時よ止まれ――お前は美しい。前編
一円を馬鹿にする者は一円で損をする。のと同様に、たかが一秒と笑う者は一秒に損をする。そんな事を、僕は脳裏で述べていた。たった一秒とはいえ、その一秒が事態を大きく変化させる事があるのではないだろうか。そんな事を脳裏で考慮している僕は、哲学者でもなんでもない。
けれども、そんな些細な事を考えるような僕は、自分という存在に余裕を感じているのだと思う。通常の人間は――ましてや哲学者くらいしか――こんなことに興味が湧く人間はいないだろう。
そこなのだ。その「通常考えない事を考える」自分に、優越感を抱き、自分を快楽へと導いている気がした。気がした、ではなく、そうした。
無数に降り注ぐ雨粒が、滞ること無く傘に弾く律動を奏でる。空は憔悴な印象を抱かせる灰色をし、アスファルトの地面の色を、乾いていた黒色を深く甦らしていた。
傘に打ちつける雨音が耳元を覆い、どれが幻聴で本当なのか、区別が出来なかった。
歩道には傘を差した人達が僕と同様に足を赴くように歩いており、傘に身を詰めて、窮屈そうで憂鬱そうな表情を浮かべている。歩道の柵を越えれば道路があり、様々な車が水溜りを派手に飛び散らせながら僕を通り過ぎて行く。冷えた風が頬をすり抜け、僕は舌打を洩らした。落ち着きを戻した水溜りは、水面の鏡を歪ませている。歪みが直るのと同時に、再び車に潰された。まるで人間の精神のようだな、と僕は脳裏で憫笑した。これから拷問を始める拷問者のように。
黒縁の眼鏡をした男が不気味な微笑を浮かべながら、僕の隣を通り抜けた瞬間だった。紺色のスーツに身を包み、黒縁眼鏡を人差し指と親指で支えながら位置を調整しているその男に僕は、他人とは異なる奇異な印象を抱いた。
男が僕の横を通り過ぎる。男の差していたスーツと同じ紺色の傘が僕の透明な傘と一部が重なり、垂れ流していた雨が飛び散る。飛び散った雨の粒が眼鏡のレンズにつく。男が鼻筋を撫でるように、黒縁眼鏡の位置を固定した。
男の背に釣られるように僕は、首を振り返った。違和感を覚えたのだ。遠く離れて行く男の背を見つめ、何かが「違う」白色不透明の違和感に謎を抱く。何かは分からない。だが、何かがおかしい。
雨は止む気配すら窺わせず、収まりきれていない僕の肩と袖を濡らす。湿気が髪や肌に絡まり、むず痒い。まるで空間そのものが変哲したかのような違和感が、さらに肌を絡めた。
何台もの車が、颯爽と僕を通り過ぎて行く。その道路を挟んで、向こう側にも歩道がある。
そして僕は思わず二度見をした。怪奇な恐怖感すら心臓を包んだ。向こう側にある歩道に、傘を差した男女二人組が視界に映る。
一人は背が低く、ノートパソコンが入ったケースを脇に挟んで持っている女性だった。焦げた茶色のような色をした髪を後ろで束ねており、清楚で凛々しい雰囲気を漂わしている。秘書のような官能的な印象を抱いた。
もう一人は全身が黒で覆われた様ような男だった。黒く暖をそのまま身に纏っているようなタートルネックに、黒一色のジーンズを履いている。唯一黒くないといえば、召しているスニーカーだった。有名なスポーツメーカーのロゴが堂々と刻まれた白と黒の単純な色合いをしている。傘から僅かに覗ける髪も、深い闇に潜ったような濃い暗黒を佩びている。
僕は、言い表せない奇妙な感覚に酔いながら、辺りを見渡す。雨は降り止む事はない。頭上に広がる深い灰色をした雲を眺める。
もしこの降り注ぐ雨がすべて一瞬にして停止したら、なんて悠長な事を脳裏で呟いた。そんな下らないことに興味を抱く僕は、そんな自分に余裕を感じているのだと思う。そんな僕は、哲学者でも何でもないのだけれども。
身にまとう違和感は、まだ解けることはない。 続
新作でございます。現段階での自分のエンターテイメント性を強く出して行きたいと思います。しばらくはこちら一筋で行きますので、どうぞよろしくおねがいします。 感想まってます。