十六話
電話越しからは、氷の膜が張ったような声が洩れてきた。その声は吹雪のようでもあり、僕の耳に一直線に入り込んできた。カミタニさんだ。『君のせいだよ』その言葉の意味を、僕は推測できなかった。まるで見当もつかない。この現状で、僕が犯したミスなどないはずなのだ。やれやれ、僕のこの成績を認めたくないのか、と僕は呆れの笑みを洩らしそうになった。
電話を耳に挟みながら僕はコートを脱いだ。蒸れたような空気がコートの中身を覆い、日陰の砂漠に埋められたような水分を奪う熱が煩わしかったのだ。脱いだコートをソファに掛けた後、僕はタートルネックの袖も折り、肘辺りまで上げた。コロッケのようなざらざらとしていた感触が肌から剥がれ、一瞬にして冷えた粒子が飛びかかってくるようだった。
「どうしたんですか」と僕は訊ねた。「僕が何かしましたか?」
『そうさ。トオル君が招いた事態だ』とカミタニさんは自分の判断に後悔をしているような、口調で言った。淡々としている。
僕にはカミタニさんがわからなかった。カミタニさん自身、僕はわからない。彼は何を日頃考えているのだろうか? 僕には爪先程もわからない。ぼんやりとした形すらも浮ばなかった。
「意味がわかりませんね」と僕は呆然としたまま訊ねた。こめかみに手を伸ばし、ぽりぽりと掻いた。
『よくそんな白を切る事ができるね。トオル君』
「人違いじゃないんですか」と僕は少々怒りを覚えた。ただ単にカミタニさんは僕の事が嫌いなだけだろう? と、僕は電話を早く切りたくて苛立った。「なんでも悪い事は僕ですか?」
『だってそうじゃないか』とカミタニさんはきわめて冷静さの中に嫌味を混ぜて吐いた。水を一度氷にし、その氷を再び水に溶かしたような声だった。
僕はもう一度、自分の行動を振り返ってみた。何か失態をしていたのかもしれない。けれどもどれだけ考えを巡らせても思い当たるものはなかった。月を覆い隠す雲が流れるように、僕の辺りにそこはかとない寒気がした。僕は上げていた袖を元に戻し、ソファの背もたれに掛けてあったコートを手に取った。「僕には微塵とわからないです」と僕は言った。見られていないだろう、という事で僕はつでに肩もすくめた。
男が二人組、という情報を思い出したのは肩をすくめた直後だった。さらにそれを追うように、僕は男と対峙したときに、男がした謎の肯きを思い出した。あれはなんだったのだろうか? そこで僕は自分の不注意さに気づいた。どうやら僕は、またやってしまったのだ。
『君が護衛をしているところの入り口から、二人のうちの一人がホール内に侵入した』
何も学習していないな君は、と誰かが僕の耳の奥で言ってるのがわかった。幻聴かと疑ったが、違う。これは僕自身の声だった。僕は、自分にかつてない憎悪を抱いたのだ。今まで僕は、逃げ道を無理矢理作っていたのだと気づいた。全身を舐められたように、僕の身体が不安定に歪むように強張むのがわかった。
身震いが走ったのだ。
何も訊き返すことができず、僕は逃げるように電話を切った。その場を漂う空気すらも強張っているようだった。猫の舌のようにざらつきを佩びていた。振り返ってみれば、前回も僕は二人組、という情報を忘れていて、カミタニさんの手を借りる事となったのだ。反省と同時に、徐々に僕は自分の今までの行動に羞恥心が沸いてきた。
僕の言動にタチバナさんは笑いを堪えていたのだろう。アミサキさんも同様で、僕の発言に噴出しそうになっていたのだろう。
そう考えた瞬間、僕は自分の愚かさに笑いたくなった。なんて痛々しいのだろうか、と僕は顔中を紅潮が覆った。自分は自惚れていたのだ。やっと気づいたか、と僕を揶揄するようにタチバナさんの言葉が脳裏に浮んだ。続いてその言葉に重ねるように、カミタニさんの発言も現れた。
体がずきずきと痛んだ。まるで足を一歩のせる度に軋む階段のようだった。体を縛るその痛みは、湖に広がる波紋のように脳に伸び、キャリーケースに無理矢理詰め込む服のように叩きつける僕の羞恥心を和らいだ。痛みの方にも神経を分けたのだ。僕はさらなる痛みを求めた。自分の体に傷をつけ、再び逃げることを試みたのだ。
