六話
僕は体内の細胞を破壊していくような洪水が身を浸食していくのがわかった。味わった事のない感覚だった。未体験なのだ。
自分の迂闊さが招いた事態に僕は焦りを額に浮かべていた。そのせいか少々早口になってしまい、しかも「どうするんですか!」と怒号のように音量が無駄に大きい声を発してしまった。僕を翻弄するかのように落ち付きという悪魔は逃げて行く。そんな自分にじれったさを隠しきれず、僕は今起こしている自分の言動に後悔をしていた。
それなのに隣で飄々としているカミタニさんに僕は人間かどうかすらも疑った。正直、さっぱりわからない。この人は何を企んでいるのか見当もつかない。
「まあ落ち着きなよ」とカミタニさんが言った。それはまるで僕の今の現状を俯瞰してすべてを把握しているような余裕さを醸し出していた。「逃げた男も馬鹿じゃないんだよ」カミタニさんは続けてそう言った。
そんなのわかってるさ。僕は本当にこの人は頭がおかしいとまで思っていた。頭が悪ければ自惚れが強くなんてならないし、その前に逃げる事すら考慮しないはずだ。当然だ、と僕は断言する。何故なら僕も馬鹿じゃないからだ。
「何が言いたいんですか」ところで僕はあくまで自分の失態がもたらした、とは考えていなかった。考えるほどでもないのだから、当然だ。
「そのまんまさ。逃げる側が馬鹿じゃないなら、追いかける側も馬鹿じゃ務まらないだろう?」カミタニさんが遠回りに僕を揶揄してきている気がした。「何を勿体付けているんですか」と僕は苛立ちを洩らす。
「先程俺はタチバナに仕事完了の報告をしていただろう?」問題を出すようにカミタニさんが言う。
「そうですね」
「その時に聞いたのさ。「二人の超能力の詳細」を」
それでもわからなかった。一直線に進めばすぐに到着する道を知っていながらも、あえて遠回りをして僕の焦りを大雪のように積らしている。からかわれている、と僕はすぐにわかった。
カミタニさんは僕の表情の変わりを見て楽しみながら、ダウンジャケットのポケットから携帯を取り出した。それをドリンクスタンドに置き、タブレット式の携帯を立たせた。僕は目を細め、その画面を見据える。単純な地図マップだった。
そこには赤い光を放つ点と青い光を放つ点がゆっくりではあったが動いていた。「どっちが僕達ですか」と訊ねると、「赤い方」とカミタニさんが言った。
「それでね。俺はタチバナに聞いたんだよ。超能力の詳細をね?、それで教えてくれ」
「はやく教えてください」僕はその話を割り切るようにして声を挟んだ。
「一人は「遠近法を操る」というものらしい。本当は遠い位置にいるのに、相手にはまるで目の前にいるかの酔うな、いわゆる幻覚を魅せる事が出来るらしい」
そこで僕は同定した。僕の目の前でナイフを振り下ろす寸前だったあの男は、本当はナイフが当らない程度に距離が空いていたのだ。それを僕はまんまと騙され、恐怖のあまり目を瞑るなんていう情けない失態を晒してしまったのだった。「でもその能力じゃ逃げれないじゃないですか」僕が訊ねると「それは後ろにいる男の超能力だよ」とカミタニさんが僕の焦りを嬲るように返した。
「肝心なのは逃げた方さ。彼の能力は簡単に言えば「空間移動」というものだ」
「空間移動?」
そう、とカミタニさんが肯く。「もっと詳しく説明するとだね?元いた場所と「空気」を入れ替える事が出来るんだ」
「わからないです」僕は正直にそう言った。
「そうだね。逃げた男は元々どこにいた?」
「廃虚ですよ」当然じゃないですか、と僕は言う。「そして今までどこにいた?」カミタニさんがそう訊ねる。「車内ですよ」当然じゃないですか、と僕は強弱のない一定を保った声で答えた。なんだこれ、と脳裏で託つ。「その通りだ」カミタニさんが正解です、と言った。
「先程の廃虚とこの車内の空気を「入れ替えた」のさ。彼はその入れ替える空気に紛れる事が出来るのさ。だから簡単に逃げれる。瞬間移動みたいなものだね」
「という事は奴は廃虚に戻った、という事か」
正解です、とまたカミタニさんが言った。僕は舌打を堪える事に努めた。完全に下に見られている、という感覚が僕は嫌いなのだ。それは立場が逆な気がしてならないからだ。そうやって僕は少年時代から過している。
「その事を電話でタチバナさんに聞いたんですか」
「ああそうだよ」
「それで対策は何かしたんですか」僕はカミタニさんの携帯電話を見据えながら訊ねた。正直にいうと、すでにわかっていた。
「彼の服にGPSチップを装着しといた。今そこに戻っているわけさ」
どおりで埃が舞っている気がしたのだ。僕はすぐに窓を開け、車内の喚起を始めた。そして毛糸が肌と擦れる痒さに耐え切れず、指先で掻いた。冷えた風が頬を撫で、頭部を覆った。焦りは嘘だったかのように引き、落ち付きさと冷静を僕は再び備える事ができた。出来れば深呼吸をしておきたいところだったけれども、カミタニさんにそんな姿を晒す事は拒否した。僕は業界最強なんだよ?何を悶えているんだ、と唱え続けた。そうすれば、以前の優越感が甦ると思ったのだ。しかし、優越感はつぼみすら出さない花のように固く閉じ篭っていたままだった。
村上春樹のような文体に憧れています。 けれど、難しいですね。