六
世話になった旨を書いた短い手紙と、形式通りの辞表をポストに投函した時、鍛冶は背負っていた重い荷物を下ろした様な感覚があった。少しだが蓄えはある。この腕ではすぐに職探しという訳にも行くまい。美穂子を探そう。ボクシングには何の未練もない。一つずつ割ってガラス瓶と燃えるゴミとに分別したボトルシップが決意の表れであった。
少ない家財道具は、弟が欲しいと言ったものだけを送り、残りは粗大ごみの業者に処分を任せて部屋を引き払った。美穂子と一年半暮らしたアパートを通りから見上げる。鍛冶の脳裏に数々の思い出が蘇っていた。
見つけ出すと言っても、探偵でもない鍛冶にそんな経験はなく、その方法も分からない。高校までを郷里で過ごした美穂子が頼りそうな友人もこの街には居ないと聞かされていた。心当たりは全て回っていた。実家に電話を入れてみよう。公衆電話を見つけると、美穂子が忘れていった手帳を開き〝群馬実家〟と書かれた番号をコールした。
数回の呼出音の後、若くない声の女性が応答した。見舞いに来た時、挨拶を交わした彼女の母親だと鍛冶は判断する。
「鍛冶と申します。美穂子さんはそちらに居られますか」
「鍛冶さん? ああ、会社の人かい。美穂子はそちらに居るんじゃないん? こっちにはきねぇんだぃね」
耳慣れない方言を全て解釈はできなかったが、それでも美穂子が実家に戻ってないことだけはわかった。
「ええ、まだ怪我も完全に治っていないのに出て行かれまして。もしお帰りになったら――」
そこまで話して、鍛冶自身の連絡場所が決まっていないことに気付いた。今度は自分の手帳をめくって弟の電話番号を告げる。
「バカげだいなぁ、無茶ばぁいしとると体ぼっこすげに」
「はい、私もそれを心配しております。どうか必ず連絡をいただけますように」
電話を切るとすぐに弟を呼びだして、連絡先として伝えたことを知らせた。
「わかった、そんで兄ちゃんはどこに行くんだ? 心当たりはあるんか?」
「ああ、まだ数箇所残っている。ポケットベルを買うよ。美穂子から連絡があったらすぐに知らせてくれ」
既に心当たりといえるものはなくなっていたのだが、それ口にすることが美穂子を完全に見失ってしまうように思え、ついそう言ってしまった。
足立の会社には不義理をした手前、顔も出せず、美穂子と仲の良かった女子社員に数回電話をしてみたが彼女にも連絡には入っていないようだった。新たに聞けた話と言えば、橋本が辞職ではなく実質的に解雇といった形で辞めさせられたこと。あの事故が多くの人の人生を狂わせたのだと知り、やるせない気持ちになった。
実家を訪ね、教えられた学生時代の同級生宅も回ってみた。しかし何の手掛かりも得られないまま半年が過ぎて行った。元々少なかった蓄えも心細くなってきていた。
腕も完治したことだし、仕事を探そう。そしてまた金が貯まったらフルタイムで美穂子探しを始めよう。諦めてなどいなかった。鍛冶にとって、たった一人の心を許せる女性であった美穂子を諦めることは、人生を投げ出すにも等しい行為だと考えていた。ボクシングを続けていれば、少なくともこちらの近況は伝わったのではなかったろうか。そんな後悔も何度となく頭を過ぎった。
『自動車整備士急募、待遇は応談 ㈱名神自動車』
腕に覚えのあるものと言えば、ボクシングと車の整備ぐらいしかなかった鍛冶は、貼紙のあった中古外車ディーラーの門を叩いていた。
「専務、応募の方が来てます」
応対に出た中年の女性事務員が奥の事務所に声をかけると、背の高い神経質そうな男がぬっと現れる。四十代も後半ぐらいに見える広い額をした痩身の男は、黒々とした髪をオールバックに撫で付け黒縁眼鏡をかけていた。
「整備士さん? そこへかけて」
鍛冶は進められるままにソファに腰を下ろす。
「私は専務の葛西です。ええと、履歴書はお持ちかな」
就職活動の経験のない鍛冶にとって、履歴書という単語は耳にしたことはあったが、それが必ず必要なものだとの認識はなかった。上着のポケットから折りたたんだ住民登録票を出して言った。
「いえ、私はこの近くに住んで居るのですが買い物に出た時に、あの貼紙が目にとまったもので――お話だけでも伺えないかと。今はこれしか持っておりません。履歴書が必要でしたら改めて出直します」
受け取った住民票を眼鏡をずらして葛西が眺める。
「鍛冶千光君、二十三歳か、若いねえ。まあ、形式だけなんだけどね。実務経験はあるのかな」
「民間車検の工場で四年間勤めておりました。二級整備士の資格はガソリン、ディーゼルともに持っております」
「ほう、それは頼もしい。いや、うちに居た整備士が急に辞めてしまってね。残ったのが三級資格しか持ってないんだ。監査に入られて認証を取り消されても困る。整備士手帳を持ってきてもらえばそれでいい。明日からでも来られるかい?」
やけにあっさりと採用を決めてしまうものだ。以前の勤務先より規模は小さいが、就職の面接というのはこんなに簡単なものなのだろうか。鍛冶は戸惑いを問い掛けに代えた。
「はい、私は構いません。大変失礼な質問なのですが、専務さんの裁量だけで決められてよろしいのですか」
専務が居るのなら社長が居て当然だろう。鍛冶の質問は当然のことだった。
「うちの社長は亡くなった先代の奥さんでね、喫茶店が本業なんだ。ここは私が取り仕切っている、心配は要らないよ。二ヵ月はアルバイト扱いだが、交通費は支給する。おっと、近くに住んでるなら交通費は要らないか」
「はい、走って五分の距離です」
「ははは、何も走る必要はないさ。必要なら社用車も貸す」
仕事を持てば美穂子探しに充てられるのは休暇だけになるだろう。しかし車が借りられるなら不便な公共交通機関に頼らずに済む。今までより効率の良い捜査が出来るかも知れない、鍛冶にとって願ってもない申し出だった。
捜査か――私は刑事か探偵にでもなったつもりか。彼等なら既に美穂子を見つけ出しているのだろうか。しかし、その探偵まがいの半年が、鍛冶に優れた洞察力を身につけさせていた。
ここのように小さな中古車ディーラーな、私の顔を知った誰かと逢うこともないだろう。贅沢とは縁のない暮らしの鍛冶にとって、マイカーとは言えないが自分専用の車を持つのは生まれて初めてのことだった。ここに決めよう、一~ニ年働けば、美穂子探しの資金が出来るはずだ。
「始業時間は9時だから15分前には出社していて欲しい。他の従業員には明日紹介しよう。じゃあ、そうゆうことで」
頷く鍛冶を残し、葛西は席を立って行った。