第十二話「レーヴァテイン」
天都の郊外は、自然保護区となっている。
《センターラ侵攻大戦》以後、魔法と共に姿を現したのは数千年前に人類に封印された異種族たちだった。
大戦以降それらの異種族たちとの交流も盛んに行われるようになり、互いの種族に有益な条約を結ぶことも珍しくない。
人類と友好的な異種族のひとつとして最も身近なのはおそらく《森の妖精》だろう。
『大自然の御使い』とされる彼らは、人類に森林の保全を要求した。
それをきっかけに、現在世界各国で森の妖精が提案した一定数以上の森林には一切人間は手を加えない代わりに、街灯や公共交通機関の光を妖精の灯りで賄うことで大きな電力の削減を実現した。
ここ天都の森の妖精たちは、郊外にある広大な《ステラの森》と呼ばれる森で生活している。
その森の中に今は忘れ去られたひとつの教会が存在した。
人が訪れなくなって長い年月が経ったためか、ここへと通ずる道もなくなってしまった。
以前整備されていた山道は草木に覆われ、獣道と化していた。
既に空には月が昇っており、街灯などが一切ない森の中は真の暗闇に包まれていた。
しかし蛍より遥かに明るい森の妖精たちの光のおかげで、シルビア=ローゼンクロイツは難なく歩みを進めることができる。
森の妖精は特に警戒心の強い種族ではないのが幸いしたのか、並大抵の懐中電灯よりも明るい光を放つ彼らは、夜の森に踏み込んだ彼女に少し興味を示しつつも敵対することはなかった。
草木の生い茂った山道を外れて、正真正銘の獣道をひた進んだ先の茂みを両手でかき分けると、
月明かりだけで照らされた大きな教会が姿を現した。
どうやら教会の裏手の方に出てしまったようで、そこには幾つもの墓標が立ち並んでいた。
苔に覆われ、ツルの絡んだ墓標はまるで、永い年月の中で再び誰かに会うのをただ待ち続けていたようだった。
森の入口から三人ほどの森の妖精たちが親切で足元を照らしてくれていたことに初めて気がついたのは、
教会を取り囲む空間に到達した瞬間、一切の森の妖精たちがそれより先に足を踏み入れようとしなかったからだ。
頼りの明かりが月明かりだけになったシルビアは、片手に持つ白い大理石の《魔法の杖》を一振りすると、その先端に青白い光が灯った。
「ここが目的地ですね……。あぁ……、《ソロモンの鐘》、その謎を今解き明かせるんですね!!」
無謀なまでに探究心が旺盛な少女は、頬を紅潮させて瞳を輝かせる。
20分ほど道ならぬ道を歩いてきたとは思えないほどの活力を見せるシルビアは躊躇なくその聖域へと踏み込んでいった。
裏庭の墓地から表へと周り、何年もの間開かれていないであろうずっしりとした木造の扉を前に立つ。
シルビアは高鳴る鼓動を抑えようと深呼吸をする。
心が落ち着くと共に、シルビアにはひとつの情景が浮かんできた。
それは真っ白な雪化粧で彩られた《アリヒ》での景色。
自由を知らなかったシルビアがその人生と明確な決別を果たしたあの日の光景が、彼女の脳裏にふと浮かんできた。
目の前の教会から神父が顔を出すことはなかった。
シルビアは重く佇む大きな扉にそっと手を添えようとした。
あの時とは違う。
今は、彼女自身の意思で、この扉を開くのだ。
扉に手が触れる少し前、シルビアは気づいた。
木製の扉になにやら熱した鉄を押し付けたような、独特な紋様の焼印があったのだ。
扉に触れようとしていた自らの手をそっと引き、首を動かさずに周囲を警戒する。
(これは何らかの魔術の跡。
