一話
僕はこの世でたった一人の、逸材だ。
少々過去の話をする。神様なんていう存在は微塵と信じていなかった僕は当時、些細なことから、「いじめ」というものに遭っていた。小学五年生の頃だったと思う。
友人の消しゴムを僕は指先で弄んでいた。やや硬めの素材が指先に吸いつき、その感触が癖になった僕はその消しゴムをすこし丸みを佩びさせるように曲げたり、親指で力を込めて押してゴム製独特の弾力を楽しんだりと指先で冒険した。ただ、なんとなく指先で暇を持て余していた。
あらゆる方向へ湾曲を沿うように曲げたりとしていると、消しゴムがほぐれ、柔らかさを取り戻すかのような感覚がした。体温が移り、親指などで押すと先程よりも深く沈んだ気がした。その程度で躊躇しておけば良かったのかもしれない。そのまま僕は、その消しゴムを割ってしまったのだ。
ぐんにゃり、と片手の人差し指と親指で限界まで曲げたつもりだったのだ。けれども、その境界線を越えたかの様に、一瞬にして奇麗に割れたのだ。まるで刃か何かで切断したかの様に奇麗な断面を露にし、付く事のない消しゴムの面と面が密着した。
まずい、僕は咄嗟的に、状態反射の如く、首を左右に振った。辺りを見渡し、見られていなかったか、という確認をする。仮に見られていたとしても、どう口止めするかなんて事は考えていないけれども。その感情に委ねてだった。
僕は再び二つに分裂した消しゴムに目をやった。とりあえずその消しゴムを友人の筆箱に隠す様にして戻し、自分も席にへと戻った。
正直、僕は自分の失態が招いた事態に反省の志は微粒子程も考えては無かった。謝罪したところで、結局のところは責められるのだ。ならば、隠し通せばいいのではないか?と僕は澄ました顔でいる事にした。
それが、世間でいう「いじめ」の始まりだった。そんな事の原因は、大概がそんな些細な事からなのだ。
結果をいってしまうと、その日の内に僕は疑いの視線を向けられ、翌日には犯人は僕だという事が明らかになっていた。「いじめ」という事態に発展したのは、すぐだった。
僕がやったのと似た様に、僕の消しゴムが無残に割られていた。それを見た時、僕は「始まったか」と溜息を吐き、それでも謝るという行動をしないでいた。
次の日には消しゴムが細かく小刻みに木っ端微塵となっているのだから、思わず僕は苦笑した。正直、僕はこの現状を楽しんでいたのだ。「消しゴムを割られたくらいで、小さい男だな」と僕はその男と目が合う度に脳裏で憫笑をしていた。
ざまあみろ、と嘲笑う様な余裕に満ちた視線が、僕を捉える。僕はその勝ち誇った顔が見ていておかしくて堪らなかった。笑みが漏れそうになる度、僕は腕で囲いを作り、その中に顔を埋めて寝る真似をしていた。肩が痙攣するかの様に揺れ、笑っている事を隠しきれていなかった。
給食の中に消しゴムで出した滓が詰まっていた時には、さすがに僕も身震いを覚えた。若布が無駄に多く入った海草サラダの中に、消しゴムの滓が少々入れられていた。
消しゴムを割られただけで何をそこまで、と僕はその男の方へと視線を送った。その男は僕に対する「いじめ」のグループとやらを作っており、教室の男子大半は占めていた。
僕はそのグループに目をやり、「小さい奴らだな」呆れた、と溜息を洩らした。その僕の溜息を確認する度に、そのグループはわざと大声で高笑いをしたりもしていた。
その笑い声を脳内で何重と重ねて、自らの意思でも再生する。堪らなく、醜い。僕も釣られて憫笑してしまいそうだった。
