。
「速やかに眠れ」
視界を奪われて手探りでウロウロする霧熊に対し、《昏睡の魔法》を放つ。
少しの抵抗を見せるが、彼女はレイティアドールのようにうつ伏せで教会の床へと崩れ落ちた。
周囲の光景が元に戻っていく。
歪みは正され、耳を刺激する音もなくなった。
そこで先ほどの攻撃のショックで気を失っているグラハムへとそっと視線を移すが、そこですぐさま周囲に目を戻す。
(ロンバルドはどこですか!?)
そう。
先ほどまで霧熊が辺りの光景を歪めていたせいで気が付かなかったが、元に戻って見るとあの白い人形が倒れていたはずの場所には、誰もいなくなっていた。
アイリンはハッと祭壇の方へと視線を移した。
そこには戦闘の余波をなんとか逃れながら、今も横たわる《聖なる誉》の姿があった。
しかし、アイリンの視線はそこには向かない。
その祭壇に手をつき、なんとか自分の体を支えながら立ち上がった、一人の小さな幼女。
紛れも無い、先ほどグラハムの力を借りて業火でその骨の髄まで焼き尽くしたはずのレイティアドール=ロンバルドがそこには立っていた。
震える膝を抑え、弱々しくも頼もしいその細い足で横たわる主人を覗き込むように立っていた。
「なにをする気ですか!?」
アイリンは慌てて《レーヴァテイン》の照準をその幼女へと向けようとするが、レイティアドールの方が早かった。
「……、まったく、気持ち良さそうな寝顔しちゃって、呑気なものね」
まるで音が消えるように。
ステンドグラスから差し込む、くすんだ月明かりが二人を照らす。
「……、ごめんなさいシルビィ。私は結局、アンタがいなきゃダメみたい」
ボロボロになった純白の幼女が目の前に横たわる少女の顔へと自らの顔を近づける。
それはもう、ゆっくりと。
アイリンですら、それに見惚れてしまうほどに。
「正しき力は、正しき主の元へ」
囁くような、優しい詠唱。
それは大切な人を護るための、純粋な優しさが込められた愛の言葉。
可憐な蒼白の天使の唇と、
聡明な漆黒の天使の唇が、
重なる。
完全に、時が止まった。
二人の少女が口づけを交わすことが、この世界にどれだけの影響を与えるかを証明するように。
その瞬間はまさに、永遠を感じさせた。
目にした光景はあまりにも美しく、
あまりにも艶めいていて、まるで教会の天井に描かれた絵画のような迫力にアイリンは完全に引きこまれていた。
「なに、を……」
あまりにも衝撃的な行動に、アイリンは佇むことしか出来なかった。
なにかが、明確に変わる。
歪んでいた事実が、正される。
そして。
アイリンによって眠らされていたシルビア=ローゼンクロイツが、覚醒した。
それこそどこかの童話のように。
しばらくの余韻の後、レイティアドールはゆっくりと唇を離した。
「ありがとう、レイ」
「……、ごめん、なさい。うっ……、私、なにも、できなかった……ッ」
今は煤汚れた白い肌に、小さな雫がポロポロとこぼれ落ちる。
レイティアドールは俯きながら、必死にそれを拭った。
屍体であるはずのレイティアドールの瞳には、明確な感情が灯っていた。
「そんなことないですよ。貴女は良くやってくれました。もう少しだけ、一緒に頑張りましょう」
シルビアはレイティアドールの白髪を優しく撫でると、ゆっくりと上半身を起こす。
その視線を、アイリン=クロックホルムの方へと向けた。
「……、いくら貴女が覚醒したところで、今の貴女になにが出来るんですか?」
「確かに今までの私なら、貴女に太刀打ちできなかったでしょう」
ヒュゥゥ……、と、風もない教会内につむじ風が起こる。
アイリンは反射的にグラハムへと視線を移すが、彼はまだ気を失っていた。
次に霧熊へ視線が移るが、やはり彼女も床に顔を伏せている。
となるとあの白い幼女かと思ったが、そもそも彼女のタレントは【X判定】だ。
《暗号符》による単調な魔法ならまだしも、そもそも魔力を常に消費しなければならないのに『つむじ風を起こす』だけの魔法を使用するはずもない。
となると…………。
風はゆったりと、まるで宇宙の塵を混ぜる混沌のように、速度を上げながら祭壇に腰を下ろすシルビアを中心に渦巻く。
まるで、世界が彼女の覚醒を祝うかのように。
「確か、この教会の裏庭には墓地が広がっていましたね」
シルビアの静かな声に、アイリンはピクリと反応する。
百年前の《センターラ侵攻大戦》以前はこの教会にも参拝者がいて、冠婚葬祭の類も粛々と行われてきた。
その時代に土葬された遺体は、今もまだ裏庭の墓標の下に眠っているはずだ。
しかし、なぜ今更彼女がそんなことを言い出すのか。
アイリンは理解するのに数秒を要した。
「ま、さか…………、貴女ッ!?」
シルビアは傍らに置かれていた黒縁メガネをかけると、そっと床へとその足の指先をつける。
まるで、何かに呼びかけるように。
まるで、地下に眠る何者かの眠りを、覚ますかのように。
「甦れ、名も無き安息者達よ!!
