1話 誰も知らなかった殺人鬼
雨が降る夜、それは少し蒸れて暑い日だった。
雨の青臭いような匂いが鼻につき、うっとおしいとすら思える。
そうか、日本の雨季はこんなにも鬱陶しく、またみずみずしいのか、と。
久しく忘れていたこの感情に、笑いそうになる。
この顔に、その表情が浮かべられるのなら。
男は、そう言いながらまた走り出す。
バシャバシャと、路地裏の細い道に出来ていた水たまりを躊躇なく踏みつ、一歩、また一歩と走り出す。しかし、男の走る姿はぎこちなく、フラフラと壁に体当たりしてしまいそうになる。
右腕はだらりと下がり、その肩を抑える左手にも大きな傷がつき、黒い服の腹部からは雨のシミ以外に赤黒いものが出来ていた。
『……そこを右です……えぇ……あの男は負傷中……早く始末してください……』
男が腰につけていたトランシーバーから女の声が響くのと同時に、後方から走ってくる音が聞こえた。
男は後方をチラリと振り向く。
追ってくる者は6名ほど。
そのすべての者達は異様な出で立ちをしていた。
顔には暗視スコープ…とは思えない精巧な機械をつけ、身体は服を着ておらず特殊なライダースーツを身に纏っていた。
彼らには男の『能力』が使えない。
おそらくあの装備が『能力』の阻害をしているのだろう。
男は小さく舌打ちすると抑えていた左手を離し脇から短刀を取りだし、後方に向かって投げつける。
グッ。
くぐった音と一緒に水たまりが大きく跳ねる音が響く。男が放ったナイフが追跡者の1人の首元に突き刺さった。
殺したかどうかは見てみなければわからない。しかし、男がそれを確認する事はなかった。
分かっているから。
追跡者達は、その足を止める事はなかった。
仲間が死んだかもしれないのにだ。
男はこの一連の事が初めてではなかった。
ついさっき、30分前から始まったこの逃走劇の間に計18名を同じように始末したからだ。
彼は、一般人ではない。
彼は雇われの身の殺人鬼だからだ。
話は遡ること1時間前、ある組織に雇われて暗殺任務をしたが失敗し、彼はその汚名を洗わさせられようと、その組織が放った刺客に追われていた。
そして今、その追っ手の数を減らしながら逃げているのだが、殺しのプロであるはずの彼でも敵が多すぎる。
ナイフ、拳銃、針、爆薬。
全ての獲物を使って追っ手を仕留めてきたが、それでもまだ足りそうもなかった。
さらに右腕をやられ、大半の武器を逃げる際に邪魔と判断して落としてしまい、結果追い詰められているのだ。
男はそう嫌になりながらも、必死で生きるために逃げる。
逃げて逃げて、逃げ切ったら人を殺そう。
誰も気づかない人殺しをしよう。
元々殺人にしか感情が湧かない彼は、そう考えることで生きる気力がさらに湧き出た。少しだけだが笑みも溢れる。
しかし、男が次の角を曲がってどう逃げるか考えていた時だった。
その通路には後方から追いかけてくる奇妙な追跡者の仲間が、ハンドガンを構えて立っていた。
バン
銃口から何発も弾が飛び出し、それが男の腹と右足に被弾する。
あまりの痛みに小さく唸る男だったが、走る足を止めることはなかった。
そのまま痛みで動かなくなる足のタイムラグを計算、そこから必要な脚力を右足に込め、さらに前へと進む、いや飛ぶ。
待ち構えていた追跡者もさすがに驚いて銃を構えるがもう遅い。
男は銃口が上にずれるよう左手で銃を下から上に突き上げ、慌てる追跡者の右手を握って引っ張る。体勢を崩した襲撃者の首をすぐに離して引っ込めた左手で掴む。そして、わずかな骨の位置と喉の気道を確認して力一杯握る。
ゴキリ、と骨がずれる音とともに追跡者の身体がだらりと脱力する。
そして、そのまま一緒に倒れこんだ。
雨がまだ降る中で、男は死体の横で仰向けになって寝転ぶ。
顔に雨粒が当たり、目にも雨水が入り込むが至って清々しい気分だった。これから死ぬかもしれない時に限ってこのような気分になるとは、人殺しが良い身分になったものだ。
そう自分に毒吐きながらも、バシャバシャと追っ手達の足音が近づいてくる。
クソ……
クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソーーーッ‼︎‼︎‼︎
男は最後まで戦うつもりだった。
しかし、体が言うことを聞くことはなかった。血を流しすぎたのか、もう動けそうもない。
男は絶望しながら暗い曇天を睨みつけるが、運命や何かが変わることはなかった。
男の視界にあの奇妙なスコープとライダースーツがいくつも入り込んだ。彼らは皆そろって倒れた男に対してサプレッサーのついてない、普通の拳銃を向ける。
殺し屋と殺人鬼だった彼だから分かるが、サプレッサーを付けないなんて素人がやる事だ。
そう思っていた彼だが、ここに来るまで色々と『能力』を使ったのを思い出し、それを利用しているのかと悟った。
男は超能力を持っており、能力は『半径7kmの生物の認識を変える』ものだった。
その能力は字面通りただ相手の認識を変える。ただそれだけの能力だった。
しかし、男が殺人鬼なら能力は効果と利用方法も違ってくる。
暗殺というのは、一度相手の前に現れて殺さなければならない。よく映画などで見るスナイプといった狙撃などは臆病者と手練れがやる行為だ。
最も着実に標的を殺すには、自分の目の前で死んでもらわなければならない。
その様な事をして短い人生を終えた者は数知れずだ。しかし、それが本当にできる人間なら、いとも容易く行える。
それが、男だった。
彼は聴衆の面前で演説をする男を撃ったことがある。
彼は会議中の会長と言われる人物の首を斬ったことがある。
彼は人の多い道路で標的とSP、まとめて5人を惨殺したことがある。
誰も気づかない。
いや、男の存在にすら気付かない。
周りの人間の『認識』を変え、日常に埋もれる。
そんな能力を持っている彼だからこそできた芸当で、その殺人こそ彼が生きる理由だった。
それが……今となっては報いを受ける側となっている。
周りを囲んでいた追跡者達の指が引き金を引く瞬間、
聞いた話だと死ぬ前はゆっくり見えるというが、あれはウソだ。
すぐに引き金を引いて、計5名ほどの人間に脳天を撃たれた。
痛みはなかった。
そもそも、死んだ後も苦しむものかと思う。
表情を無くした男は、いつの間にか閉じていた瞼を開く。
そこは、あたり一面生い茂った森の中であった。
どうも瀬木御 ゆうやです。
今回は前から書きたかった異世界をメインにした話を書いてみたいと思ってます。
なのでしばらくの間は『界外の契約者』と『狙撃手とフリーターと超能力』はいったん更新を停止させていただきます。