しかもこの手法から察すると、おそらくは罠。
獲物がこの扉に触れることを引き金としたブービートラップ……。だとすると術者はまだ付近に? いや、おそらくは森に入った時から既に監視されていた可能性も……)
シルビアの疑心を裏付けるように、夜空に瞬く無数の星のように輝いていた森の妖精たちの光が消え、夜の森がその本来の姿を取り戻していたのだ。
シルビアは教会には踏み込まず、その周辺を探索することにした。
あくまで何者かの存在を警戒しながら、慎重に。
(なんの変哲もない木の幹ですが、根元にはナイフで傷つけられたような跡が……。
これは《神の文字》? 確かこの形状は『統一、隠蔽、食欲、脱力』などの意味が含まれていたはず)
《神の文字》は複雑な文字列を必要とせず、たった一文字だけであらゆる意味を内包する文字。
そしてそれが刻まれた物には何らかの『意味』が付与され、術者の魔力と連動して力を発揮する。
(あの木の幹にも……、あっちの木にも。よく見たら教会の壁や小さな岩にも刻まれていますね。
おそらく、この森全体が何者かの手によって巨大な『意思』となっているんですね……。
しかし、どうやって? こんなことをすればいくら温厚な森の妖精たちも黙ってはいないでしょうし……。
もしこれが昔に刻まれたものならば、こんなに木の根元に残っているはずがありません。おまけに樹液が滲み出て間もないことから、つい最近つけられたものと判断できます)
そこで、シルビアは別のものを探し始める。
しかしその時にはもうすでに遅かった。
(やられましたね。帰り道が分からない。
確かに、印を刻んで歩いていたはずなのに……。
この森に刻まれた《神の文字》、そしておそらく教会の扉に押された焼印は偶然ではありません。
全ては私になんらかの接触を図るためか。
でも、どの段階で計画が漏洩していたんでしょう……?
今回の依頼は受諾してから実行するまでそんなに時間はかかっていないはずですが……)
そこで、シルビアはハッと顔をあげ、
「もしかして、最初からこれが目的……ッ」
「大地よ、怒り狂え!!」
近くの茂みから何かが飛び出すと共に、呪文が叫ばれる。
ドゴォッ!!!! と、それに応えるようにシルビアの足元の地面が膨れ上がり、真っ赤な火柱が吹き出た。
自らの体を思い切り放り出す形でなんとかその不意打ちを回避し、シルビアは茂みへと隠れる。
「隠れても無駄です。どこへ逃げようとも、結局は此処へ戻ってきてしまいますから」
声を発したのは先ほどの呪文を紡いだ術者か。
炎に包まれた両手斧や紅蓮に揺れる刀、白光する大蛇に禍々しい獅子を携え、
先ほどの暗闇を完全に塗りつぶすほどの光量を背に姿を現した者は、逆光でそのシルエットしか窺えない。
しかしなにやら大きなトンガリ帽子を頭に被った少女の姿であることが分かった。
身長はシルビアと同程度。
膝下までの長いスカートを履いているにも関わらず、その細いボディラインはくっきりと見て取れた。
そして、その腰には細身の長剣が鞘に収められていた。
まるで昔の絵本に出てきそうな典型的な魔女の姿をしたその少女は、異様な形の炎で武装し、辺りを警戒する。
(あの量の魔法を同時に操れるなんて……、おそらくは【大海級】の魔力の持ち主でしょうか。
しかもその術式を推測するに、扱う魔法は《炎属性魔法》。
いえ、しかしあそこまでの大掛かりなものは見たことがありません。となると《魔法》ではなく《魔術》の類か……?)
