七
「今日から働いてもらうことになった鍛冶千光君、二十三歳だ。若いが二級整備士の資格を持っている。三十八歳の山口君にも早く二級を取ってもらわんとな」
ツナギを着た小柄な男が、葛西の皮肉に渋い顔になった。
「こちらが営業主任の横井君、事務員の福田さんと高松さん、整備担当の山口君、そしてアルバイトの菅沼君だ。社長はたまにしかここには来られないからね。いらした時にでも紹介しよう。当座は山口君の指示で動いてくれ。仲良くやってくれたまえ」
葛西は手早く従業員を紹介して行く。初対面の挨拶にあまり重きを置いてないかのようだった。
「鍛冶です。どうぞ宜しくお願いします」
それぞれが簡単な自己紹介を添えて、顔合わせを終えた。隣の喫茶店から出前されたコーヒーを飲む事が、朝のミーティングにおけるルーティンとなっているらしい。そしてその喫茶店は、社長が経営する店ではないという。売上に協力しなくてもよいのだろうか。鍛冶は素朴な疑問を隣に座る菅沼にぶつけてみた。同年輩か鍛冶より少し上ぐらい――ツナギは着ているが、メカニックではなく商品車を洗ったり磨いたりするのが菅沼の担当だと聞かされていた。
「あそこは遠いからね。それにどうせなら若い女の子が運んでくれたコーヒーの方がいいだろう。あっちはウエイトレスも高齢化が進んでいましたよね、横井さん」
菅沼は営業主任に水を向けた。値踏みするような視線を鍛冶に向けていた横井が、そうだなと短く同意を示した。
私なら味を選ぶが。その感想は口にせず、黙って菅沼が続けるのを待つ。これも半年間の美穂子探しで身に着けたものだった。こちらが黙っていれば、話し好きな連中は放っておいてもぺらぺらと喋ってくれるものだ。手掛かりになる情報は得られなかったが、人間関係の機微、それぞれの思惑が読みとれるようになっていた。
「今でこそアルバイトの身だが、私は国立大学を狙っているんだ。今は妻の方が稼ぎはあるがそれも私が卒業して大きな会社に入るか、国家公務員になるまでのこと、そうなればすぐに逆転するよ」
入れてもいない大学や、数年後の自分の未来を明るいものだと言い切る菅沼の言葉からは、妻に食わせてもらっている後ろめたさが感じられた。二十四歳か――どれだけ受験に失敗し続けているのだろう。学業に向いていないのではないだろうか、それを指摘しない妻はどれだけ人間が出来ているのだろう。鍛冶は菅沼に関する情報を素早く頭に刻み込む。
「私の方が一つ年齢が上だから鍛冶君と呼んでいいよな。今は同じアルバイトなんだし」
「ええ、構いません」
年齢や境遇で力関係を決めたがる姿勢も、見栄や虚飾に拘る人間であることを裏付けている。おそらく菅沼と親しくなることはないだろう。鍛冶はそう考えていた。
ロッカールームでツナギに着替え、山口の指示を仰ぐ。三十八歳独身だと聞いていたが、その年齢よりかなり老けてみえる山口だった。
「二級か――俺も学科は受かっているんだ」
実技試験が通って初めて資格は授与される。しかもニ年の猶予しかなかったはずだ。山口がいつ学科試験を受けたのかはわからないが、彼の口ぶりからそれもとおに失効しているのだろうと判断した。人はどうしてこうも自分を価値ある人間だと思わせようとするのだろう。どれだけ背伸びしようと、人が手に出来るのは身の丈に見合ったものだけではないのだろうか。そう考える鍛冶にとって山口の言葉は不可解でしかなかった。
「車検は出来るよな? 持ち込みの経験はあるのかい」
「ええ、いわゆるマルチュウ新規で何度か。テスターをかけるところは決まっているのですか?」
「高村んとこで、やってる」
陸運局の西隣だな。頭の中で、高村テスター場とスレート壁に書かれた建物の場所を思い描く。
「じゃあ、うちのやり方に慣れるまで外回りを頼もうか」
慣れるまでか――試用期間が済んで専務の言った通りの報酬がもらえるなら、永く居て一年だな。しかし、それは言わずにおこう。いくら真面目に働こうと、短い雇用期間の人間に対する扱いは、足立の会社で目にしている鍛冶だった。
