第九話「vs グラハム=オルブライト①」
結論から言うと、霧熊霞美は慢心していたのだ。
幸か不幸か、初めに襲撃した中央管理室に閉館後のシフトに組み込まれている警備員が全員集まっていたため、霧熊はものの数分で《メルベイユ・ジャルダン》を無力化するに至った。
それに伴って、これなら別にレイティアドールの助けなんかなくてもちゃちゃーっと目標を盗んでささーっと去っていった方がかっこよくね? という考えをはじき出したのだ。
(……、この展示ホールのセキュリティは、観賞ケースの下部と上部に施された光電センサーによるものだけだったよね。
セキュリティの解除を行わずにうっかり動かしたら、それだけで防犯シャッターと何重もの《結界騒霊術》が張り巡らされて、文字通り袋のネズミになっちゃうってわけだ)
霧熊は美術館の二階へ移動していた。
壁を四角く切り取った展示ホールの入口からひょっこりと顔を覗かせる霧熊は、
どことなくいつも通りのフワフワした雰囲気を漂わせながら、それでも警戒心を解くことなくゆっくりと展示ホールへと踏み込んでいく。
そろりそろりと、なにかから隠れるように柱から柱へ素早く移動し、周囲を見渡す。
小走りで本人は足音を立てていないつもりなのだが、
肩掛け目覚まし時計が何度も霧熊の腰に当たってチャリチャリと鳴るのでなんの意味もない。
監視システムをオフラインに切り替えたため、あまり長居することは好ましくないことは霧熊もよく分かっている。
ホール内はあらかじめ点灯させておいた一つのライトだけで照らされている。
壁に沿うように並べられたショーケースには、光り輝く光石たちが綺麗に整列し、その名前とちょっとした歴史の書かれたプレートが添えられていた。
目標である《柘榴石の原石》は、入口から見ただけでも分かるほど異彩を放っていた。
入口を抜けてほぼ直線。
そのショーケースは他のものより少し古めかしい木造のもので、展示されている光石の下には、赤いクッションが敷かれていた。
その上に君臨するのは、角ばった岩の中から茶色く濁った柘榴石がポツポツと浮かび上がっている、握りこぶしサイズの光石だった。
よく見るとその鈍く輝く光石は、時折オイルが染み込んだように虹色に輝いているのが分かる。
目の前でその光石を見ているだけで、自らの内に秘められた『何か』と共鳴しているかのような感覚を覚えた。
これが《吸魔の石》。
生命が秘める魔力を吸い取り、自らの輝きの糧とする天然の光石。
(見惚れている場合じゃないよねー……、さっさと回収してれいちーに自慢してやろ)
正直、霧熊はどれだけの時間そこに立っていたのか分からなかった。
それほどまでに、目の前に置かれた《柘榴石の原石》は見る者を魅了する力が備わっていた。
霧熊は《柘榴石の原石》を取り囲むショーケースのガラスに、丸を描くように人差し指を這わせる。
「焼き切れ」
紡いだのは《融解の呪文》。
本来であれば、密着している物体の接合部分を焼き切って切り離すために使われることが多いが、使い方次第ではガラスや鉄といった固形物を高熱で融かすことも出来る。
ショーケースは霧熊が指でなぞった通り円形に切り取られ、その中心を軽く押してやると、欠片はショーケース内へと落ちた。
霧熊はその中にある、鈍く虹色に輝くゴツゴツとした《柘榴石の原石》へと手を忍ばせると、指先が触れるのが分かった。
瞬間、生まれて初めて感じたような、名状し難い感覚が指先から脳髄へ駆け抜ける。
まるで全身の熱が指先を通して《柘榴石の原石》に奪われているような、肌寒い感触。
次こそ明確に霧熊の小さな手が、その拳より一回り大きな塊を手にする。
「こ、これが……、吸魔の石……ッ」
《柘榴石の原石》を完全に手にした霧熊は、
思わず膝から崩れ、その場にへたり込んでしまう。
