八
社員待遇を受けられるようになって八カ月。質素な生活を送る鍛冶の蓄えは順調に数字を伸ばしていた。
潤沢とは言えないが、これでまた半年ぐらいはフルタイムで美穂子探しが出来る。辞職する時に社用車か代車を安く譲ってもらえないだろうか。交通の便が悪い隣県にも足を伸ばしてみたいと思っていた鍛冶にとって自家用車は是非とも入手したいものだった。この会社に籍を置いていた期間、鍛冶は多くのことを学んだ。そしてやはり自分の居られる会社ではないなといった再確認を繰り返す毎日だった。
予想した通り、山口の整備技術はお粗末なものだった。故障の原因をしっかりと究明もせず、すぐに専門店に電話を掛けて助言を仰ぎ、それを頼りに部品をとっかえひっかえしながら故障の完治を祈る。そういった博打のような手法は効率が悪く、それが彼の整備士としての成長の妨げになっていることにも気づいていない様子だった。
分解整備の記録簿は書かない。書かないのだから、運輸局から義務づけられた保管もしない。顧客データも事務員が大学ノートに手書きしたものだけでカルテすら作られていない。これでよく自動車整備工場として機能するものだと感心――いや、呆れかえっていた。
何度となく業務形態の見直しを提案したが「これが、ここのやり方だ」と、山口は改善を拒否した。山口の生産性の低い仕事ぶりに見かねて引き取った仕事もあった。それに対して礼の一つも口にするでもなく、顧客には「苦労しましたが、なんとか直しました」と自身の手柄を主張していた。
そして鍛冶が目を疑ったのは、専務の葛西以下、アルバイトの菅沼までもが熱中していた競馬だ。業務中でも平気で出入りのノミヤから馬券を買い(実際は電話で数字を告げるだけであったが)、中継のある日には仕事そっちのけでテレビにかじりついてたのだ。テレビを観ないのなら場外馬券を買ってこい、との命令には断固として拒絶した。それが原因で険悪にもなりかけたが、雇用される側の義務を果たさない行為は、鍛冶の価値観において到底受け入れられないものだった。
仕事に情熱を燃やすことのない輩の興味は当然の如くそれ以外に向いた。菅沼と山口は、事務員の高松に対して恋の鞘当てを演じていた。「旦那が構ってくれない」と公言する彼女も彼女だったが、妻に食わせてもらっていた菅沼の倫理観の喪失は醜く、そして能力のなさを棚に上げて待遇の文句ばかり口にしていた山口が、高松に言い寄る時にだけ浮かべる卑屈な笑みを、鍛冶は哀れにすら感じたていた。
営業主任たる横井の仕事ぶりは、メカニックの現場からは分からなかったが〝溶かす〟という言葉をよく耳にした。出入りのブローカーと組んで下取り車の横流しをする行為を指す言葉らしい。そんなスタッフによって構成される会社の業績が芳しいものである訳がない。致命的だったのは、新藤の組の或る構成員だった。不特定多数の来客があってこそ成立する商売である。全身を色とりどりに染め上げた連中が闊歩する店になど、堅気の客が足を運ぼうとしないのが道理だ。永くいるつもりはないが、永くはもたない会社でもあるのかも知れない。私の心配することではないか、鍛冶は浮かんだ懸念を頭の片隅に追いやった。
意外なことに会長の運転手兼ボディガ-ドを務める岸田には何故だか可愛がられた。誘われるまま、幾度か小さな定食屋で食事を共にしたこともある。『華やかな席は苦手だし金もないから高級クラブには誘ってやれない。悪いな』と話す岸田の言葉から、彼が自分同様、寡黙で虚飾と縁のない人間だということを鍛冶は感じ取っていた。本家のある関西から修業に来ておりいずれは戻るのだと語った岸田と、この会社に腰を落ち着かせるつもりのない自分の境遇が似ていたことも共感を呼んだ。
「困ったことがあったら何でも言ってこいよ。貧乏だから金は貸してやれんがな」
そう言って笑う岸田の顔は幼い頃からヤクザになるべくして生まれてきた人間ではないことを物語っていた。
「私は臆病な人間ですから岸田さんの世話にになるような目には合いません」
「臆病だと? 俺や会長の素状を知った上で、媚びも怯えも表さないお前がか? そうヤクザを嫌うな。若いお前にはまだ分からんだろうが、法律でも警察でもなんともならんことが我々が出張って片付くこともあるんだ。覚えておけ」
「はい」
岸田が何を感じ取ったのはわからないが敢えて追求しようとも思わず頷くだけにとどめる。間違ってもそちらの世界にスカウトされる訳には行かなかった。
或る日のことだった。鍛冶がミーティングのために事務所に顔を出すと、険しい顔で額を寄せて話す新藤と社長、そして横井の姿があった。
「珍しいですね、会長がこんな朝早くいらしているなんて。何かあったんですか?」
先代の頃から社に籍を置き、新藤や社長の覚えもよい事務員の福田に抑えた声で訊ねた。
「葛西専務が、会社のお金を横領して逃げたんだそうよ。ニ千万円ですって」
