八話
時間から枠が外れ、その中で僕だけが行動出来る。僕はすかさず右腕を振り、男の拳銃を払った。拳銃は結構の重みを備えており、躊躇無く振った僕の右手の手の甲に当って骨に響いたような痛みを残した。男の腕から離れた拳銃は宙に浮いたまま固定した。まるで糸で釣られているようだった。ところで今回の発動時間は「二秒」で終了しそうなのだ。
やや急ぎで右足を横に振ろうとした瞬間に時間が目を覚ました。二秒は短い。僕はたった一秒でもこれほどに状況が変わるのかと思い知らされた。男は持っていない拳銃の引き金を引く仕草を取ったのと同時に、僕は右足を男の脇腹に振った。それは確かに脇腹の中部を捉えており、僕は自信に満ちた笑みを浮かべた。
ところが男は動じず、カウンターのように拳銃の持っていた腕を振った。その瞬間に僕は視界が一変し、空が入り込んだ。左足だけで支えていた体を崩し、みっともなく横転した。まずい、と僕は体制を直そうと試みる。だが視界の先には男の靴底があり、鼻を潰されたような衝撃と共に吹っ飛んだ。それはまるで台風で宙を舞う三角コーンのようだった。
「てめえがどんな能力かはわからねえけれどよ」男が声を発した。生徒に懇々と説教する教師のような声だった。「拳銃を払われた腕に僅かな痺れがあるな」
「この手の痺れ方で俺は分かるぜ。経験ってやつだ。俺から拳銃を払おうとした時、お前も腕を痛めたはずだ。それと今お前がやった蹴り。これもまるで伸びていない。上手く力を放つ事が出来なかった消化不良の蹴り方だなこりゃ」
男は淡々とそう言った。それはまるで僕の心を荒く掬い取るように、正確な意見だったのだ。何も間違った事は言っておらず、僕は思わず足が竦んだ気がした。全身が透け、何もかも見破られているような羞恥心が襲った。「本当に新入りとはな」と男が言った。
「お前にアドバイスをしてやるよ。新入りのお前にな」男は僕を見下しながらそう言った。その上からの視線が僕には不愉快で仕方なかった。先程の優越感をすべて奪われたような、そんな余裕な口調だったのだ。これ以上の屈辱はなかった。そしてその負けを認めているような僕の姿勢に、腹が立った。
「この業界で生き残るためには、だ。いかに自分の超能力を上手く利用するかだ。それはお前もわかるだろう?」と男が訊ねた。
「当然」僕はそう一言言った。
「肝心なのはその超能力の「デミリット」な部分をいかに受け入れるかだ。それでこれからの道が分かれるんだよ」偉そうでさらに見下しの声が、僕には耳障りで仕方なかった。
僕は再びスイッチを想像していた。僕の場合、一度超能力を発動させれば次に出来るのは何呼吸か置いた後だ。そこが男でいう「デミリット」であり、どうしようもない概念なのだ。詰まるところ、大量の体力を伴うのだ。全力で走ったせいか、息切れも激しく脇腹に針を刺すような痛みも解けないままだ。
蹴られた鼻からは血が垂れている事に気付き、冷え切った地面にぽたぽたと落ちていた。男は最後に、と言わんばかりに息を吸ってこう一言吐いた。
「あらゆる超能力の可能性を推測しろ」
その言葉を聞いた瞬間に僕はまさか、と想像を巡らせた。脳のあらゆる管に血流を十分に流し込み、男の今までの言葉を咀嚼した。
デミリットを受け入れる。
僕は悪夢から覚めたかのような素早さで時を停止させた。息を飲み込む寸前に発動させた事で、強い噎せが喉を襲った。咳を零しながら男の方へと視線を向け、体勢を起こした。しかし、時はすでに遅かった。現在は止まっている。
男の姿はすでになかった。空気に包まり、空間を飛び越えて消えていた。逃げた場所はすでにわかっている。正確には「戻った」のだ。思わず僕は、自分が嫌になった。何というか、醜いのだ。あれだけ自分を謳っときながら失敗するのだ。歪なものだ。
しかし僕はそんな自分すらも「自分らしくて良い」という結論に至って認めたのだった。僕も人間なのだ。失敗も犯すものだ。つまり、僕は悪くないのだ。僕は変わらず、自分は一番最強だと思っているのだ。