心のどこかにぽっかりと穴が空いてしまったような感覚に、かなりのショックを受けた。
それも仕方がない。
光石とは本来、生まれつき膨大な魔力が身体に溢れ、
些細な動作で周囲に多大な被害をもたらしてしまうような半ば暴走状態の魔法使いたちが平常に暮らすために用いられてきたものだ。
つまり《吸魔の石》を手にする者は、
もともと魔力が人並み以上にあることが前提として存在する。
しかしそれでも、本来柘榴石は多くても【池沼級】の魔力までしか抑制されないはずである。
霧熊は一度に複数の魔法を扱い、なおかつ長時間その効力を維持できることから、おそらく【大海級】の魔力を有していると推測できる。
その霧熊でさえ魔力を吸い尽くされ、
妙な虚無感が胸を締め付ける感覚に襲われるほど、
『原石』というのは多大な吸魔の力を秘めているということなのか。
「……ぁ、れいちーの、ところに、行かなきゃ、」
半ば放心状態になりながらも、霧熊は手にした《柘榴石の原石》をサルエルパンツのポケットにしまった。
膝に力を込め、立ち上がろうと床に手を突いたその時、
『ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりッッッ!!!!!!』
と、霧熊の肩に斜め掛けされた古典的な目覚まし時計がアラームをがなりたてる。
それは霧熊本人があらかじめ設定していたものだ。
この美術館に侵入してから約5分が経った報せだった。
霧熊は半ば乱暴な手つきでアナログな目覚まし時計を静止させるが、その顔から緊張が消えることはなかった。
「ハアーイ! ネズミ狩りの時間だぜ‼」
まさに1mも離れていないだろうと思われる位置から、
男のものと思われる声が、場違いなほど軽く放たれる。
(……、ヤバイ)
霧熊は、本能的にそう悟った。
背後に立つその『男』からは、先ほどの警備員たちと比べ物にならない、異様過ぎる雰囲気が感じられる。
「風よ、突き飛ばせッ!!」
霧熊は地面に崩れたまま、咄嗟にポケットに忍ばせていた黒檀の捻れた《杖》を取り出し、それを背後に向けて呪文を紡いだ。
《突風の呪文》は周囲の空気を一点に凝縮させ、杖の先端から一気に放たれる魔法だ。
正面からまともに食らえば、壁に背を打ち付けるまで後方へ吹っ飛ばされるはずだ。
しかし、
「ハッハァ!! おいおい、得意でもねえ魔法を専門家に向かって放つもんじゃねえよ」
手応えがまるで感じられなかった。
方法は解らないが、背後の男に防がれた。
次の一手が来る。
そう悟った霧熊はすぐさま立ち上がり、背後にいる男と今度こそ対峙する。
男……、というよりは、少年だった。
霧熊よりも背が低く、その髪は地毛というには激しい違和感を覚えるほどの黄色に染め上げられていた。
おそらく、一度髪の色を抜いてから黄色で染め上げたのだろう。
全体的に黒い衣装を纏い、袖のない貫頭衣を肩から羽織っている風貌は、
ファッションに疎い霧熊から見たら、まるで丈の短いスカートを頭から被っているようにも見える。
そしてその首元には、なにやら鈍く黄金に輝く宝石が一つあしらえられたネックレスを提げていた。
そんな少年の頭には、その違和感のある髪色よりも異彩を放つものが装着されていた。
土星の輪のように少年の頭部をぐるりと囲うリングと、目を覆う大きめの半透明レンズ。
その奥から、獣王のようにギラついた視線を向けてくる。
今まで『裏稼業』の魔法使いと何度か対峙してきたからこそわかる。
目の前に立つ、一見霧熊よりも小柄な少年はその手の人間だ。
機械的なゴーグルを着けた黄色い少年は、両手を腰に当てて不敵な笑みを浮かべている。
「あなたは誰? 警備会社の人間には見えないけど」
「あ、まだ気付かねえんだ。まあどうでもいいけどな。
悪いけど、このままおウチに帰ってくれねえか?