シルビアは茂みに身を潜めながら、そのトンガリ帽子の少女を観察する。
(森に張り巡らされた《神の文字》による術式も、教会の扉にかけられたなんらかのブービートラップも、
おそらくは彼女が仕掛けたものと見て間違いないでしょう。
そしてあの大量の炎を操る芸当……、単なる魔法では説明がつきません)
魔術。
それは、魔法の原型となるもの。
頭の固い政治家や気取った学者たちは「魔術は数学のようなものだ」と言うが、シルビアはそうは思わない。
そもそも数学とは元となる式があり、そこから答えの数字を導き出すものである。
しかし魔術はそれとは逆で、答えとなる数値を得るために、式を組み上げるというものなのだ。
要するに37+46という数式が既にあって、そこから83という数字を求めるのが数学または算数であり、『83という数字が欲しい』という発想を元に、『37+46という式』を作り出すのが《魔術》である。
しかし83という数字が欲しければ、なにも37+46という式に拘らなくても良い。
332を4で割っても良し、84から1を引いても良し。
それと同じで、例えば掌に炎を出現させたければ、その方法は無数に存在するのだ。
そうして組み上げられた『純粋な最初の数式』が《魔術》であり、その無駄な部分を削って短い呪文や術者の動作だけで炎を出現させるのが《魔法》である。
であれば一見、単純な動作のみで炎を出現させる方が優秀だと思うかもしれないが、
《魔法》とは数式に含まれる意味がそのまま出現させる現象の利便性を左右するため、
その意味を削って簡略化した魔法では、表現出来る超常が限られてしまうのだ。
もちろん魔法の出力はタレントに依存する。
しかし極端な話をすると、単純な呪文や術者の動作のみで出現した炎は、ただ拳ほどの大きさのものを投げる程度の力しかないのだ。
それに比べて式場や道具、時間や季節を使用した大規模な《魔術》によって顕現させた炎であれば、
摂氏数千度まで熱を持たせたり、虎や龍の形を作り、自在に操ることも可能となる。
(しかし、魔術は魔法とは大きな違いがあります。
魔術は術者単身では行えないので、必ず周囲に《人工聖品》や式場が存在するはずなんですが……)
シルビアは、隙を見つける度に自らの潜む茂みを移動する。
ガサガサと音がすると、トンガリ帽子の少女はなんの躊躇いもなくその茂みを消し炭にしてしまう。
そのため下手に身動きができないが、相手を観察しなければこちらが追い詰められるだけである。
「何故、貴女が隠れる必要があるのか理解しかねますが、どの道貴女はこの教会から離れることはできません」
トンガリ帽子の少女は茂みに隠れて一向に姿を見せないシルビアに向けて言葉を放つ。
その周囲には銃器や刀剣を模した紅蓮の炎や、熊や鷹の形をした真紅の焔を従え、上下左右前後全てに目配せをしている。
彼女からすればシルビアが現在どこにいるか大まかな位置は把握している。
しかし先手を打たないのは、彼女が決してシルビアを自分に劣る魔法使いだとは思っていないからだ。
自分よりも遥かに強大な力を持つ敵と見なし、一切の油断を断ち切って対峙している。
こちらの隙を敢えて突かせて、そこで迎撃する戦略だ。
「このタイミングの奇襲といい、あの依頼そのものが私たちを誘き出すための餌で、初めから私たちを襲撃することが目的だったんですね」
おそらくはシルビアも、トンガリ帽子の少女が自分を泳がせているということに気付いている。
わざわざ隠れていた茂みから声を放ち、少女に向かって問いかけた。
「それに答える義務はありません」
言いながら、トンガリ帽子の少女は声がした茂みに向かって伸縮自在に加工されたスチール製の《魔法の杖》を振って業火の虎を走らせる。
圧倒的な火力によって、もはや炎が燃え移ることも許さずに一瞬にして茂みや木々を焼き払った。
しかしそうして草木が明るみになると、もうそこにシルビアの姿はなかった。
「狙いは何ですか? 私個人か、それとも『私達』か」
「答える義務はないと言ったはずですが。自分が一体なにをしたのか、今一度自分自身に問いかけることです」
「……、なるほど。大体は把握できました。
まだ利用価値のあるネズミを捕獲しに来たか、または情報漏洩を恐れて抹消しにきたか、はたまた裏切り者に対する粛清か」
二人の魔法使いの間で静かな言葉が交わされる。
一方は次々と茂みに隠れ、一方はその茂みを焼き払いながら。
しかしついに隠れる場所がなくなったシルビアは、
何かをひっそりと決意するように、ゆっくりとトンガリ帽子の魔術師の前に姿を現す。
片や乳白色の大理石で造られた高価な美術品のような《魔法の杖》を、
片や大昔に流通していたラジオという機械についていたアンテナのように伸縮自在に加工されたスチール製の《魔法の杖》を手にしながら、
異なる思惑、異なる目的、異なる思想を抱きながら、
二人の異なる魔法使いの視線が、交わる。
「かくれんぼは終わりですか?」
「そろそろ疲れてきちゃいました」
シルビアが黒縁メガネをクイッと調整するのを見て、
トンガリ帽子から癖のある赤毛を覗かせる少女は不適な笑みを浮かべながら口を開く。
「お初にお目にかかります。
《聖なる誉》第三位にして世界で唯一の死屍起し、シルビア=ローゼンクロイツ」
刹那。
二人の間に沈黙が訪れた。
シルビアは深く息を吸い、改めて数多の業火に照らされるトンガリ帽子の少女を見据える。
「そういう貴女はどちら様ですか?」
「《黒き月》第一執行部隊所属、
アイリン=クロックホルムです。以後お見知りおきを」
シルビアを威嚇するように揺らめく業火たちの光が、シルビアの褐色肌を照らした。
「……、《黒き月》といえば数年前に創設された魔術結社の?