「それと――まあいい、見てのお楽しみだ。君も驚くぞ」
言いかけた言葉を途中で止め、山口がにやにやと笑う。それが何を意味するのか、想像して期待や不安を抱くことも無意味だな。鍛冶は曖昧に頷くにとどめる。
黒塗りの高級セダンが会社の正面に乗りつけられると、運転席を降りた短く髪を刈り込んだ男が後ろのドアを開ける。ダブルのダークスーツに身を包んだ恰幅のよい初老の男性が降り立った。
客か? スタッフの誰も気付かないのか、いらっしゃいませの一言を誰も発しようとしない。会社の関係者なのだろうか? 車の方にちらっと目をやった山口が「早速だな」と呟く。初老の男性はショールームのドアをくぐり、運転手は再び乗り込んだ車の向きを変えて駐車し直す。そして鍛冶の居るサービス工場に入ってきた。
「景気はどうだい?」
「やあ、岸田さん。ボチボチですよ、ボチボチ」
山口の言葉から二人が顔見知りであることはわかる。かける言葉の気やすさとは裏腹に岸田と呼ばれた男の目つきは鋭い。
「紹介します。今日から来てもらうことになった新人メカニックの鍛冶君。岸田さんは会長の運転手兼ボディガード。で、いいんですよね?」
「まあな」
山口に紹介された男が気軽な調子で手を上げた。鍛冶は会釈を返しながら考えを巡らせる。会長? ボこの小さな会社にそんな役職があったのか。ショールームに入っていった男なのだろうか? ボディガードという言葉は何を意味するのだろう。そしてこの男の目つきの鋭さが気になっていた。そうこうしているうちに、高松と自己紹介した女性事務員が鍛冶を呼びに来た。
「鍛冶さん、専務がお呼びよ」
「おう、仕事の手を止めて悪いな。会長が先にいらしたから、紹介しておく。新藤会長だ」
接客用ソファにどしりと腰を下ろした男の正面に立って一礼をする。
「鍛冶です。宜しくお願いします」
顔を上げ、会長と呼ばれた男と目が合った瞬間、射すくめられるような視線の鋭さを感じた。鷹揚に笑ってはいるが、それが作られた表情であることが伺える。興業屋との折衝をする足立に同席した際、こんな目をした男達が周囲に居たのを思い出す。ヤクザか――
「そうか、宜しく頼む。鍛冶? どこかで見た顔だな」
「はい、よく言われます。しかし、私は会長を存じ上げません。ですからきっと私はどこにでも居るような顔なのでしょう」
新藤を間近で見た鍛冶にもそんな感覚はあったが、私設応援団を立ち上げてくれたボクシング部OBの大山康之に良く似た風貌と体格が、そんな錯覚を起こしたのではないかと判断した。何より以前の自分を知られることが面倒に思われていた。
「そうか、仕事の邪魔をして悪かったな、戻ってくれ」
「はい、失礼します」
工場に戻った鍛冶に、山口がにやにやしながら話しかけてきた。菅沼は岸田と共に黒塗りのセダンに毛ばたきをかけていた。
「驚いたろう」
「はっ? 何がでしょう」
「会長だよ、有名人だぞ。よく週刊誌にも写真が載っている」
「あまり、雑誌は読まないもので」
山口が大袈裟に両手を上げて、呆れる仕草をする。
「新藤太、坂口組傘下ではこの地方でナンバーワンの新藤組の組長じゃないか。知らないのか?」
それで運転手兼ボディガードがつく訳か――岸田の目つきにも新藤の視線の鋭さにも得心がいった鍛冶だった。
「会長が、ばばあ……社長のスポンサー兼後見人って訳だ。外車の商売には必要なんだよ、こうゆう後ろ盾が」
なるほど、そういう図式か。〝ばばあ〟と山口が呼ぶ社長とはまだ面識がなかったが、報酬をもらって働く一従業員が、それを出す側の人間をそう呼ぶことに鍛冶は不快感を感じた。やはり永く居るべき会社ではないな、鍛冶はそう考えていた。
「驚きました」
押しつけがましい解説に、儀礼的に返す。
「なんだ、ちっとも驚いた顔をしていないな」
もともと、雄弁とはいえず感情表現も豊かではなかったが、美穂子の捜索において、正確な情報の収集には感情を面に出さないようにすることが大切だと学んでもいた。そしてヤクザの世界に関心も持たない鍛冶にとって、山口の講釈は特に驚くようなことでもなかった。