折りたたみナイフを取り出し、刃を開いた。刃部分を自分の手首に這わせ、歯を食い縛った。躊躇いはまるでなかった。銀色の鋭い刃は僕の皮膚をぷちぷちと音を立てて毛を逆立てるように皮膚を引っ張った。冷えた異物が皮膚を破き、そこに氷水を流し込むように僕の手は痛みを佩びた。それが僕には爽快に思えた。自分でも愚かだと思う。しかし止める事ができなかった。
ひぃひぃと僕は不気味な声を歯の隙から洩らしていた。ここで死んでしまえばどうだろう? そんな案が浮んだ。所詮僕は逃げることしかできないのだ。最後まで逃げる事だけで生涯に終焉を迎えるのだ。実に、くだらない。僕は太宰治の『人間失格』を思い出した。それを読んだのは中学を迎えた頃だったと思う。当時の僕は主人公の言動にも何一つ共感できず、さらに言えば苛立ちを覚えていた。何故自分を滑稽だと決め付けるのだ? 何故自殺なんてしようと思うのだ? ただの自己憐憫なだけだ。滑稽になりたいのなら笑ってやるよ、と当時の僕は文章を眺めながら憫笑をしていた記憶があった。
その過去の僕に、現在の僕は笑っていた。下品な言葉で大笑いする低学年生のようにくだらないのだ。腹を抱えて笑った。笑い声を口元から発しながら、僕の肌は強張っていった。ナイフの刃が僕の腹部を据えているのだ。指に力を込め、ナイフを強く握った。
――馬鹿みたいだな。と誰かが言った。その声の主が僕だという事に気づいたのはすぐだった。――お前ほど滑稽なやつもいないよ。
僕は口角を上げて肯いた。
「全くだ。僕ほど痛々しいやつもいないな」
僕は暗闇の中にいた。そこは一切の光の存在も認めず、垂れ幕を何枚にも重ねたような厚い闇だった。出口がなく、一面壁に囲まれている。天井も影を被ったような深い闇が覆っており、自分が今どの方向に向いているのかも見当がつかなかった。手を上げても、感覚があるというだけでそれが実在するものかはわからなかった。首を上に曲げても、光の線すら許さない暗闇だった。僕は本当に上を向いているのだろうか? まるでわからない。その前に天井や壁があるのか? わからない。この空間は延々とそこはかとなく広がっているのではないか、と僕は思った。
――開き直りとはかっこ悪いな。と僕の声と共に、視界の前に現れたのは自分だった。暗闇の中で淡い光を身にまとっているように姿はありありと僕の瞳に映った。細部まで明晰に描かれ、しかしどこか儚げが窺えた。それはまるで遠い彼方から現れた幻のようだった。
「かっこ悪いさ」と僕は言った。「今までもそうだったはずだ」
――お前は迷惑をかけすぎた。と幻の僕が言った。その言葉は雹のように僕の肌を叩き、凍えだけをべったりと肌に残して溶けた。
「そうだ」
――反省の気持から、自分を殺すのか? と、彼は訊いた。
僕は肯いた。
――それは傑作だな。と、彼はひとしきり笑った。雄叫びのように声を張り上げた。
――でもな。と、幻覚の僕は笑いを止めて言葉を続けた。――それはお前、都合が良すぎるぞ。
いいじゃないか、と僕は苦笑した。「これから先も迷惑をかけるだけだし、どうせ黒歴史となって僕を苦しめるさ」自分の首を絞め続けるだけなのだ。タチバナさんはそう僕に言ったのだ。
――やれやれ。と彼は首を振った。――ほんとお前は腹の立つ奴だな。まるで屑だ。
「わかっている」と僕は肯いた。
――それと俺は茶番が嫌いだ。傍から見れば俺とお前の会話なんて茶番でしかない。
「そうだな」僕は苦笑した。
――せめてもの罪滅ぼしはどうだ? と彼が僕に訊ねた。
「その罪滅ぼしは悲惨な結果を招くかもしれない」
――逆だ。と彼は言った。彼は僕の顔を見据え、今の僕の発言を噛み締めるように咀嚼した。――そうじゃない。
「じゃあ何さ」
そう僕は訊ね、こう彼は言った。
――その罪滅ぼしは、お前の活躍で報われる結果を招く。お前は「時間を止められる」からな。
はやくも十六話でした。もうすこしで終わります。面白くなるよう頑張ります! ところでなんですが、「第一章」とかある長編ってどのようにプロット立ててるんですかね?
その前に途中で飽きたりしないのかなあ、と思います。最近ええ。