その給食を無理矢理口にかき込むと、教室内がざわついた。それは何ともご満足そうな表情で、僕の言動一つ一つに嘲笑をしていた。まるでそれがこの上ない幸甚の様に。
僕はそれを哀れに思いながら俯瞰で眺める様に見下し、自らも高揚していた。その自分の余裕な笑みに、グループの奴らは苛立ちを覚え、さらなる仕打ちをするのだった。
それは僕がいつもの様に下駄箱で上履きを取り出している時に起こった。
学校に登校すると、「いじめ」なんて知らない教師が相変わらずの爽やかさを伴う声で「おはようございます」と挨拶をして来る。僕は小さく相手の耳元に届くか届かないか程の声で、「おはようございます」と返す。
生徒玄関に入れば、昨晩放送したドラマの感想などで盛り上がる女子達。お互いの昨晩で更新した成績を自慢しあう男子達。といった喧騒が広がっており、耳障りで仕方がなかった。自分の名前が記された下駄箱に履いて来たスニーカーを入れ、上履きを取り出す。僕はその上履きに、やや違和感を覚えた。
中を覗いてみると、丁度爪先辺りに達する奥の方に、画鋲が三つ敷かれている事に気付いた。「漫画か何かの見すぎだろ」と僕は思わず吹き出してしまう。僕はその画鋲を摘み、下駄箱の上にへと投げた。念の為、と靴を反対にして何度か振る。もう何も落ちてはこない。
その上履きを荒々しく地面に落し、足で直そうとした時だった。
僕の右側の脇腹を掬い取る様な蹴りが、体に重みを乗せてぶつけて来たのだ。僕はその蹴りにたじろき、尻餅を付いて何だよ、と託つ。
それは案の定。僕をいじめている男だった。僕は体制を起こそうと試みるが、男は足を前に突き出す様に僕の右肩を強く蹴った。再び僕は足元を崩す。
そのまま男は僕の髪の毛を鷲掴みの様にして掴み、勢い良く引っ張る。毛穴が拡大しそうな程に躊躇のない力の入れ方で、僕は思わず「痛い」と声を洩らした。
髪の毛を上へ引き、僕と顔を合わせる。男の愉快そうな表情が、僕の視界に広がる。男は右腕の拳を丸め、僕の鼻筋辺りを捉える。「やめて」と僕は畏怖さを滲ませた声を漏らしてしまう。
男子が勢い良く拳を振った。僕の鼻を目掛け、宙を裂く。正直僕は、一発で済むのなら良いか、と諦めまで感じ、恐怖心から目を強く瞑った。が、
「え?」
男の振った拳が僕の鼻を突くのに、やけに時間が掛かるな、と疑問を覚えた。その疑問が浮ぶ時間すらあったのだ。恐怖が解けた様に僕は瞼を開き、拳を確認する。
今にでも僕の鼻を強く潰す様な勢いを纏っている拳が、視界の大半を覆っている。だが、それだけだった。唐突の激しい鋭さを纏った喧嘩慣れしている拳が、固定されているかの様に動作きを滞らせていた。
停止しているのは、拳だけではなかった。男の表情も、唇を尖らせて拳に力を込めている様に勢いを作る表情のまま、静止をしている。さらに言えば、あちこちでがやがやと喋り声がしていた学校内も、一瞬にして静まり返っていた。一人一人の動作は動きを忘れた様に停止しており、テレビの一時停止の様な静けさだった。
さらに言ってしまうと、この世界が、この地球自身が、動くのを止めた様だった。
まるで「時が止まった」様だ。そんな現実味が毛頭とない感想すら、抱いてしまう。僕の髪を掴んでいた男子の手なんてものは簡単に払う事が出来、僕は拳が当らない程度の距離を空ける様に男から身を離した。なぜ僕だけ動けるの?、なんていう疑問が浮んだ時には、世界は動きを取り戻していた。
一話です。最近、調子が悪い気がするんですよ。みなさんは自分が納得行かない時、どんな事をしているのか気になる今日この頃でございます