五
「リハビリの成否を分けるのは、御本人の治ろうとする意思の力に拠るところ大きいのです。高木さんは、積極的に取り組んではおられないように思えます。事情は聞いております。女性にとって妊娠の望みが断たれたということは確かに重い事実です。しかし、このままでは無駄に時間を費やすのみとなり、結果的に高木さんにとっても好ましいことではありません。一度、心療内科にかかれては如何でしょう」 リハビリルームから出ようとすると鍛冶は美穂子を担当する理学療法士に呼びとめられていた。鍛冶自身、美穂子のそんな様子には気付いてなかった訳ではない。アパートの生活に戻ってからも、塞ぎ込むことの多い美穂子だった。時が心身ともに癒してくれるだろうと楽観していた部分もあったが、掛けるべき言葉を探し出せなくもあった。退院時に言われた通り、子供がいなくても幸せな家庭は築ける。何度も美穂子にそう言おうとしたが、それが封じ込めたい記憶を再び呼び起こしてしまうのではないかという躊躇いがあった。
見え透いた気休めでも、他愛のない冗談でもいい。自分にもう少し多くの言葉があれば美穂子の苦しみを和らげてあげられるのではないだろうか。鍛冶はこの時ほど自分の寡黙さを呪ったことはなかった。
普段観ないようなコメディ映画のビデオを借りてみたり、鍛冶が得意でない華やかな場所へも誘ってみた。一時的には笑顔を見せてもくれるのだが、幼稚園や学校のある通りを歩く時、痛みのあるはずの美穂子が一層足早になることが、刻み込まれた哀しみの深さを物語っていた。
鍛冶の気遣いが美穂子に伝わらないはずはない。理解すればする程に懊悩も極まって行く。理性で気丈に振舞おうとしても、受容し難い現実がそれを圧倒する。美穂子は出口の見えない迷路を彷徨うような感覚に苦しんでいた。
「一度、会社に顔を出しておこうか」
気分転換にでもなればと切り出した鍛冶に、肯定とも否定ともとれる曖昧な笑みを美穂子が返す。どこに誘ってもこんな具合だった。半ば強制的に美穂子を連れ出し、彼女のリハビリを兼ねて二十分程度の道のりを歩く。歩行補助具がなくても歩けるようになっていた彼女だったが、何かの拠り所にしていたかのように外出時には必ずアルミ製のそれを手にした。
「御心配をおかけしました。二人共火曜日に退院出来ました。まだ思うように動かせない体でして、もう暫くご迷惑をおかけすることになると思いますが、先ずは経過報告に伺いました」
応接室へと進められるのを固持して、足立のデスクの前に並んで立つ。美穂子のデスクだった場所に見覚えのない女子社員が座っていた。当座の代わりを務めているのだろうか? 完治した美穂子に戻る場所はあるのだろうか。この上、仕事まで奪われたらどうやって彼女を慰めてやればいいのだろう。鍛冶は落ち着かない気持になった。
「腕はどうだ?」
「伸屈も可動域も70パーセントと言ったところでしょうか。日常生活には支障のないところまで回復しております。ロードワークだけでもと思ったのですが、腕を振って痛みがあるうちは止めておくように先生に言われまして。美穂子も完治間近です。休んだ分を取り返そうと二人で頑張ってリハビリに励んでおります」
先ほど抱いた思いが、美穂子の復職を意識した言い方にさせる。
「そうか、まあ焦らず頑張ろう。なあに、お前のボクシングセンスまでは錆びやせんよ」
同僚に迷惑を詫びたいと言った美穂子を事務所に残し、鍛冶は工場へと向かった。
「おう、元気だったか。酷い目にあったな」
「物静かでも、仕事は人一倍こなしてくれてたんだな。お前がいなくなってしか気づけないようじゃあ、工場長失格だ」
メカニック達が口ぐちにかけてくる言葉に頷き、欠勤によって彼等にかけた負担を詫びる。鍛冶は場内を見回すが目的の人物は見当たらなかった。
「橋本さんは、お休みなのですか? 毎日のように見舞いにきていただいたお礼と退院の報告をしたかったのですが」
たちまちメカニック達の表情が曇る。顔を見合わせるばかりのメカニック達を見回し、工場長の松岡が口を開いた。
「橋本は辞めたよ」
「え? どうしてですか」
「あの事故の責任を取ったんじゃないかな。何度社長や事務長に言われても直らなかったせっかちが事故を引き起こした訳だから――あの時も合図をかけてなかったんだろう?」
「しかし……」
見舞いにくる毎に『申し訳ない、すまなかった』と大きな体を精一杯ちぢこまらせて詫びる橋本だった。勿論恨みもした。美穂子との将来設計を大幅に見直さねばならなくなった原因を彼が作ったことは同僚達の言葉を借りるまでもない。ただ鍛冶はこうも考えた。確かに橋本の行為が事故を招いたことに間違いはないが、せっかちにも見える彼の行動は作業の効率を第一に考え、引いては同僚メカニック達の残業を少しでも減らそうとする配慮に基づいていてのことだったのだ。二人とも命に別条はなかった、橋本さんも忘れて下さい。腕の痛みが治まるにつれ、美穂子の回復が進むにつれ、恐縮しきりの橋本にそう声を掛けることが多くなっていた鍛冶だった。