そうすりゃ、危害を加えることもしねえからよ」
黄金に輝く光石を提げた少年は、霧熊の質問に少し呆れながら、それでも答えることはなく嘲笑する。
「……、わたし、あなたに恨まれるようなことをした覚えはないよ」
「ハナからアンタに恨みなんざねえんだわ。ただ、こっちの計画を遂行する上でどうしても邪魔になるってだけの話よ」
「……、れいちーはどうしたの?」
「ああ、外にいたお仲間のことか? あっちはあとで回収する手筈になってる」
(正面玄関を通ってきているのだとしたら、少なからずれいちーと対峙しているはず。
でもそれは後回しってことは最初から館内に身を潜めていたのかな?
隠れる場所なんてなかったと思うんだけど……、
まあそれは『なにかしらの魔法を使いました』って言われたらそれまでだよね)
霧熊は考える。
少年の言動から、どうやらレイティアドールはまだ生きているようだ。
というか、今現在ここでこうしていることすら知らずに霧熊の帰りを待っているのだろう。
そうなると、彼女の助けは望めない。
ここは、自分一人の力で切り抜けるしかない。
「ま、ここで長話してても有益な話を聞けそうもねえし、こっちも馴れ合いに付き合う気はねえ。とっとと消されちまいな」
黄色い髪を揺らしながら気だるそうに頭を掻く少年が、黒衣のズボンのポケットから光沢が現れるまで研磨された《杖》を取り出すのを霧熊は見逃さなかった。
(この人の明確な目的がどうも分からない……、どうしてわたし達の前に立ちふさがるの……?)
「お名前くらい聞かせてくれてもいいじゃん」
「あー……、まあいいか。俺の名前はグラハム。グラハム=オルブライト。
魔術結社《黒き月》の構成員だ。
冥土の土産にしちゃ、ちと豪華すぎる情報だったか」
出来るだけ時間を稼ぐ。
相手と自分の距離。
周りの環境。
相手の言動。
その全てを出来るだけ詳細に把握し、そこから極小の可能性を掴みとる。
ゼロの可能性を、ゼロコンマ数パーセントの可能性に変える程度の些細な力。
しかしそれは、確実に最悪の状況を一変する。
グラハムと名乗った黄色い少年は、その光沢を放つ杖の先端をゆっくりと霧熊へと向ける。
(よくわかんないけど、どうやらやる気満々みたいだねー……。
あの頭に着けてるゴーグルが気になるけど……、軍用の複合現実デバイスかな? でも戦闘スタイルは魔法一辺倒みたいに思えるけど)
霧熊の表情が一層険しくなる。
そんな鋭い視線に気づいたのか、グラハムが軽い調子で笑った。
「そんなに警戒すんなよ。俺ァ、裏の裏を掻くような大道芸は嫌いなんだ」
グラハムは返事を待たない。
彼がその手に持つ杖を一振りすると、先端から青白い閃光が迸った。
刹那、その閃光は霧熊の頬を掠め、背後にあるショーケースをことごとく粉砕した。
片手で頬を撫でると、まるでザクロを握りつぶしたかのように真っ赤に染まっていた。
しかし霧熊が驚いたのはそのことではない。
彼女は無骨なゴーグルを装着した少年が杖を振るう既のところで、自らも袖口に隠し持っていた杖を構えていたのだ。
そして瞬時に口の中で呪文を紡ぎ、魔法や物理攻撃を遮断する結界を張ったはずだった。
それなのに少年の放った魔法は、なにものにも阻まれることなく霧熊の頬を横一文字に切り裂いたのだ。
(な、なに……? 最初はなんらかの妨害魔法であの人に呪文を防がれたと思っていたけど……、
もしかしてわたしの魔法……、発動されてない……?)
霧熊は視線だけ自らの拳に移し、調子を確かめるように開閉する。
「ハハッ、どうやら違和感に気づいたみてえだな。お前が片っ端からここのセキュリティをぶった切ってくれたおかげで、いちいち結界を張る手間が省けたわ」
「え……?」
「ここのセキュリティにはな、最近導入された珍しい機能があるんだよ」
「珍しい機能……?」
「魔力をやたらめったら吸い取る光石の力を制御するために、
電磁波を使った特殊な障壁を発生させて石の力を相殺する……って話だったかな」
「そん、な……ッ嘘だよ!!
