十一話
分厚く空に天井を作ったような灰色の禍々しさを窺わす雲は、遠くの方で白い靄のような淡いカーテンを作っており、それが雪だと気付いたのはすぐだった。正午前だというのに、空は夜を留めているような程に闇に包まれていた。街を暗く染め上げ、雷の轟音も遠い距離から耳に流れてきた。空を洗濯しているように大量の雨が降り、気が付けば雪にへと姿を変化させ、また雨に戻った。
事務所の二階から眺めたアスファルトの地面は、すべてを呑み込んでしまいそうな忌々しい闇を淀ませていた。辺りは自動車も人も存在せず、深夜の時間に巻き戻ったかのような錯覚に僕は陥った。蛍光灯の橙色を深めた明りが、さらに深夜を連想させた。
この業界に入り、二週間弱が経過した。あの廃ビルの一件以来、僕の元に仕事の依頼は訪れない。この業界の人達は通常、普段は事務所に来ないらしいのだ。仕事依頼がきたと報告され、事務所に向かい内容を聞いて仕事に行く、というのが基本だった。しかし僕はまるで通勤のように、用事もないのに事務所に行き来していた。
その理由は単純だ。自分を売り込みするためだ。仕事依頼というのはタチバナさんかカミタニさんが最初に用件を訊ね、内容を把握した後にその仕事に合った超能力者を選ぶらしかった。しかしあの一件の事でカミタニさんは僕に仕事の依頼を持ち込むなんて可能性はゼロに近いのだ。ならば自分からお願いをしなければならない。だから僕は事務所に居座っているのだ。
今の僕は、未練に充ちていた。まことに遺憾なのだ。君一人じゃ無理だよ、とカミタニさんの言葉が僕の脳を蝕ませた。あの余裕さをまとった表情が何度も輪郭をくっきりとさせて明確に浮ぶ。その度に僕は、周りにある物すべてを破損したくなるような衝動に駆られた。腹立ちなのだ。それはカミタニさんに向いた矛先ではなく、僕自身へのものだった。
事務所の中は、非常に緩慢な空気が循環していた。仕事依頼の電話が来なければする事もないのだ。カミタニさんは自分の眼鏡を布で磨いており、タチバナさんはコーヒーを啜りながら文庫本を読んでいた。僕はというと、受話器を長々と見据えていた。椅子の背もたれに身を任せ、まるで底に沈んで動かない金魚のようにじっとしている受話器を睨んでいた。細長い形をした結構最新的なタイプであり、日にちと時刻をパネルに示している。正方形の小さな台には隣にメモ用紙が何枚にも重ねられ置いてあった。
電話は常に緊張を備えており、その緊迫の網が僕の喉に絡まり息苦しさを感じる事もあった。受話器を据えていると自然と視界にタチバナさんも入り込んだ。タチバナさんは本やパソコンをする時のみ眼鏡を付け、清楚な印象は変わらず放っている。文庫本は何かわからないが、その一ページ捲るだけの仕草も文学的な官能さを滲ませ、僕の視界が色を華やかに甦らした気がした。
受話器が空間を射るような鋭い音を発したのは、三十分程経った時だった。若干眠気を目の下に育てていた僕は、それが受話器から流れる音楽だとは気付かず曖昧模糊のままだった。カミタニさんが電話を手に取り、「もしもし」と言った。そこで僕はそれが仕事依頼だと気付き、脳内にかかっていた靄を振り払った。
タチバナさんは文章を映した目を上下に動かす事を恒常させたまま、まるで石像のように固まっていた。動いているのは目玉だけだ。カミタニさんは「はい、はい」と肯き相槌をしながらメモ用紙にボールペンを滑らせていた。慣れた手つきだった。
僕は来たか、と笑みを洩らしそうになるが堪え、カミタニさんが電話を切るのを盲導犬のようにじっとまっていた。僕は怯んだ神経を鎖で縛るように引き締め、緊張を覆った。カミタニさんは「了解しました。それでは」と言って受話器を台に戻して立てた。「すこし早いクリスマスプレゼントが来たよタチバナ」とメモを確認しながらカミタニさんが言った。若干の高揚が表情に滲んでる。
「どんな内容ですか?」と文庫本に栞を挟み、タチバナさんが訊ねた。「〈蝶硝〉の絡みですか?」
「違う。本社からだ。しかも、社長のヤイバさんだ」とカミタニさんが言った。
「マジですか!」とタチバナさんは驚愕の声を洩らした。その驚きの声に僕は驚いた。反動のように体が弾み、え?とタチバナさんの顔を二度見した。
