十話
タチバナさんは一滴残らずスープも飲み干した。箸を丁寧に重ねて器に置き、ハンカチで口元を叩くようにして拭った。「ごちそうさまでした」と言いながら手を合わせて顎を引いた。僕はその光景を隣で眺めていて、美しいとしか感想が出てこなかった。
タチバナさんは流し台へ空となった器を運び、ピンク色の布巾を持ちながら戻ってきた。タチバナさんは自分の器を置いていた位置の机を半円を重ねていくように拭いた。熱心に尺の短い腕を忙しく動かしながら、机を拭き取るその姿にも無駄なくらいに可憐さが充ちており、僕の頬を撫でた。
僕も食べ終えた容器を流し台にへと持って行き、器を傾けて余ったスープを放出させた。そして僕はパイプ椅子に再び腰を預けた。
「どうぞ」とタチバナさんが僕の前にコーヒーを差し出し、「あっどうも」と僕はありがたく受け取った。タチバナさんも僕の隣に座り、両手でマグカップを支えながら口元へ運んだ。僕は一度塊のような唾液を飲み込む。白色のマグカップの縁をタチバナさんの唇が銜え、一口含んで飲んだ。一秒一秒が画になる女性だ。若干僕は悶えた。
「今日はお疲れ様でした」とタチバナさんが言った。コーヒーが熱かったのか、息を吹きかけている。「初めての仕事内容としては難しいとは思ったんですけれど」
「いや、そんな事は、ないです」と僕は言った。不快な気分が再び襲い、僕はコーヒーに目を落した。肌に湿度を与える湯気が顔面を撫で、僕は鼻元を指で拭う。すぐに水滴が鼻を覆り、顔は湯気から離した。電気の光を反射させ一部白い光を泳がせている琥珀色が、水紋を描いた。
「そうですか?」とタチバナさんは首を傾げた。「この業界は油断したら負けですからね。頑張ってくださいね」
「ありがとうございます」いい迷惑だな、と僕は耳を伏せたくなった。
「トオルさんの自らに対する自信は私は大事だと思いますよ」
「はあ」と僕は肯いた。タチバナさんも知っているのだろう。僕の今回の散々な結果を。
「けれど、その自負がときに自分の首を絞めたり、追い込んだりしたりするんですよ」とタチバナさんは言った。僕のすべてを見透かしているような口調だ。僕は自分の肌の色がぼろぼろと爛れ、詰まっている肉の赤みもすり抜けていくように薄く乾いていく気がした。目玉も髪の毛もすべてが脱色し、吐息を吹きかけ白くなった硝子のようになり、さらに扁平な白の息が解け、完全な無色透明になっていく気がした。クリスタルボーイのように僕は光すらも通り抜けてしまう虚ろな体色に変哲したのだと錯覚に陥ったのだ。
僕は車内でカミタニさんが話していた事が脳裏を過ぎった。「超能力者っていうのは本当に僅かな存在だからね。それが自分の自惚れになって、道を踏み外してしまう人も少なくはないよ」僕が道を踏み外す?僕は思わず苦笑した。僕を自分に酔っている者たちと一緒にはしてほしくないものだ。タチバナさんも、カミタニさんも、あの男も、皆僕を新入りだからと舐めきっているのだ。いずれ、教えなければならないのだ。それは仕方のない事なのだ。
そしてカミタニさんの言葉が止めたはずの蛇口から零れる一滴の水のように、脳に浮んだ。
『いわゆる、優越感だね』
僕は未だに、生え茂る雑草の広場を彷徨っているのだ。足を進めるにつれ、足元は険しくなった。
「よした方がいい」とカミタニさんは普段どおりの冷静さをまとった声で言った。「意味の無い暴力は傷を生むだけだよ」
「意味はあります」と僕は言った。
