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「ごめんなさい。あたし、全然気付いてなかったの」

 医師の許可がおりて美穂子を見舞うことが出来たのは入院二日目の夜だった。流産を聞かされた時は動揺もあったが、美穂子の無事が鍛冶の最大の関心事だった。泣きじゃくる彼女の背中を固定されていない方の右手で軽く撫でる。

「大丈夫だよ、君さえ元気で居てくれたなら子供はまだ出来る。私の怪我も腕だけで済んだのだからね」

 通り一遍の言葉しか出てこない。冗談も軽口も咄嗟には思いつかない生真面目な鍛冶だった。

「カズくんの腕までそんなにしちゃったのね。あたし、どう償えばいいの?」

「君が悪い訳じゃないさ。それに私がもう少し俊敏だったら子供も助けられたのかもしれない。自分を責めないでくれ。償いなんて必要はないよ」

 少しでも美穂子の負担を軽くしようと、鍛冶は精一杯の気の利いた文句を探す。

「そうだ、さっき会長から聞いたんだが労災が認められるそうだよ。お互い忙しすぎたのかも知れない。少しのんびりしよう。ただ働いてもいないのにお金がもらえるのは気が引けるな」

「そんな腕じゃあ、働こうたって無理じゃない。カズくんらしいわ」

 ようやく美穂子の右頬にエクボが現れた。


 受傷後一ヶ月で退院した鍛冶は、リハビリに通院しながら美穂子を見舞う日々を送っていた。全治二ヵ月と診断された彼女だったが、松葉杖なしで歩けるようになるまでに更に一ヶ月の期間を要した。しかし美穂子の持つ生来の明るさは見舞いに訪れた同僚の失恋を励まし、ひとりの部屋は寂しいと嘆く鍛冶を「普通の人なら怖くて立てないようなリングに独りで居るくせに」と叱咤する。交わされる会話だけで判断するなら、どちらが入院患者か分からないようなやり取りだった。

 そして美穂子の退院の日、担当医に挨拶に向かった二人に夢想だにしなかった事実が突きつけられる。

「八月にお見舞いにいらしたお母様には、既にお伝えしてあります。あなた方には退院の日を待ってお話するように言われまして……」

 女医の表情は硬い。

「お気の毒ですが、美穂子さんがこの先、赤ちゃんを産める望みはなくなりました。割れた骨盤に卵巣が押し潰され――」

 目の前が真っ暗になり、その先は耳に入らなかった。子供はまた作ればいい、自分だけを責めるな。鍛冶の優しい言葉に一度は薄れた哀しみが更なる衝撃を以て美穂子に覆い被さってきた。鍛冶との幸福な家庭――子供の笑顔が絶えることのない家庭を夢見ていた美穂子にとって死刑宣告ともとれる医師の言葉だった。焦点の定まらない視線を宙に彷徨わすのみで、否認の一言も発せられずにいた。傍らに寄り添った鍛冶も口を真一文字に結んだまま立ち尽くすのみであった。

「――何かの間違いでは」

 一度、喉元を大きく動かせた後、絞り出すような声で猶予を手繰り寄せようとするが、医師の言葉には微かな希望すら見いだせなかった。

「残念です」

 そう言って彼の縋るような視線から目を逸らすと、医師は思い直したかのように明るい声を出す。

「リハビリさえ順調に進めば、何の問題もなく日常生活が送れるようになります。お子さんがいなくても幸せな家庭を築いてらっしゃる方々は多く居られますよ」

 人が受け入れることの出来る哀しみには許容域といったものがあるのだろう。それを越えた衝撃に美穂子は涙すら流せずにいた。


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