十五話
「距離を省く」なんていう超能力があるのなら、ホールの中には簡単に侵入できたはずなのだ。しかし男はホールに入る事をしなかった。そんな事が可能なら、多少息切れが酷くなってでも侵入するのは容易い事だろう。僕は疑問をパン生地を伸ばすかのように脳へ広げていった。大量の水が溢れ出し、枯れたような乾き切った地面の上を走り、急激な速度で街を大洪水にしていくように、疑問を溢れさせた。今までの行動を繰り返しと想像し続けた。
僕の拳は、まるで見切られていたかのように避けられた。男からすれば僕は瞬きの刹那に視界の前に現れ、拳が飛んできた風に見えたはずだ。それを瞬時に反射のごとく男は体勢を下に屈め、僕の拳を空振りさせたのだ。僕は男のその素早さに脳が追いつかずそのまま体勢を崩した。男はナイフを持っていない方を地につけながら、蜘蛛のように足を横長く広げて前へと詰め寄った。そして体を屈めたまま、ナイフを横にへと振った。空間に切れ筋を作りながら、ナイフの刃は僕の右足の太股を突き刺した。突如として体内に侵入したその異物に僕は喉の蓋をこじ開けてでも発声させたい喚き声が込み上げた。
そのまま僕は倒れ、ナイフを引き抜きながら歯を強く噛み締めた。口内にへばりつくように苦味と臭みが篭り、額から汗を霧状に吹き出す。その痛みが乱暴に掴み、無理矢理引っ張り出したかのように涙も目元に浮び、辛いと知らずにガムを噛んだ時のような特殊な呼吸を歯と歯の隙間から漏らした。男は体制を戻し、すぐに地面を蹴った。僕の太股からか肉の破片のようなものをこびり付かせているナイフを拾い上げ、フェイシング選手のようにナイフを僕に突き出した。
ナイフの刃は僕の左耳を襲った。そのまま顔を傾けずにしていたら、僕の鼻は突き破られていただろう。左耳に切り込み線を描くように切り裂き、耳の縁側は刃がいとも簡単に貫通していた。僕は下唇に上の歯を食い込ませ、呻き声を殴るように堪えた。刃が風を削る音がまじかで耳元に響き、僕の額からは血が引き、その代役をするかのように嫌な汗が大量に滲んだ。刃は画用紙二、三枚分程度の厚さで蒼白く細い光の反射が刃の表面を滑るのがわかった。とても鋭く、よくこんなものを躊躇なく振り回せるな、と僕はいささかな関心すらも抱いた。刺された太股はその場の冷え切った空気を吸収し、より痛みを増した。切り裂かれた耳は摩擦から生じたような熱を佩び始め、その切れ筋を刃と共に冷えた空気が通り抜けた。一瞬痛覚すらも吹き飛び、熱だけが耳元を覆った。追いかけるように痛みが走り、僕は食い縛っていた歯がどれか欠けたような空気が急速に漏れていく開放感がした。
男はさらに僕に蹂躙を試みた。手を頭上に上げ、刃は下に向いていた。僕は頭上から徐々に感覚が失せていく錯覚を催した。何もかも考える事ができなくなり、徐々に頭が透けて消えていくのだ。空間が僕を食らうのだ。空間に頭上から呑み込まれていき、僕は硝子のように色を無くすのだ。食われて呑まれる。脳を齧り、血管も骨も咀嚼する間も作らずに体内に流し込む。堂々巡りだ。繰り返され、僕は消えていくのだ。
いつか僕の体は空間と一体になり、ナイフすらも透き抜けるのだ。そして男も呑み込んでいくのだ。――僕は死ぬのか?そんな気がした。ナイフはきわめて緩慢な動きで宙を降っていた。それは野球中継などでスローで流されるリプレイ映像のようにだ。視界に靄がかかっていた。それは冷え込んだ朝に街を覆う白い霧のようにだ。
青褪めている、と気付いたのはすぐだった。ナイフの速度がとてつもなくゆっくりなのだ。姿の見えない、それこそ「空間」が男の手を押えつけているようだった。しかし男は黙々とキャベツか何かを千切りしているような冷静沈着に澄ました表情で慣れた手つきでナイフを振り下ろしているのだ。
それが幻影だと気付くのは簡単な事だった。僕は今幻覚に囚われているのだ。それは何者かの超能力でもなんでもなく、自分自身が発生しているものだ。夢の中でこれは夢だ、と気づく時と同じだと僕は思った。僕を翻弄していた幻影は、木っ端微塵にやられた悪役が「覚えておけよ」と喚きながら逃げるように、そそくさと消え去っていった。やがて視界は正確な光を取り戻した。それはまるで暗く闇が沁み込んだ洞窟に延々と点けていた懐中電灯の光から、洞窟の出口が見えてき、遠くから日光の光が差し込むようだった。作り物ではなく、自然な色が浮かび上がったのだ。僕は元に戻る事ができたのだ。
ナイフを振り下ろそうとしていた男は、僕の前で膝を付けて息を切らしていた。四百メートルを全力で駆けた後のような巨大な疲労の塊を宙へと吐いており、さらにバケツを被ったような大量の汗がぐっしょりと肌を濡らしていた。
僕は雨が沁み込んで軋み音を轟かす木材のように痛む身体を持ち上げ、男の前へと立った。足元が震え、太股がずきずきと痛みを生んでいった。僕は太股の傷から、肉の塊がずり落ちていっているような、錯覚を覚えた。足が徐々に軽みを佩びていくにつれ、その釈放されていく肉が身に貼り付いた痛みを投げて足の中に残していくかのように激痛が覆うのだ。