翌日、僕はカミタニさんを外に連れ出した。それは僕の強さを解らせるためにだ。カミタニさんは黒縁眼鏡の位置を直しながら、余裕な表情をしていた。それは僕の言動に呆れてるようにも窺えた。氷のように輪郭のはっきりとした冷えた視線が、僕と対峙していた。
「意味なんてないよ」とカミタニさんは億劫そうに言い、煙草を一本咥えた。ライターではなくマッチ箱を片方のポケットから取り出し、箱の横面に擦り当てた。火が出現し、煙草の先端を灯した。お化け煙カードのような鋭い軌跡を描いた煙を天へ上昇させた。「トオル君。俺は君を分かっているつもりで接しているよ」とカミタニさんは雲のような煙を口から放った。その煙がカミタニさんの顔を覆い隠し、靄がかかった。
「わかっていないからこうやって教えるんじゃないですか」と僕は決意を表した声で言った。
「何をさ」とカミタニさんは言った。僕に煩わしさすらも感じているだろう。
「僕が、最強だという事をです」と僕は言い、身を構え、息を一度吐いた。身にまとっているウインドブレイカーのチャックを首元まで上げ、目を鷹のように鋭く尖らす。カミタニさんは咥えていた煙草を二本指で掴み、口元から離した。そしてまだ尺が十分に余っている煙草を地に落し、それを踏み躙った。勿体なさそうに原型を留めていない煙草を俯瞰で眺めながら、仕方ないなあという顔つきで僕を捉えた。
僕はスニーカーの爪先を何度か弾ませ、勢い良く駆けた。飄々と風を切る音が耳元を覆い、まだ午前早い時間の冷え込んだ空気が鼻から二手に分かれて肌を撫でた。カミタニさんは首元を囲んでいるマフラーの襟を直している。腹立ちを僕は覚えた。
カミタニさんの近くまで僕は詰め寄り、右足を横に振った。カミタニさんは左手でそれを止め、弾き返すように僕の右足を軽く押した。僕はそのまま身を回転させるように左足を振るが、それも同じように右手で弾き返された。しかしそれだけだ。カミタニさんは手を出そうとはしないのだ。
僕はその余裕さにますます腹が立ち、舌打ちを洩らした。カミタニさんはレンズ越しに僕を見据える。僕は膝を屈して体制を低くした。カミタニさんの顎下に頭部を潜り込ませ、そこで脳内に描いたスイッチを押した。動きで捲れたカミタニさんの服の一部は、そのまま停止し、風で踊っていた髪の毛も一本ずつ針金のように固定された。
僕は右手の拳に棘をまとい、勢いよくカミタニさんの腹に突き出した。内臓を一弾みさせるように強く叩いた拳は重みを佩びている分、伴う痺れも鋭かった。僕は右手の痺れを堪え、すぐさま地を蹴って身を離した。
漂っていた靄が吹き飛ばされたように、時は動き出した。紐をぴんと伸ばしたように意識が再開したカミタニさんは一瞬で訪れる腹部の重みに身がたじろいた。うっ、と鈍い声を一度洩らし、足元を固定して息を吐いた。
「はあ」とカミタニさんが溜息をつく。「こりゃ参った。俺の負けだ。圧倒的だね」淡々と思い浮ぶ言葉をそのまま口元に流しているように、カミタニさんはわざとらしく腹部を摩りながら言った。
「トオル君の勝ちだ。こりゃあ。俺も痛いのは勘弁――」
「ふざけないでください」と僕は怒鳴った。さすがに舐められすぎだと、こめかみが痙攣していた。
カミタニさんは僕の怒号など無視し、新しい煙草を咥えて事務所に戻って行った。僕はその背を据えながら、「くそ、くそ」と何度も呟いた。僕は銀色の霧が漂う深い森の中へ、足を運んでいた。飄々と、彷徨っているのだ。生え茂る雑草は僕の身長よりも高く、空は漆喰の壁のような色合いをしていた。
僕は瞼を閉じた。瞑想がもたらす闇の海へ、高く飛び込んだ。
はい。二桁にはいりました。




