三話
埃っぽく古臭い貫禄を備えているチャイムを人差指の先端で強く押す。ピンポン、と音が反動するかの様に、扉をすり抜け、外にまで聞えた。壁が薄すぎないか?、と窺う。
「はいはーい」と独特な音程を佩びた口調の男性の声が扉の内側から耳元へ流れて来た。横に引くタイプの扉らしく、錆が擦れる様な甲高い軋み音を轟かした。耳を防ぎたくなる。
「うーん」扉から登場した男性は僕の顔を覗くやいなや、「どちら様?」と訊ねて来た。男性は黒縁の眼鏡をしており、口を囲む様に少々の髭を蓄えている。焦げた琥珀色の髪は耳に被さる程度の長さで、最近梳いたばかりなのか、僅かな揺れだけでも、軽々しい鰹節の如く踊っていた。
「ここの事務所を知り、やって来ました」
「ああ。とりあえず入ってよ」
黒縁の男は僕を客の様に中へ招待し、僕は流される様に事務所の中にへと足を踏み入れた。「カミタニ」と名乗る男性の背を追う様に僕は足を運んだ。エレベーターの空間にへと招かれ、ボタンが集められたパネルにカミタニさんが触れる。分厚く、重々しさを漂わす扉が力強く閉まった。
僕はこの平衡感覚を歪め、麻痺させる様な独特の空間が苦手だった。緩慢に上昇し、いや上昇とはいっても、この事務所は二階までしかない。閉、や開、のボタンと同様に並んだ数字のボタンは2、までしか無かったのだ。足元を掬い上げる様な浮遊感も僅かな時間だけであり、再び扉が左右に開く。
カミタニさんは僕を客室専用の室内の様な場所に招き、革生地のソファを指差して「そこで待ってて」と軽い口調で指示する。僕は言われるがままにそのソファへと腰を下ろした。腰が沈み、身を預ける。我ながらに緊張感の無い態度だな、と苦笑しそうになる。
「コーヒーを淹れてくるよ」
「恐縮です」
僕は軽く頭を下げ、カミタニさんがコーヒーを淹れに室内から出て行くのを何となく見つめた。木製の扉が壁と合致する音が発する。僕は視線を逸らし、左側の壁の方へと顔を向けた。外からだと僕が丸見えに映る硝子の窓が付いていた。僕は僅かながらの気恥ずかしさを抱くのと同時に、無防備になった様な感覚を覚えた。
こんこん、と扉をノックする音が室内に響いた。「はい」と気軽な返事を返すと、「失礼します」と凛々しく真面目な印象を抱かせる女性の声がした。ドアがゆっくりと隙間を見せ、徐々に拡張して行く様に慎重だった。何をそこまで、と僕はその光景から何故か目が離せない。やや背が低めで、スーツをこれ以上ない程に着こなしている女性が室内に入って来た。僕はその女性にOLの様な印象を覚えた。さらに秘書の様な官能的な雰囲気も備えているな、と点数を付けるかの様に脳裏で述べた。顎が尖り、輪郭が整っている。
その女性は書類の様な物を、僕の前に置いてあるテーブルの上に、僕と向かい合うように置く。
「こちらのアンケートにご回答ください」
「なんのアンケートなんですか?」
「いろいろでございます」
僕はそのいろいろを訊ねているのだけれども。とはさすがに言う事を躊躇した。添える様に置かれたボールペンを手に取り、二、三枚に束ねられた書類を捲る。それと同時に、先程の女性の慎重さを壊すような陽気さで、カミタニさんが室内にへと戻って来た。お盆を片手に持ち、湯気を漂わせているカップが二つ並べられている。「タチバナもいるなら言っておくれよ」、とカミタニさんがテーブルにコーヒーを運んでいたお盆を置く。「私は結構です」と女性が恐縮するかの様にお辞儀をする。僕は丁寧な人だな、という印象を脳裏で呟いた。魅力ある女性だ。と、僕は素直に憧憬した。
「アンケート取りながら聞いてくれよ」カミタニさんがそう呟きながら、僕と向かい側のソファへ腰を掛ける。
「はい」