「大マジだよ」とカミタニさんは言い、すぐさま受話器を手に取った。「とりあえず「アミサキ」と「クロカワ」に電話を掛けるよ」と集められた番号を押しながら言った。アミサキ?クロカワ?聞き覚えのない名前に僕は首を傾げた。タチバナさんは「わかりました」と言って文庫本を再び手に取った。
大きい仕事とはなんだろうか。僕はいまいちわからなかった。〈蝶硝〉という組織はこの前カミタニさんに聞いた覚えがあった。確か、この業界の中で最大の権力を持っている組織だ。社長のヤイバ?何だその物騒な名前は。いまいち僕は理解出来なかった。
「あの」僕はタチバナさんの元へ近づき、小さな声で訊ねた。「社長のヤイバだとか、よくわからないんですけれど」
「ああ。まだ私も詳しく聞いていませんが、多分〈蝶硝〉で行われるパーティーの護衛の依頼です。一週間後にあの会社の社長のヤイバさんが誕生日なんですよ。誕生パーティーですよ。金持ちの」とタチバナが言った。「その仕事はとても大きなものなんですよ。だから毎年、業界の事務所では戦争なんです。それが今年は選ばれた、というやつですね。なにせ儲かるんです。だからこっちも自信のある超能力者を出さないとダメなんですよ。ヤイバ社長、なかなか恨みを買う人でしてね…」
「テロとか、ですか?」と僕は訊ねた。
「そうですね」とタチバナさんは言い、人差し指をくるくると回した。「でもたまにヤイバさんを狙うと見せかけてその場にいる他の人が目的だった、というのもありますよ。僅かですが」
なるほど、わからない。僕は曖昧に肯いた。金持ちの世界は僕には共感できない事が多そうに思えた。多分、そうなのだろう。僕はもう一度曖昧に肯いた。しかし僕はこのチャンスを捨てる事は考えてはいなかった。これは賭けなのだ。僕が最強ならば、可能のはずなのだ。
「はい、よろしくね」と言って電話を切ったカミタニさんに僕は詰め寄る。なんだい、と僕を見るカミタニさんの目を見据え、「僕に、やらせてください」と言った。「お願いします」
「悪いけれど」とカミタニさんが凍てつくような冷えを佩びた声を発した。「本気で言っているのかい?トオル君」それは遠回しの嫌味でもなんでもなく、ただ呆れているようだった。
「本気ですよ」と僕は答えた。「僕は自分を信じています。自負しています」
「その自負が結果を招くんじゃないか」
「廃ビルでの言動は反省してます。ですから僕にやらせてください。お願いします」
僕はまじまじとカミタニさんを見据えた。このチャンスを逃がすわけにはいかないのだ。本当は、違うのだ。僕は脳裏で何度も「僕は最強だ僕は最強だ」と唱えた。タチバナさんは「へ?」とした顔をしており、きょとんとしていた。置いてけぼりになっていた。
「この仕事はこの事務所的にも大きい仕事なんだよ。〈蝶硝〉という組織の巨大さをトオル君は知らないから言うんだ」とカミタニさんが言った。
「やらせてください。指示は必ず聞きます」と僕は言い、腰を深く曲げた。すこし黄色を加えたクリーム色の地面が視界に広がる。汚れではなく、本来からそうなのだ。白のような黄色のパン粉に似た色合いだ。
カミタニさんの足元だけが見えた。紺色の深く暗い色をしたジーンズに黒い革靴だ。カミタニさんはいつもダウンジャケットにジーンズなのだ。僕は顔を上げず、ただただカスタードクリームを塗りたくったような地面を睨んでいた。
事務所の中はしんと静まり、空気が重力を増した。カミタニさんは深く考慮するかのように鎮静し、僕に緊張を伴わせた。胃が壁に囲まれたように窮屈になり、僕に余地を与える暇など毛頭となかった。
「わかった」とカミタニさんは渋々承諾し、肯いた。「これが最後のチャンスだからね」とカミタニさんが言葉を続け、言った。
「ありがとうございます」僕はその瞬間に、体の底で眠っていた莫大な高揚が覚醒した。
人間というのは押しに弱いものだ。僕はそれを理解していた。簡単な事なのだ。僕は肌を覆う緊張をべりべりと剥すように解いた。脱皮のようだ。足元が浮き上がるような身を軽くする安堵が、僕を導いた。昂る高揚を脳裏に隠し、僕は「頑張ります」と軽々しい嘘を吐いた。頑張らなくても、僕は最強なのだ。
いかんせん。僕は自分が一番最強だと自負しているのだ。森の中で彷徨っていると、まるで出口に導くように一本の道が続いていた。
窓に目をやると、僕を祝うように白い綿のような雪が深々と降りだしていた。
文章が全然調子出ないよおおおおおお