確か、魔法や魔術によって生命の循環が脅かされないように、不老不死や蘇生を研究する機関またはそれを行使する魔法使いや魔術師たちを裏で消しているとか。
しかしそういった行為が露呈して三年ほどまえに解体されたと聞きましたけど」
「ええ、まあ。巷ではそのように情報が流布されていますね」
「……、なるほど、ようやく分かりました。
解体されていようがいまいが、貴女がその組織名を名乗ったということは、
『自然の摂理』を掻き乱した私を抹消しに来たということですか。《歯車の掃除屋》と呼ばれた貴女方が」
「正確には貴女と貴女が作り出した肉人形の回収及び抹消です……」
そこまで言いかけると、アイリンと名乗ったトンガリ帽子の少女は何かに気付いたように口を結んだ。
「……、私としたことが、少しおしゃべりが過ぎたようですね」
ゴォッ!! と、アイリンを取り囲む禍々しい大量の炎が唸りをあげる。
ジリジリと、それらがシルビアに照準を定め、トンガリ帽子の少女の指示一つで、いつでも襲いかかる体制を取る。
片や【大海級A判定】の魔術師。
片や世界に7人しかいない【S判定】のタレントの持ち主たる《聖なる誉》の一人。
しかし赤毛の《炎属性使い》は様々な魔術を織り成して完全なる武装を施している。
褐色肌を制服で包んだ《聖なる誉》は、なんの武装もしていない。
一見その戦力差は圧倒的と思われるが、
それでも呪文をたった一言紡ぐだけで、或いは体の動作ひとつで、その客観的な戦力差を、
それは単純に、それは残酷に、それは猟奇的に、まるで弱者の努力を嘲笑うように、覆してしまう。
「私を世界で7人しかいない【S判定】の魔法使いと知っても尚、立ち向かってきますか。その無謀とも言える勇気は賞賛に値します」
「貴女が世界で7人しかいない【S判定】の魔法使いだからこそ、私は疑問を覚えてなりません。先程から、貴女は《聖なる誉》と銘打たれるその力の片鱗を一切見せていない」
「…………」
再び二人の間に一瞬の沈黙が訪れた。
その静けさにどれだけの意味が含まれているのか、それはシルビアにしか分からない。
トンガリ帽子を被った赤毛の魔法使いは、一切警戒を緩ませることはない。
自分自身だけではなく、魔術によって顕現した朱色の虎や丹色の鷹を使って常に周囲への目配せを怠らない。
「これは、私なりの見解なので聞き流していただいて構わないのですが――」
そう前置きして、アイリン=クロックホルムは続けた。
「――今の貴女は、以前のような力はないのではないですか?」
核心を突く。
タレントのランクが変動するという現象は度々耳にしたことがあるし、事実証明されている事象ではあるが、
しかし魔力のクラスが変動するという話はアイリン自身も聞いたことがない。
魔力のクラスがもし変動してしまうなんてことがあれば、その波紋も変質してしまうということだ。
最新の生体認証システムにも取り入れられている魔力が、人為的に変質できるとなれば大問題だ。
だから。
もし仮に魔法の力が弱まるなんてことがあるのであれば、それは魔力ではなくタレントが衰えたということになる。
「おそらく今の貴女のタレントは【C判定】か【D判定】、またはそれ以下にまで落ち込んでしまったのではないですか?