「改めまして。俺はこの事務所の社長的立場な人のカミタニです。あくまで社長「的」ね」
「はあ」僕の理解力が乏しいのか、いまいち理解が出来ない。
「それでこっちが、」
「秘書的な立場のタチバナです。あくまで秘書「的」です。曖昧です」
「曖昧ですね」僕の理解力が足りないだけかもしれないけれども、やはりよく分からない。
僕はとりあえず一枚目の書類に記された空欄に自分の名前を書き、年齢や電話番号などの情報を記した。二枚目から、アンケート用紙のようになっている。
「どれどれ」カミタニさんは記入を待っていたかの様にその一枚目の用紙を手に取り、目を通す。「トオル、というのか」と顎に蓄えた短い髭を撫でながら呟く。僕は気にせずアンケート用紙に○やら×を記していた。
「ここに来たという事だからそうだろうけれど」カミタニさんは僕の記入した用紙を何度も目を配りながら、僕に訊ねる。「トオル君は超能力者、なんだよね」はい、と僕は素早い返答をした。まるでその質問を今か今かと心待ちしていたかの様な素早さで。いや、実際今か今かと返答の準備をしていたのだけれども。
「それは、どんな現象なんだ?」
「それは教えません」それも僕は、質問を反射させるかの様な素早さで答えた。
「なんでさ」
僕の思索通りに行き過ぎて、本当は心を読まれているのか?と逆に疑いたくなる程だった。それか僕は人すらも操れるようになったのか?、と高笑いしてしまいそうだった。頬に力を込め、堪える。息を吐く様にして落ち着きを取り戻す。「わかりませんか?」僕は滑らしていたボールペンを一旦テーブルに置き、カミタニさんの顔を見つめた。
「そちらの方が、面白いじゃないですか」
「面白い事を言うね。君は」
「実際面白いですからね」
僕は笑みを表しながら、言葉を続けた。カミタニさんが眼鏡の位置を調整し、外の日差しがレンズに一瞬流れる。
「いかんせん僕は、自分がこの業界で一番。最強だと思ってますから」
面白い事を言うね、とカミタニさんが笑みを零した。僕も釣られる様に笑みを洩らす。
「〈蝶硝〉の者からの仕事依頼です」とタチバナさんが僕に仕事の依頼を連絡して来たのは、それから数日間後の事だった。どうやらカミタニさんからのリクエストらしかった。お気に入りに追加されたのかもしれない。
業界に入って数日間で、はや仕事依頼とは。僕はもしかすると強力な幸運に恵まれているのかもしれないな、と昂りを覚えていた。事務所へ向かう仕度をしながら、僕は自分を謳う。
「トオル君。さっそくだが仕事だよ」
「承諾するまでに二秒とかかりませんでした」
相変わらず面白いね、とカミタニさんが謂う。そんな事よりも早く仕事の詳細を把握したい僕は、高まりのあまり「それで、仕事の内容は?」と忙しない口調でタチバナさんに訊ねた。
今云いますから、とタチバナさんは何の変哲もみせない。僕とカミタニさんの顔を交互に視線を送りながら、ノートパソコンを開いてメールか何かを読みながら声を発した。
「この業界の超能力者が二人組。〈蝶硝〉の護衛をしていた二人組なのですが、その二人が逃走しました」
「それを捕まえろという事ね。把握把握」カミタニさんは革の手袋をはめ、早くも外へ向かう準備を整える。
「捕まえればいいんですね」
「はい」
僕は高揚で頬が怯むばかりだった。自分でも、さすがに気味の悪さを感じる程だった。
これを着たまえ、とカミタニさんが衣類を僕に目掛けて投げて来た。それを僕は上手くキャッチし、「何ですかこれ」と訊ねる。
「仕事服的なやつだよ。あくまで「的」なのね」とカミタニさんが回答する。
「曖昧です」とタチバナさん。
「曖昧ですね」と、僕。
やはり僕の理解力が乏しいだけかもしれないけれども。相変わらず、いまいち掴めない。
次回らへんに、バトルかもです。