悠久の眠りを解き放ち、我が盾となれ!!」
ダンッ!! と、教会の正面扉が力強く開放され、そこから無数の足音を響かせながら、この広間に何かが集結する。
何かが呻き声を上げながら、あっという間に広間を囲うように集結して次の命令が発せられるまで静止する。
それらはまるで兵士のようだった。
しかしくすんだ月明かりに照らされたそれらは、お世辞にも凛々しい戦士とは言い難い。
脚や腕、肩や頭が欠けた屍体たち。
正確には、もともと骨しかなかったものに無理やり肉付けして失敗したような、それこそ崩れた泥人形のような元人間たちだった。
それらはただじっと、ドロリとした視線をアイリンへと向けていた。
その数約50。
名状しがたい容姿のそれらは、小さな少女のたった一言で悠久の眠りから目覚め、集い、従う。
これこそまさに《死屍起し》の真骨頂。
《聖なる誉》と呼ばれた、世界で7人しか存在しない【S判定】のタレントによる魔法の力。
「そ、んな……ッ!! うそだ……、嘘だ、ウソだァ!!
貴女は魔力を失って、今では人並み以下の魔法しか使えないはず!! なのに……、なの、に、どうしてッ!?」
つば広のトンガリ帽子を被った魔法使い、アイリン=クロックホルムは叫ぶ。
完璧に組み上げてきた作戦が、根本から崩れるのを阻止するために。
凡人が天才に打ち勝つ、千載一遇のチャンスを取り逃がさないために、必死でその隙を窺った。
「三年前の冬」
全てはそこに収束する。
様々な出来事が同時に起こった、あの冬の《アリヒ》の教会の話。
「あの日、私は世界で初めて本当の意味で死者の蘇生を成功させた。そして、この子が私に忠誠を誓ってくれたんです」
シルビアは傍らに立つ白い幼女の頭にその手を乗せる。
レイティアドールは鬱陶しそうにするが、何故かその手をどけようとはしない。
「そしてその時、何故か私の魔力のほとんどがこの子の体の中に吸収されてしまった」
糸が、繋がる。
三年前の冬、シルビアの生命に湛えられた【大海級】に匹敵する莫大な魔力は、物理的に消えていたのだ。正確には、吸収されていた。
それで魔力そのものが変質し、その波紋を把握していた組織が彼女の行方をつかむことが出来なくなったのだ。
レイティアドールが常人ならすでに気を失ってしまっても不思議ではないほど、体の至る所に《暗号符》を仕込んでいる理由もこれで合点がいった。
そもそも、よく考えてみればなんら不思議はないのだ。
魔力を常に消費し続ける《暗号符》を何故幾つも仕込むことができるのか。
そんなの、決まっている。
至極当然、単純明快にして簡潔明瞭。
使用者の生命に、それこそ莫大な魔力が湛えられているからである。
「あの接吻は……」
「《契の返上》。この子は今すでに私の力の及ばない存在です。放っておけば私の作り上げた人格が消えてしまうでしょう」
だから、とシルビアは続ける。
再び目の前の少女に鋭い視線を向け、今度こそ床に降り立った。『降臨』という言葉が、最も似合う形で。
「そうなってしまう前に、私は早急に貴女を片付けなければなりません」
もはや、言葉は必要なかった。
合図なんて、いらなかった。
ただ真髄まで磨き上げられた力と力が、激突する。
先に動いたのはアイリン。
彼女の両手が合わさる。
勢い良く炎の塊が放出され、それは蒼に色を変えると、シルビア目掛けて一直線に飛来する。
ギィィンッ!! と。
シルビアはただ手を掲げるだけでよかった。
たったそれだけの動作でアイリンの渾身の一撃が弾丸のようなそのスピードを完全に失う。
さらにはそこから手を横に一振りするだけで、蒼い炎の塊は術者であるアイリンの元へと向きを変えてさらに速度を増して発射された。
シルビアの手にはなにもない。
乳白色の大理石でできた《魔法の杖》は祭壇の上に置かれたままだ。
アイリンは横合いに勢い良く飛び、それを必死に回避する。
炎の塊は死者の軍勢の一角に突っ込むと、大きな爆発を伴って教会の壁に大穴を開けた。