だから敵である私にそのことを悟られぬよう、敢えて私に対して魔法を使わずに逃げ隠れを繰り返していた」
「貴女の言葉を借りるなら、それに答える義務はありません、というところですね」
「結構です。どちらにせよ、私は自らに与えられた仕事を遂行するのみ。例え自分より低いランクの魔法使いが相手でも、容赦はしません。覚悟してください!!」
グルルルァァァァアア!!!!!! と猛々しい雄叫びをあげながら、苛烈な爆炎を纏った虎がシルビア目掛けて猛進する。
摂氏数千度の虎牙は普段本ばかり読んで日の下に出ないような少女を獲り逃がすことがある訳もなく、無抵抗なシルビアを芯から焼き尽くすために眼前まで迫った。
が。
シルビアの瑞々しい褐色肌に触れようとした烈火の虎が一瞬の静止もなく、悶絶することもなく、まるで流れるように無数の火の粉へと変じた。
風に晒された灰のように、物体が粒子に分解されたかのように、そのまま夜風に流されて淋しい森へと消えていった。
別にシルビアがなんらかの呪文を唱えたわけでも、その右手に携えた《魔法の杖》を振ったわけでもない。
ただまるで向かい風に対して砂を投げるように、少し前まで燃え盛る炎の虎だったものが、
激しい火の粉となって術者であるアイリンへと勢い良く襲い掛かった。
アイリンは目を見開くと、すぐさま傍らに浮遊していた炎の鷹を飛ばし、向かい来る無数の火の粉の壁となるように爆風を発生さた。
猛烈な勢いで迫っていた火の粉は、炎の鷹と共にその姿を消す。
一連の反撃と回避行動で、アイリンの魔術が二つも焼失した。
隙を作らず完璧なまでに武装していたアイリンの《炎属性魔術》に、隙が生じる。
「なにが……、起きたんですか?」
目の前で起こったことに驚愕を隠せないアイリンは思わず思考が口から漏れる。
それに気付いた彼女はそっと奥歯を強く噛み締めた。
「《神の文字》を利用して森全体に大きな意思を持たせて私を閉じ込めた挙げ句、
ついでにその文字の別の意味を汲み上げて自らの魔術の糧とする……。
たった一人の魔法使いを仕留めるために用意されたにしてはあまりにも過剰すぎる魔術の数。貴女の作戦は完璧で、更に洞察力も鋭い」
「当たり前です。《聖なる誉》と対峙するんです。過剰すぎる、なんてことはないでしょう」
「しかし、少しお勉強不足でしたね」
ギラリ。
シルビアの左手で炎の灯りに照らされたそれは、一瞬にしてアイリンの視線を奪う。
それは折り畳みが出来る小さな果物ナイフだった。
その用途は様々である。
果物の皮を剥いたり、鉛筆を削ったり。
そして、《神の文字》を記述するための筆記用具にもなる。
「《神の文字》は古代人によって産み出された文字です。
本来は日常的に使われていたものですが、装飾品や武器などに刻んで豊作祈願や家内安全、戦の勝利などを願って使用されるようになってからは、次第に魔術的な儀式を行う際に不可欠なものとなりました。
しかも印刷技術のなかった当時は木や石に直接刻むことで《神の文字》を使用していたんです。
故に文字は直線と直線が交わった単純な構造となり、また容易に刻むことが可能という特徴があります」
「……、まさか先程貴女は茂みに隠れながら私がこの辺一帯に刻んだ文字に、新たな文字を付け加えて『意味』そのものを変えたんですか!?」
「私の知り合いに、そういったことを今でも専門に取り扱う魔法使いがいるんですよ。ちょっとした入れ知恵です。
しかもこうすれば私ではなく本来の術者である貴女の魔力を消費して、私が自在に操ることだってできるんです」
ハッと、アイリンは周囲に待機させていた炎を確認する。
いつの間にかアイリンを取り囲むようにその矛先が向けられていることに気が付く。
紅蓮の大蛇は鋭い眼光を向け、業火の両手斧や刀剣は、全てがアイリンの首を狙っている。
「形勢逆転、ですね?」
周囲の森のように漆黒の髪を振り、火照った体に風を送りながら、シルビア=ローゼンクロイツはトンガリ帽子の少女を見据える。
「……、作戦は、完璧だった。
用意にも時間を費やし、様々なシチュエーションを考慮して魔術を組み上げて、私の全てを引き出したのに……」
アイリンは次第に脱力し、湿った地面に膝をつけた。
まるで、本当に崩れ落ちるように。
「莫大な知識の差……? これが、《聖なる誉》……、
これが齢17にして世界中の魔導書の知識を有するといわれた、《死屍起し》の力……?」