そんなこと、ここのセキュリティマニュアルには載ってなかった!!」
「だぁかぁらぁ――」
グラハムは呆れたように息を吐くが、不敵な笑みを絶やさない。掌で踊る霧熊を見て、心底楽しそうに眺めている。
彼は右手に持つ杖の先端を、まるでコーヒーをマドラーでかき混ぜるように左手の平上でくるくると回す。
するとそれに呼応するように、透明な空気の渦がグラハムの左手に収束されていくのが分かった。
「お前らはハナから騙されてたんだって」
意味が、分からなかった。
しかしそれは一瞬のことで。
(あ)
次の瞬間には、全てを悟っていた。
そもそも霧熊たちは、依頼人から提示された情報が完璧であるという前提で作戦に乗り出している。
そんな彼女たちには、その前提情報そのものを疑う余地など最初からなかったのである。
少なくとも、事前にレイティアドールとこの美術館に偵察に来た際も、
依頼人から送られてきた資料と監視カメラの位置が寸分違わずに一致していたことが、さらにその情報を疑う隙間を拭い去っていた。
敵の目的は未だにわからないが、少なくとも自分自身はただの邪魔者でしかなく、
レイティアドールを回収対象と呼んでいたことから、おそらくレイティアドールを手中に収めることが最終的な目的なのだろう。
「ま、そんなワケだから。おとなしくここで潰されてくれや。鈍感なネズミちゃん」
一瞬の、体感できるかどうかも分からないほどの沈黙。
霧熊は肩掛けのベルトを調整して目覚まし時計を背中の方へまわし、位置を固定する。
霧熊の腰に当たった目覚まし時計が、チリンと一度だけベルを鳴らした。
図らずもそれが、開戦の合図となった。
ドンッッッ!! と、グラハムは片足の踵を思い切り床に叩きつける。
次の瞬間、5mは離れていたグラハムの姿が、
一瞬にして霧熊の懐まで潜り込んでいた。
そして彼はその左手に溜めていた透明な何かを霧熊の薄い胸板に叩き込もうとしていた。
常人であれば、それは本当に一瞬の出来事で。
その者の視界には、未だに5m先にいるグラハムの姿が写ったまま気を失っていただろう。
しかし、それは常人であればの話だ。
霧熊は視界からグラハムの姿が消えた瞬間に半身を切り、まっすぐ突き込まれたグラハムの掌底を、既のところで交わしていた。
反撃が来る。
そう悟ったグラハムは再び足裏で何かを踏みつけると、大きく後方へ宙返りした。
普通であればそのまま姿勢を崩し、致命的な体勢で着地するはずだが、彼は空中で杖を一振りした。
激しい風がグラハムの身体を包み、半ば強引に姿勢を正して足から着地する。
「大道芸が苦手なんてうそっぱちじゃん」
「それはお互い様だろうがよ」
霧熊は現在、魔法が使えない。
中央管理室で館内全てのセキュリティを解除した際に、
光石のチカラを抑制する電磁障壁システムもダウンさせてしまったことで、
今ポケットの中にある《柘榴石の原石》の吸魔の力をもろに受けてしまっているからだ。
それはこの世界において致命的なことだ。
言うなれば戦場に於いて、敵兵を前に武器を取り上げられたようなもの。
霧熊が右手に持つ《杖》は、いわば弾が装填されていない拳銃なのだ。
「……、何故あなたは《吸魔の石》の力を受けていないの?
何かしらの《暗号符》を仕込んでるってこと?」
先程、グラハムから受けた攻撃でショーケースは大破し、
中に保管されていた光石は展示ホールの地面に散らばっている。光石のチカラを抑制する装置が停止されているということは、
この展示ホールにある数多の光石は、効果範囲に近づく生物の魔力を無差別に吸収してしまうはずだ。
それなのにも関わらず、グラハムは平然と魔法を使い続けている。
「それとも、その頭につけた複合現実デバイスのゴーグルがなにか影響してるの?」
「アン? なんだお前、分かってなかったのか?