僕は刺された足を荷物と変わらない扱いで持ち上げながら進み、男の持っていたナイフを拾い上げた。先程まで軽快に僕を虐めていた男は自分のこの状況を怪訝そうに皺を顔に寄せていた。苦痛そうに息を上げながら手を床につけて僕を睨んでいた。男の超能力は、僕の想像する以上に、疲労を伴うようだ。その疲労を無視してあれだけ動いたらジェンガを積んでいくように疲労が蓄積されていき、抑え切れずに一気に身を襲うはずなのだ。ナイフの切り裂く位置は賢く計算されていても、自分の超能力の使い方を計算できていない、という事だ。
僕はすこしだけ、高揚した。刃に蹂躙されて確かに拷問に似た屈辱を覚えたが、それでも許せる程度には高揚が甦った。男は今、僕の前で膝まついているのだ。男の睨みつきが僕には許してください、と訴えるような同情を求めるものに見えた。優越感、ではなくとも僕は今悪い心地はしなかった。
「残念でしたね」と僕は息を荒くしながら言った。僕も相当参っているのだ。「僕を殺せなくて」
それでも凄かったですよ、と僕は余裕の笑みを作ろうと口角を上げた。「………ああ」と男はそれだけ声を出し、鋭い視線を僕を見据えていた。ところで僕は男の声を「ああ」としか聞いていない気がした。
「死にはしませんよ。僕は優しいですからね」と僕は自然と笑みを浮かべた。あくまで見せ掛けだ。
僕は久々に余裕さを取り戻していた。この状態が続けばいいのだ。脳裏にカミタニさんの顔が浮び、僕は舌打ちを零し、そしてスイッチを想像した。
これが最後だ。辛うじてではあったが、僕はやはり最強なのだ。笑い声を上げようとしたが身体のあちこちが笑いの分だけ悲鳴を上げそうなので躊躇した。ナイフを握り締め、呼吸を整えた。スイッチに親指を沿える。僕は『ゲーテのファウスト』のフレーズが脳裏を過ぎったのだった。
時よ止まれ――お前は美しい。
男は地面に呑まれそうなほどに、張り付いて倒れていた。脇腹を両手で押さえつけ、身を縛る痛みに疼いていた。頬から胸部、太股から脛、すべてが食パンにバターを塗りたくられるように、密着していた。脇腹に苦痛を訴えながら蹲っている姿は出産寸前の女性も連想された。ところでナイフを人肌に刺す、という行為は僕には罪悪感が大きすぎた。
時を停止させた後、僕は男の脇腹にナイフの矢先を突きたてた。ナイフなんてものを料理以外で使った事なんてないものだから、僕はついつい手が震えた。ナイフの先端は男の脇腹辺りを忙しなく揺れており、僕は手汗を滲ませながら緊張していた。認めたくはないけれども、ここが僕の甘いところだろうと思った。
しかし渡された僅かな時間は刻々と刻まれていた。脳に時計の針が一定のリズムで刻む映像が浮ぶ。僕はさらに油を被ったように手汗を滲ませた。勝手に踊る自分の手を見据え、刃で男の脇腹を触れた。時間は残り一秒、よりも少ないはずだ。
僕は強く目を瞑り、自分の震えに委ねるように刃を練りこませた。未体験の感覚だった。刃は皮膚を貫き、弾力のあるクッションのようなものに潜った。指で触れればそのまま押し込まれ、指を離した瞬間優しく凹みが戻っていく感触が、そのまま凹みを作らずに入り込んでいくのだ。鋭く尖った異物が、ぶちぶちと耳障りな音を漏らしながら侵入していくのだ。ナイフ越しにその生々しい感触は指先へと伝わってきた。内臓を突き破る感触だ。僕は男と同じ脇腹に傷を共有するかのように幻の痛みが篭った。激しい吐き気が喉を覆い、息が詰まっていくのがわかった。
刃の中間辺りまで潜った時に、世界は動き出した。男は突然の腹部を襲った違和感に身がよじれた。僕はその身体のくねりで驚き、ナイフを引き抜いて腰を浮かせた。尻を滑らしながら男から離れ、殴りかかってくる嘔吐を必死に堪えた。僕は人を殺す事はできないのだ。殺すつもりは必然とないが、ナイフを持つだけでも恐怖心を覚えそうだ。僕はひとしきり呼吸を強く吐いては吸っては、と繰り返した。
「ほらな」と僕は脳内に映るカミタニさんに呟いた。「僕は最強だろう?」右手の指を口元に当て、醜く爪を噛んでいた。
僕はやはり最強だった。超能力の弱点を推測し、見事的中する事ができたのだ。しかしその弱点を見切って戦う事は、まだ難しい。しかし弱点を推測できただけでも大きな進歩ではないだろうか。
僕が男を退治した。この事実は変わらないのだ。僕はやはり最強だ。笑みが零れた。胸元が何度も弾み、傷が悲鳴を上げた。僕は顔を手で覆い、ひぃひぃと気味の悪い笑い声を洩らしていた。その声は呼吸が詰まって咽び泣くようにも聴こえた。
しかし僕は再びミスを犯していたのだ。まだ気付いていない。その時、僕は正直自分という生き物に嫌悪を抱いた。それはカミタニさんからかかってきた電話が原因だった。
すこし遅れましたが、あけましておめでとうございます。――いや、もう「あけましたおめでとう」になってますね。
新年一発目の更新です。今年は中学三年生になります。なります。ます。
べつに新年明けたところで変わったことなどないんですが、最近は「比喩能力」を鍛えてます。
なんというか――その村上春樹の小説なんですが、「品の良いゴミ箱」というフレーズにすこし感動したんですよね(笑)
語彙も鍛えたいところですが、今は表現能力がほしい。そして文章もそうだけれど、面白い話が思い浮ばないです。 と、まあ。あけましたおめでとう。