俯き、恐らくは意識せずに口から零れた言葉を耳に収めながら、
しかしシルビアはただ目の前に崩れる少女を哀れむような目で眺めることしか出来なかった。
彼女に、アイリンが今どのような表情をしているのかは分からない。
「そんなんで、勝った気でいるんですか? これだから、天才って嫌いです」
ドゴォッッッ!!!!!! と、突如として周囲の木々が炎上した。
アイリンがいつの間にか自分の足元の地面に一つの《神の文字》を刻んでいたことにシルビアは気付く。
次の瞬間にはシルビアの乗っ取った炎の塊たちがその形を維持できなくなり、全てが火の粉へと変じて闇夜の森へと消えていった。
「なっ!? まさか貴女、周囲に張り巡らせた文字を一斉に焼却したんですか!?」
「全ては予定通りです。私の魔術を貴女が乗っ取ることも――」
アイリンは少し口元を緩めながら、そっと立ち上がって膝の土を払う。
「――そしてこの状況は、私の考えたシチュエーションの中で最高の結果を示しています」
「なにを……、言って……」
「重要なのは私の魔術を破るために貴女がナイフを使ったと言うこと。
《聖なる誉》と謳われ、世界中の魔導書の知識を司るような貴女が何故ナイフなんて持ち歩いているんですか?」
「……ッ!!」
「外で果物を剥くため? 誰かを殺傷するため? それとも護身用ですか? 有り得ません。
貴女のように絶大な力を有する魔法使いならそれらは全て、その右手に握られた杖一本だけで事足りるはずです」
「私を敢えて泳がせたのも、乗っ取りやすい《神の文字》を利用したのも全て――」
「――貴女の力が衰えたことを、証明するための釣り餌ですよ」
シャキン、と金属の擦れる音が。
アイリンが腰に提げられた長剣の柄に触れたところまで見て、
しかし次の瞬間、シルビアの視界は白一色に染まる。
それは、壮絶な光。
前方のアイリンから放たれる凄まじい白光に、シルビアは目を開けることさえままならなかった。
今までの炎の灯りなど比べ物にならない光量に、完全に視界を支配される。
「な、なんですかこれはッ!? 《幻覚魔法》の、一種ッ!?」
「《レーヴァテイン》。博識な貴女なら、この名前くらい勿論ご存知ですよね?」
瞼を閉じても、その奥から突き刺すような光が差し込む。
シルビアは、両手で自ら視界を塞いでしまう。
「《レーヴァテイン》……? 《センターラ大陸》と共に封印された『神話』に登場する世界樹を焼き払うことのできる唯一の道具。でもそんなもの、神話の中の産物でしかありません!!」
「貴女が死者の蘇生を成功させたように、魔法や魔術とはそういった神話の中の産物でさえ現実のものにすることが可能なんです。そして現に、私はそれに成功した。所有者である私でなければ、この剣を目視することすらできない」
(隠し玉ってことですか……、最初から不思議には思っていました。
彼女は腰にレイピアを提げているのに、闘い方は魔術だけを使用していた。
警戒はしていましたが、まさかこんなことになるとは……。
洗礼された計画に、裏の裏を掻いた洞察力、そして切り札の《レーヴァテイン》……、
今更ですがこの娘、魔法使い同士の闘い方を熟知しているッ!!)
白く激しい光からなんとか逃れようと、顔の向きを何度も変えて目を開けようとするが、
どこを向いても、攻撃的な眩耀は絶え間なくシルビアの視界を白で塗りつぶす。
もはや自分がどこを向いて、アイリンがどこにいるのかも分からなくなってしまったシルビアは、
明るすぎる光に照らされた自分の赤い瞼をただ眺めることしかできなかった。
無闇に《魔法の杖》を振って《結界騒霊術》を全身に纏うが、
今のシルビアでは、その魔法を維持することができない。
数秒もすればシルビアを守るものは何もなくなる。
ひと振りすればあらゆるものを焼き尽くし、跡形もなく灰にしてしまうと言われる《レーヴァテイン》が実在し、
今自分の前に立ちはだかっているというだけでかなりの脅威なのに、視界を完全に奪われてしまっては今のシルビアに成す術はない。
何かしらの魔法が、シルビアの体を優しく蝕む。
心を包み込むような暖かさは、じわじわと、シルビアを眠りへと誘っていった。
逃れなくてはならないことは分かっている。
しかしそれでも、何故かこの快楽は抵抗を許さない。
まるで母の温もりのようなソレは、明確にシルビアの意識を奪っていった。