僕はポケットから電話を取り出し、カミタニさんにへと繋げた。僕は靴の先端を上下に動かし、地面を叩く仕草をした。画面に耳先が触れ、冷えた空気が弾んだ気がした。鼻血はすでに凍っていた。
『もしもし』カミタニさんの声が現れた。『どうなった?』とカミタニさんが訊ねた。
「逃げられました」と僕が言った。「けれども逃げた場所は限られています。さっさと行きましょう」
『やっぱりそうか』とカミタニさんはまるで案の定、といわんばかりの声を発した。僕も出来る限りの余裕さを装っていたのだけれども、その返答には思わずたじろいた。
「驚かないんですね」
『当たり前じゃないか。君の先程の言動から大体予想はできるよ』とカミタニさんはそんな事を簡単に口から出すのだ。僕も思わずちっ、と舌打ちを洩らした。気に障るような事を吐くカミタニさんが悪いのだ。僕は頭部をぼりぼりと掻いた。
「ですが、奴は廃虚に戻っただけです。GPSもありますし、今度は成功させま」
『いや、もう結構だよトオル君』
「は」と僕は漠然とした声を洩らした。もう結構――とはなんだ。僕はその言葉の意味を勘ぐってみた。いろいろと思索してみたのだ。僕は出来る限りカミタニさんの感情輸入を挑んだ。カミタニさんの身を二つへ割り、棺桶に入るように僕は身を重ねる想像をする。マトリョーシカように中へと重ねた。そして自分の反省すべき点を深潜りで探った。けれどもだ。それは僕の感情輸入が乏しいだけなのかもしれないが、何も思い当たるものなどないのだ。確かにミスは犯したかもしれないが、それだけで「結構だよ」は僕はカミタニさんを人として疑ってしまう。カミタニさんになりきって考慮している時にいうのはおかしいのだけれども、僕はそういう人間なのだ。
「どういう事ですか」結局見当もつかず、僕は訊ねた。毛の先程すらも、わからなかったのだ。
『この事を推測したからだよ。俺は今、廃墟の前にいるよ。追い駆ける側も馬鹿じゃ駄目なんだよトオル君』
その瞬間に、先程の男の言葉が脳裏を過ぎった。一本の透明な糸を引っ張ったように浮んだ。「そうですか」と僕は声を吐き、電話を切った。僕が起こす現象のように、電話を切った瞬間にあらゆる言葉が脳裏へぽんぽんと浮んだ。君一人じゃ無理だよ、とカミタニさんが悪意に満ちた表情で僕を俯瞰で見下ろす。新入りかよ、と男が余裕な笑みを滲ませながら僕を揶揄する。僕はひとまず瞑想に入る事にした。身を見えない壁で囲いたかった。
強く目を瞑り、眼球を潰すような勢いで闇を求めた。まるで布団の中に入るなり凍えてすぐさま頭まで被ってしまうようだった。壁に背を付けて持たれ掛かり、ゆっくりと腰を滑らせて尻を地に付けた。瞑想の箱へ篭ろうと試みるが、苛立ちがもがいてとても難しいのだ。僕は指先に力を込め荒々しく髪を掻いた。まるでキャベツを千切りにするかのようにだ。
僕を抱く闇は僅かに赤紫色のような光を佩びていた。その光は脳裏に置かれた記憶から引っ張り出したような、曖昧な光景を写していた。蛍光色のような黄緑色と暗黒な濃い赤紫色が暗く闇に沈みかけである。その正体不明の光が描くのは、二つの巨大な目玉だった。
男性か女性かもわからない。見当もつかない。だが、二つの何かを訴えているような大きい瞳だった。僕は、その瞳に呑み込まれそうな恐怖感が込み上げ、すぐさま光を求めた。視界を再開させると、世界が止まったような沈静を佩びた薄暗い路地裏だった。先程の瞳の奥は虚空の真っ暗闇が広がっており、夥しい程に僕は身震いを感じた。僕は目を落し、足が付いた地面を俯瞰で眺めた。
身を凍らすような空気は氷のようだった。雪はまだ降らないが、冬の訪れを感じさせるのには十分すぎた。今にでも悴みそうな手の平をポケットに挿入し、頭上の空にへと目を移した。変わらず雲一つ存在しない。淡白な薄汚い白色をした虚ろな空だった。僕もその色に染まりたかったのだけれども、現状の自分じゃ無理に近かった。いつか見た教科書に載っていた「かげおくり」のように、白い空に白い影で何かが浮びそうだった。
ひたすら僕は、「僕は最強だ」と何度も繰り返して呟いていた。それはいつか降る雪のように、脆かった。
八話でした…