コイツはテメェの《幻覚魔法》対策だよ」
(わたしが得意な魔法も知られてるってことか……。
確かにわたしの使う《幻覚魔法》は機械を通して見られちゃうとなんの意味も成さない。
この人、ちゃんと敵のデータを調べ上げてるみたい)
ただでさえ《柘榴石の原石》の影響でまともに魔法が使えないのに、もし間一髪で使えたとしても霧熊の最も得意とする魔法は対策されてしまっている。
じりじりと、断崖に追いやられるような感覚に蝕まれる霧熊は、それでも考えることをやめない。
しかしここで、グラハムの口から意味深な言葉が漏れた。
「それに俺だって、ちゃんと光石の力を受けてる」
その言葉を聞いた霧熊は、自然とその視線がグラハムの首元に提げられたネックレスへ……、いや《装飾品》へと移る。
「ネズミのくせに察しがいいな」
霧熊の視線に気がついたグラハムは、嘲笑混じりに言う。
「《吸魔の石》ってのはそもそも、ただ単純に魔力を吸収して奪っちまうモンじゃねえんだ。
光石たちは自らの輝きの為に魔力を欲しがっている。
だから魔力を供給してくれる使用者の強い想いをトリガーにして、その使用者のタレントの強弱に依存しない魔力を貸して与えてくれるんだ」
とグラハムは自らの首元に提げられたネックレスを片手でつまんで続ける。
「俺のコイツは猫目石。
その性質は『困難な試練に対する突破力』を与えてくれる。
つまり、テメェという困難を打破するために使われる魔力は俺のランクに依存せず、強力なものに変換される」
(この人の話はどこか本筋から少し離れているような気がする。まるで、本当のことは言っているんだけど、答えを与えたくないから敢えて遠回りをしているような……。
しかも《吸魔の石》の性質の話が本当だとしても、それが他の光石の力を受けない理由にはならない……)
「おっと、無駄話が過ぎたな。いい加減片をつけねえと、上に怒られちまう」
グラハムは敵が答えを出すまで待つほど優しい性格をしていない。
光沢を帯びた杖を指揮棒のように振り、グラハム自身は舞い踊った。
魔法使い同士が真正面から撃ち合いをする場合、どのタイミングで魔法が放たれるかを相手に予想させないために、不規則な動きで相手を翻弄する技が存在する。
それは見る者を魅了する魔性の舞踏だったり、敵を威嚇するような荒々しい舞踊だったりと魔法使いのスタイルによって異なるが、
共通する点は杖の先端を敵の視界から一瞬だけ隠し、次の瞬間に体の隙間から覗いた先端から不意の一発を見舞うという方法である。
しかし放たれる魔法はどれも直線的で、かつ閃光そのものの大きさは小さなものだった。
霧熊の常人離れした反射神経と身体能力で、杖の先端が光ったのを目で確認してから数十センチ身体を動かすだけでその一撃は回避できてしまう。
霧熊に当たるはずだった真空の刃は、その背後にあったショーケースや壁を次々と穿った。
だがそれでも、立て続けに放たれると霧熊本人の体力を驚くほど簡単に奪っていった。
グラハム本人は少ない動きで杖を隠しながら不意に魔法を放つのに対して、霧熊は常に身体全体を動かさなければならない。
グラハムの攻撃が続く限り、常に反復横飛びをさせられているようなものだ。
少しでも脚を緩めれば、いとも簡単に霧熊の華奢な身体を真空の斬撃が襲うだろう。
(…………、)
霧熊は考えた。
現状の打開策を。
(――――、)
霧熊は考えた。
自分がいま魔力を吸収されているのは、なんの《吸魔の石》なのかを。
(――――、…………、)
霧熊は考えた。
魔法が使えない以上、それに代わる武器がないのかを。
(…………、――――。)
そして答えを導く。
霧熊は《杖》をポケットに納めた。
そして背後にある粉々に砕けたショーケースに手を伸ばし、その鋭利なガラス片を片手に持った。
少し手の皮膚が切れるが気にしない。
ビュゥオンッ!! と音を立てて放たれた《鎌鼬の魔法》。