いつかはこんな日が来るのではないかと感じていた鍛冶は驚きこそしなかったが、心の中で舌打ちをした。今月はタダ働きになるかも知れない――
「葛西のマンションには母親と女房が残っている。戻ってくるつもりかも知れん。うちの若いのと二人一組になって昼夜交代でマンションを見張れ」
全従業員と、決まったシノギを持たない構成員が数名、臨時の作戦会議室となったショールームに雁首を揃えていた。新藤から業務とは何の関係もない指示が出される。ブラインドは下ろされ、工場のシャッターも開けられないまま。菅沼と山口は落ち着きなく視線を泳がせている。彼等にアバンチュールを夢見させた高松は、大火傷を負いそうな予感を察知したのか、早々と社を辞めていた。
「私達もですか?」
蚊の鳴くような声で抗議の声を上げたのは菅沼だった。彼に借金取りまがいの張り込みなど経験のあるはずはない。そもそも世の中の仕組みそのものに疎い男だったからこそ、未だに国立大学進学の夢を追い求めることが出来ていたのだ。
「隣近所に物を訪ねるのに、うちの若い連中では怯えて話も聞けないだろう! だからお前らにも張りつかせるんだ」
怒声が返ってくることは予測していなかったのだろう。ひっと首をすくめる菅沼を、世間知らずも大抵にしろ、といった目で山口が睨みつける。
「夜は家に居りませんと――妻が仕事に出るもので」
「だったら、お前は昼番だ。お前らにも会社の利益を食い潰した自覚はあるはずだ。たった二千万だぞ、それでこんな騒ぎにしなければならんのは、会社の体力がなかったからだ。お前らの責任でもある。どうする? お前が葛西の代わりに湾に沈むか」
声を荒げることもなく静かに、いや、静かだからこそ現実味を持って脆弱な菅沼の肝を捩じり上げる。新藤組が地元の港湾事業を一手に担っていることは菅沼も知っていた。「いえ」と消え入りそうな声で答えたきり菅沼は青い顔をして黙り込む。
「山口、お前が夜だ。小田と組め。横井は岸田と明け方だ」
「へい」
その頃には構成員達の役割に多少なりとも理解を深めていた鍛冶だった。いわゆる特攻隊と呼ばれる物騒な連中のなかでも特に凶暴な面相の小田が低い声で答える。山口はうなだれたままの首を縦に振るだけだった。
「鍛冶」
「はい」
仕方ない。専務が見つかるまでお礼奉公だと思って耐えよう。私は誰と組むのだろう。張り番の岸田の代わりに運転手をさせられるのだけは勘弁してもらいたいものだ。鍛冶は半ば諦めの境地になっていた。
「お前は、いい」
その場の全員の視線が鍛冶に集まった。
「は?」
「お前の事情は足立から聞いている。あいつとは幼馴染でな。もうここは終わりだ。本来の務めに戻れ、俺としてはお前が世界を獲るところが見たかったのだがな。これを見て思い出したよ」
新藤は数ヵ月前の日付のスポーツ誌を取り出して広げた。
――消えた閃光 世界を期待された鍛冶千光選手が消息を絶って一年――
「あのタイトルマッチの興業を請け負ったのは、うちの傘下の会社だ。俺もリングサイドで観ていたんだ。ここでお前の顔を見てすぐに気づけなかったのは迂闊だった」
「――私は整備士として生きて行くつもりでした」
「うむ、お前がボクシングに何の未練もないのは、仕事ぶりを見ていて良く分かった。人は何かを手にするためには何かを失わねばならない。言い古された言葉だが、お前は全て投げ打ってでも探し出したい人が居るという。大した決意だな、それも足立から聞いた。あいつも後悔している、許してやってくれないか」
「足立会長には、どれだけ言葉を重ねても足りないほどの恩があります。それを土足で踏みにじるような真似をして去った私です。許すも許さないもありません。もしお逢いになることがあれば、そうお伝え下さい」
新堂はこの日初めての笑顔を見せた。だが、すぐに険しい顔に戻る。
「横井」
「はっ」
「鍛冶が使っていたライトバン、あれは餞別にくれてやれ」
鍛冶は驚いたように進藤を見つめていた。
「よろしいのですか? 店を閉めるとなれば書類上の手続きが面倒になりますが」
「だったらすぐにやれ。一週間もあれば間に合うだろう」
再び鍛冶に向き直った進藤の顔は、先ほどまでの険しい表情が嘘であるかのように穏やかだった。
「もう行け、お前はよく会社に尽くしてくれた。こいつ等とは違ってな」
揶揄された従業員達が渋面を作る。見ている人はやはり見ていてくれる、周囲に流されなかったのは美穂子を探すという大きな目標があったからだ。鍛冶はどこに居るかも知れぬ彼女に感謝していた。
「ありがとうございます」
二つに体を折って礼を述べる。語られる場所によっては悪の権化のように評される新藤の意外な配慮に、胸にこみあげてくるものを感じていた。
「達者でな」
礼を戻すと、声を発せず口だけをそう動かす岸田が目に入った。もう一度頭を下げ、鍛冶はロッカールームへ向った。