そしてシルビアが周りに佇む死者の兵士たちに何らかの指示を飛ばすと、40もの軍勢が一斉にアイリンへと駈け出した。
体のどこかが欠け、中途半端に蘇生を遂げた死者たちは各々剣や斧、槍や鎌などといった武器を片手に呻きながら走っていく。
長い年月を経て磨き上げられた秀才の業が、たった一瞬で天才の前に屈する。
アイリン=クロックホルムは改めてシルビアを見ると、岩をも砕く勢いでその歯を思い切り噛みしめた。
「冒涜者がァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアア!!!!」
ゴオオオオオオオオオオオオッッ!! と、次から次へと酸素を取り入れ肥大化する紅蓮の炎がアイリンを中心として渦を巻いた。それらは瞬く間に死者たちを焼き尽くすが、もともと痛みなどを感じない彼らはそれでも怯むことさえせずにアイリンへと足を進める。
ただでさえ崩れかけた体がさらに焼け爛れながらも、主に命じられたままに目の前の敵を排除するために武器を振るう。
アイリンは一つひとつの攻撃をしっかりと交わし、そして死者の一人から剣を奪うと、そこから二、三人と横一文字に薙ぎ払った。
「負けるもんか……、こんなところで!! 負けてたまるもんか!! 私はあの子に誓ったんだ。
私達を見下し、窮地に追いやった天才共に、努力だけで打ち勝つと!! このクソッタレな世界を、根本から変えて見せると!!」
シルビアは傍らに横たわる死者の抜け殻に、もう一度蘇生魔法をかけて軍勢に加えながらその言葉を聞いた。
『天才』。
確かにシルビアは幼い頃から『天才』の銘を打たれていた。
しかし、それは決して気持ちのいいものではなかった。
【大海級S判定】
魔法が蔓延るこの世界で最高位に値する称号を、彼女は持っている。
しかし逆を言えば、それしか持ってはいなかった。
この『力』のせいで、彼女は友達を失った。
この『力』のせいで、彼女は家族を失った。
彼女にはこの『力』しか残っていない。
そして今もまた、失おうとしている。
純粋に誰かのために戦い、その身を削って努力しているのに、自分のような『力』にいとも簡単にねじ伏せられる、哀れな少女を目の当たりにしている。
「シル、ビィ……?」
レイティアドールはたった一人敵に立ち向かっていった主の異変に気がついた。
黒髪の少女は、その褐色の肌を小さな涙で濡らしていた。
圧倒的な力を振るう《聖なる誉》の頬が、哀しみの感情で湿っていた。
理由はわからない。
おそらく、泣いている彼女自身もわかってはいないだろう。
レイティアドールは思わず駆け出していた。
自分を偽りながら、ただその圧倒的な力を振り続ける主の元へ。そしてその小さな両手で、後ろから彼女を力強く抱きしめた。
「ごめん……、ごめんなさい。私のせいで、辛い思いをさせてしまった」
「いいえ。貴女は悪くありません。私が……、私のこの力が、いけないんです」
「駄目だよ、シルビィ。それ以上無理はしないで。自分に、嘘をつかないで」
あ。
そんな、簡単なことだったのだ。
なぜ今の今まで気が付かなかったのだろう。
それは、今までそんなことを言われたことがなかったからだ。
今まで何かを言ってくれる人が、いなかったから。
『天才』のシルビアがすることはいつも正しくて、
その先にある新た可能性を共に見届けたいがために、周りにいた人間たちは彼女に意見することをしなかった。
だからシルビアは気付けない。
自分の過ちを、自分一人では気づくことができなかった。
しかし、今は違う。
よく考えて見れば、当然なのかもしれない。
レイティアドール=ロンバルドは、シルビア=ローゼンクロイツが創り出した人格なのだから。
彼女が最も欲し、彼女が最も愛し、そして彼女を最も愛してくれる存在。
それが、レイティアドール=ロンバルドなのだから。
自分は既に指標となる存在を手にしていたではないか。
それならもうその存在が示してくれる、最善な道を拒む理由が一体どこにあるだろう。
