15th
奴はそこに立っていた。
否、立っているかのように自然に、光の如くの勢いで空を駆けまわっていた。
ほうきみたいな長さの細く鋭い鉄パイプを右手にしっかりと、それでも身体の一部だとでもいうように違和感なく握り、右へ左へと跳躍し、その美しい鉛を辺り構わず振り回していた。
『奴は悪魔だ。』
瞬間思った感想はそれだった。
奴は光のごとくの勢いで、右往左往と兎が跳ねるが如く空を乱舞し、その天を貫く鉄パイプで街の中のありとあらゆる光を破壊していた。
道路を優しく灯す街灯も、店を神々しく照らす照明も、誰かに触れてもらうのを必死に待っている自販機の明かりも、光という光を全て、その悪魔は片っ端から壊していった。
悪魔が駆け巡った場所は暗闇に包まれ、その暗闇はあっという間に俺の立つ交差点上の歩道まで広がって、悪魔のお陰で深い眠りについた4つの信号機たちはどこか物悲しく、それでも幸せそうにただ向かい合って立っていた。
幸いここが田舎で、しかも深夜ということもあったので車なぞ見つけることも出来ず、消えてしまった信号機が原因で事故が起こることはなかった。
否、悪魔が車についている全てのランプを破壊してしまうことにより起こる事故が起こることはなかった。
そうして俺が『奴は悪魔だ』と感想を抱いているほんの数秒の間にも悪魔は着々と世界を黒く染め上げ、俺が呆気に取られているほんの数分の間に周辺の全ての光を消し去ってしまったのだ。
目視出来る範囲で光を発する人工物は消え去り、散らばったガラスや白熱灯の破片の有様はまるで、戦後のそれと大差ないように思われた。
しかし少しの違和感を抱いたのは、全ての光が無くなったというのに何故か俺は悪魔の姿を確認することが出来たし、周りの景色もはっきり認識できるという点だったが、そんなことよりも目の前の脅威の方に意識が向い、そんな違和感はすぐさま心の奥に引っ込んでしまった。
全ての光を消し去ってすっかり満足したのか悪魔は、すっと忍者が降り立つように一つの物音も立てずに誰もいない交差点の横断歩道の上に降り立って、あれだけ動き回ったというのにさも何もなかったかのような涼しい顔をして、無表情で綺麗な切れ長の目を俺に向けてきた。
その美しさはまるで、お城から抜け出したお姫様を優しくお迎えに上がる執事の如く穏やかで、先程までの狂喜乱舞振りなどなかったのではないかと錯覚してしまう程だった。
「この……悪魔が……。」
畏れを抱きながら、それでも威嚇するように、深く、黒く、俺はヘドロを吐きだす声で悪魔を下から睨みながら呻いた。
すると悪魔はまた兎のように軽快に跳躍し、睨みを利かせる俺のすぐ横に物音も立てずに降り立ち、俺の目を誘導するかのように細く長く綺麗な左手の人差し指を空の方へ突き出した。
余りに美しいその動作に俺はまんまと釣られてしまい、悪魔の細長い人差し指の先を夢現な目でゆっくりと辿って行くと……
「月が綺麗だ」
だなんて詩人を気取って悦に入っているわけでもなく、作った声で物語性を出すわけでもなく、ただただ普通の、淡々とした、それでも優しい声で、悪魔は言い放った。
見るとそこに粛々と、全てを包み込むくらい美しく、柔らかい光を注いでいたのは、大きな大きな満月だった。
満月は光の消えたこの世界でさも当たり前の如く、いつもの日常のまま存在して、ただ俺たちのことを監視するでも成敗するでもなく無表情で見つめていた。
さっき覚えた違和感は、この満月のことだったのかなんてそんななぞなぞみたいな幼い答えは、この瞬間俺の隣に居て、無表情で、澄んだ目で、本当に愛おしそうに空を眺める悪魔によって与えられた。
人工灯が消えさり、満月の光だけがただ降り注ぐこの世界では、悪魔は横に立つこいつではなくて、こうやってまだ何が起こったか理解できず、生まれたての赤子のように呆けて空を見上げるだけの俺の方なのだった。
嬉しい時も悲しい時も、誰が見ていなくても、人工の光にかき消されてしまっても、それでもただただ夜空を照らしてくれる、私達を見守ってくれる、そんな月の優しさが、私は好きです。