それを数十センチ身体を横に振るだけで回避すると、霧熊は少し身を屈めて一気にグラハムに向かって走りだす。
「な、」
不意を突かれたグラハムは少しだけ焦りを露わにした。
その反応を見られただけで十分すぎる進展だ、と霧熊は思う。
霧熊は一瞬でグラハムの懐まで潜り込むと、彼の片手を蹴り上げる。
その手から光沢を帯びた《杖》が弾き飛ばされるのを霧熊は見逃さなかった。
その隙に手の中でガラスの破片をくるりと回すと、その矛先をグラハムの喉仏へと突き付ける。
「お、オイオイ……、急にキャラ変わってねえか?」
グラハムの頬に一筋の汗が流れる。
喉元に迫る鋭利なガラスから少しでも遠ざかろうと顎を上げるが、それでも霧熊の射程圏内であることは変わらない。
「ごめんね。あなたレベルの魔法使いなんて、星の数ほど見てきたんだ」
「さすが元・《スラム》の住人ってのは伊達じゃなかったみてえだな」
グラハムの言葉に、霧熊はピクリと眉を動かした。
「腐りきった掃き溜めの街、その頂点に君臨していた《四大覇者》の一人。《迷霧の墓守》・霧熊霞美」
「…………、」
霧熊は何も語らない。
ただ俯き、一度だけため息を吐く。
次の瞬間。
今までの彼女からは感じることなどなかった、強烈な殺気に満ちた眼光をグラハムへと叩きつけた。
グラハムの顔から、余裕が消える。
すぐに目の前にいる怪物から距離を取らなければ、命はない。
霧熊は鋭利すぎるガラス片を自らの顔の横までひき、一切の迷いなく力を込めてグラハムの喉を串刺しにしようと手を突き出した。
しかしそれは、グラハムの細い喉を突き破ることはなかった。
グラハムと霧熊の間にあるわずかな隙間に、猛烈な暴風が吹き荒れたのだ。
魔法を発動する方法は主に二種類存在する。
《杖》を用いる《ユーズ・ワンド型》と、
杖を使わずに発動する《フリー・ハンド型》だ。
魔法を遠距離に放つ精度を上げるために開発されたのが《魔法の杖》だが、超近距離であれば指や掌だけでも狙いを定めることが可能だ。
その近距離で放たれた暴風に煽られ、魔法を発動した張本人であるグラハムですら展示ホールの入口から放り出されて廊下の壁に思い切り背を打ち付けた。
一方で同じく暴風に煽られた霧熊は、一緒に舞い上げられたガラス片から身を護るために両腕で頭を抱えるが、その綺麗な素肌に赤い切り傷が次々と刻まれていった。
なんとか空中でバランスをとり、床に散らばる複数のガラス片に突っ込まないよう、よろめきながらも両足で着地を果たす。
しかしそこで脱力することはなく、霧熊はすぐさまグラハムを視界に捉えた。
次の瞬間には新たなガラス片を手に駆け出す。
今度こそ、その息の根を止めるために。
壁に背を打ち付けられたことで肺の中の酸素が全て吐きだされたグラハムは、呼吸を整えるだけでも数秒を要した。
床から腰を離して足に力を入れている間にも、霧熊は透明な凶器を持ってグラハムとの距離を縮めている。
「風よ、突き飛ばせッッ!!!!」
すかさず唱えたのはグラハム。
片手を壁につけてよろめく身体を抑えながら、もう片方の手を迫りくる霧熊へと向けながら叫んだ。
グラハムの掌に少しだけ空気が渦巻くと、それは見る見るうちに膨張し、まっすぐ正面から迫りくる霧熊を徹底的に拒絶する。
まるで見えない巨槍に突かれたように、霧熊の身体はくの字に折れ、ノーバウンドで後方へ突き飛ばされた。
自らが生み出した前へ進む力と、グラハムから放たれた突風呪文による押し返す力が相まって、
霧熊の肺はまるで前後から押しつぶされるような圧力を受け、面白いほど簡単にその中の酸素が全て吐き出された。
次の瞬間には轟音を立て、ガラスが散乱する床に尻を打ち付けていた。
そしてショーケースの残骸に思い切り身体を打ち付け、視界がぐらつく。
脳に十分な酸素がいきわたらない状態でまだ必死にもがこうとする霧熊の体力は、ただいたずらにその意識を奪っていった。