誰も橋本を庇おうとしなかったのだろうか、慰安旅行に同伴した、橋本の妻と二人の子供の顔を思い出し、鍛冶はやりきれない気分になっていた。
「美穂子は?」
事務所に残ったはずの美穂子の姿がない。入院中もアパートへ戻ってからも何度も見舞いに来てくれた美穂子が一番懇意にしていた女子社員に訊ねた。
「痛みが出たから先に帰るって伝えて欲しいって、鍛冶さん、ちょっと――」
まだ、ひとり歩くのは不安だと言っていたはずだが……怪訝そうな顔をした鍛冶に女子社員が小声で囁く。給湯室を目で示す彼女に鍛冶は続いた。
「高木君を受け止めさえしなければ今頃は世界タイトルの調印式だったはずなのに、美穂子がまだ事務所に居たのに気づかなかった社長が、そう言ったの。美穂子にそれが聞こえちゃったのね。ごめんなさい、私のせいですって言って飛び出していったの」
「何てことを――」
鍛冶は唇を噛みしめた。
「それも置いたままよ、まだ五分ぐらいしか経っていないわ。早く行って、見つけてあげて」
礼を告げる間も惜しんで鍛冶は事務所を走り出る。強く振り上げると痛みが走る左肘だったが構わず速度を上げた。ものの数十メートルも走ったところで、公園の赤茶けた遊具にもたれかかった美穂子を見つけた。
「――探したよ」
聞き覚えのある足音と声に顔を上げた美穂子の頬は涙に濡れていた。鍛冶の胸に倒れ込むように縋りつくと声を上げて泣き出す。
「ごめんね、ごめんね、あたしのせいで」
「君のせいじゃない」
翌日、風邪気味だから今日は休むと言った美穂子に、強くリハビリ行きを進めることはしなかった。足立とて悪意があった訳でないだろう。私がもう少し俊敏だったら、いや、元よりボクシングなどしていなければ……見えない出口を求め、鍛冶の思考は堂々巡りを重ねていた。
「ただいま」
美穂子の返事はない。買い物にでも行ったのかな? 土間でスニーカーを脱ぎながら部屋の中央に視線を送る。冬は炬燵机として、それ以外の季節は卓袱台代わりにしていたテーブルの上に封筒と銀色の鍵が置かれていた。
カズ君へ
黙って出て行く私を許して下さいとは言いません。私は、あなたの――いいえ足立社長にとっても日 本のボクシングファンにとっても大切な腕を傷つけてしまったのですから。
そして、かけがえのない命を奪い、二人の未来までをも閉ざしてしまったのです。とても、あなたに相 応しい女だとは思えません。
この気持は以前から感じていたものです。控え目なあなたは苦手みたいだったけど、スポットライトを浴びるあなたを見るのはとても誇らしかった。そしてそんなカズ君を見る度に、こんな平凡な私と日本中が注目するあなたとが釣り合うのかしら、と不安にもなった。でも二人きりで居る時のあなたは、いつも優しい言葉と態度で、そんな不安を忘れさせてくれました。私もそれに応えようと精一杯の応援をして、いつの日か、あなたが負けることがあっても、私だけはずっとあなたの応援団で居よう。それなら誰にも負けないで居られると思うようにしていました。
でも、もうだめ。自信が持てなくなってしまったの。十六歳でご両親を亡くしたカズ君ですもの、つつましくも温かい家庭を望んでいたのでしょうね。 私はそれを実現させる力を失ってしまいました。とても悔しいし、哀しいです。
社長の言葉に傷つかなかったと言えば嘘になりますが、あれだけ期待し、楽しみにしていたあなたの成功を遅らせてしまったのが私だったことは事実です。同様にあなたを応援していた私だもの、落胆もわかります。社長を責めないであげて下さい。
私のことは心配しないで。ちゃんとリハビリは続けます。一人で生きて行くとなれば、体ぐらいは丈 夫でないとやって行けないから。リハビリの先生が、あんなに一生懸命になさってくれたのに仕方なく体を動かすような態度で居た私は、優しくしてくれるあなたに甘えていたのだと思います。この旅立ちをいい機会、強くなろうと思います。
どうか探さないでください。カズ君のことだから、すぐにまた新聞やテレビを賑わせてくれることでしょう。影ながら応援しています。
美穂子
便箋を握りしめたまま、鍛冶は部屋から駆け出した。今朝、私が部屋を出た時に決めていたのだろうか? 何故気付いてやれなかったのか。走りながら、周囲を見回しながら、鍛冶は自分自身を責め続けていた。怪我をする前の二人がよく行ったアミューズメントパーク、最寄りの駅、お気に入りだった公園、美穂子が立ち寄りそうな所を全て探しまわったが彼女は見つからなかった。汗だくになった体を道路わきのガードレールに預け、もう一度手紙を読み返す。
私は美穂子との幸せのためにボクシングをしていたんだ。会長のためでも自分の栄光のためでもない。彼女が居なくなった今、もうボクシングを続ける理由はない。
鍛冶はグローブを置く決意をしていた。