変わらなければならないのは、自分自身だった。
それが分かっただけで充分だ。
この『力』は、もう誰か傷つけるために使うものではない。
この『力』は、誰かを救うために振るわれなければならない。
そうでない限り、決して自分が救われることはないのだから。
だから、シルビアは力を振るう。
目の前のトンガリ帽子の少女を倒すためではなく、救うために。
「レイ、協力してください」
シルビアは死者の蘇生から手を離し、レイティアドールへ真剣な眼差しを向ける。
「当たり前よ、ご主人」
一片の迷いもない。
既に契は返上されているのにも関わらずレイティアドール=ロンバルドは、目の前の黒縁メガネの少女に微笑みかけた。
「彼女の体のどこかに、『魔力の指向性』を調整するためのアイテムが隠されているはずです」
「魔力の、指向性?」
「そうです。それは《人工聖品》か、或いは《神の文字》が刻まれた護符か、形は定かではありませんが」
シルビアは少しだけ間を開けて続ける。
「彼女は神話に登場する《レーヴァテイン》という《人工聖品》を使用します。
これはたった一振りでありとあらゆるものを焼き尽くしてしまうと言われる、伝説の武器です」
「なによそれ。そんなものが本当にあったら、勝ち目なんてないじゃない」
「ええそうです。本当にあったら、ね」
「どういうこと?」
「彼女は《レーヴァテイン》を剣と呼びました。
確かに《センターラ大陸》に封印された神話では、最終聖戦の際に巨人スルトが《炎の剣》を使用したと明記されています」
「じゃあアイツの腰に提げてある剣が、その《レーヴァテイン》って武器なの?」
「……、いいえ。スルトが使用したのは《炎の剣》とは書かれてますが、それが《レーヴァテイン》であったとは明記されていないんです。
それどころか、そもそも《レーヴァテイン》は剣ではありません。
杖なんですよ。おそらく『一振りであらゆるものを焼き尽くす武器』と書かれているところから、スルトの使用した《炎の剣》が《レーヴァテイン》であると誤解されて伝承してしまったのではないでしょうか」
「杖……? 待ってよ、それじゃあアイツが使う《レーヴァテイン》っていうのは…………」
「おそらくは偽物。あるいは、私達の戦意を喪失させるためのハッタリ」
「でも、なんでそんなことを……?」
「彼女の使う《レーヴァテイン》は太陽よりも明るい光を放ち、相手の視界を完全に奪って方向感覚を狂わせます。
いわば《猛光の剣》といったところでしょうか」
「……、でもさっき、横目にアイツが霞美と戦っているところを見たけど、あれはただのレイピアにしか見えなかったわよ?」
「それが《猛光の剣》です。おそらくあのレイピアそのものが何かしらの《人工聖品》なんでしょう。
多分、あの剣の柄には強烈な光を照射する類の《神の文字》が彫られているはずです」
「でも、光ってるようには見えなかったけど……」
「そこで『魔力の指向性』です。おそらく強い光を照射する魔法を一点に凝縮して放つために、また別のアイテムを使って魔力の指向性を制御していたんだと思います。
逆に言えばあの剣の光は、一点集中型の魔法ゆえに一人の敵にしか効果ないんだと思います」
「だから、私と霞美が二人で相手をしているときは使ってこなかったのね!!」
「その通り。くわえて彼女が得意とするのは《魔法》ではなく、《魔術》です。
魔術は術者単身で行うことはできないので、少なくとも何かしら道具が必要になります。
しかし森に張り巡らされていた《神の文字》は、彼女自身が焼き払いました。となれば、そのアイテムが隠されている場所は一つ」
「アイツの体のどこかってことね」
二人の視線が、一点に絞られる。
残り10人ほどの死者と、息も絶え絶えに対峙する赤毛の少女。
なにかしらの道具が隠せそうで、なおかつ一度もその中身を見たことがない場所。
「「トンガリ帽子!!」」
やるべきことが、決まったようだ。
二人は一度顔を見合わせて頷くと、ゆっくりと赤毛の少女へと歩みだした。