三
止まない雨もあるのではないか――そう思いたくなるほど、この年の梅雨は長く雨量も多い。深いグレイの雲が七月の空を覆っていた。これが明ければ夏が到来するのは四季のある日本では当然のことなのだが、自動車のエンジンから発せられる熱と排気ガスとが、工場の中に一足早く真夏を呼びこんでいた。床にこぼれた冷却水からは、陽炎さえ立ち上ろうかとしている。
「橋本さーん、それまだ受け入れが済んでないって須藤さんが言ってましたよー」
事務所のドアから顔を覗かせた美穂子の明るい声が場内に響いた。
「え、本当? じゃあ、また書類だけ持っていってよ。車検でしょ」
「はーい」
いつもこうなんだから橋本さんは、と心の中でぼやきながら緑色にペイントされたコンクリートの床に美穂子は降り立った。入庫した車は、工場で作業する前にフロントマンなり検査員なりが顧客の要望を聞いた上で書類を確認し、車両詳細と依頼内容をカルテに書きこんでから工場へ乗り入れる手順となっていた。しかし、気の早い橋本は、検査標章に記された数字を見ると車検による入庫と勝手に解釈をし、早々とドライブオンリフトに乗り上げ、入庫検査を始めようとしていた。このようなことは度々あり、一度工場に入れた車両を再び駐車場に出す煩雑さを慮った美穂子が、車内から書類を取り出して事務所へ差し戻すという役目を担っていた。経理の仕事以外にも保険業務を受け持っており、山積したそれらを定時までに終えるのに苦労はしたが、昼休み以外にも工場で働く婚約者の傍に行けるという特典はある。そう前向きに考える美穂子のフットワークは軽やかだった。
通称〝馬〟と呼ばれるリジットラックで保持された車の下にもぐっていた鍛冶にもその声は聞こえた。左隣に位置するリフトに来るのだな。きっといつものように私の足をポンポンと叩いて事務所に戻るのだろう。鍛冶は踏ん張ろうと曲げていた足を気持伸ばした。
「リフト上げまーす」の合図がないままに、静かな音でリフトのデッキが上昇を始めた。しかし美穂子が来る様子はない。もしや――美穂子を乗せたままリフトアップしたとすれば、気づいていない彼女が落下する恐れもある。鍛冶は急いで車の下から滑り出た。
鍛冶の案じた通り最高位まで上昇したリフトを見上げると、ドアを開け車内に上半身を預けたままの美穂子の姿がある。
「美穂子、動くなっ!」
その声に振り返ろうと、足を後方に進めた美穂子の体が落下を始める。考えている余裕はなかった。美穂子を受け止めようと両手を差しのべながら、鍛冶は体を跳躍させた。後頭部辺りに左手を差し入れ、勢い余ってX型のアーム部分に体ごと激突する。五十キロに満たない美穂子とは言え、重力加速度のついた全身を受け止めきるのは至難の業だ。間に合わなかった右手の数センチ先を美穂子の背中がすり抜け、コンクリート製の掘り下げ部分に鈍い音と共に打ちつけられた。
「どけっ!橋本。何ぼうっとしてんだ」
眼前で繰り広げられる光景に理解が及ばず、茫然と立ち尽くすだけの橋本を押しのけるようにメカニック達が駆け寄る。騒ぎに気付いた事務所からも人が駆け出てきた。
「救急車だっ!早く119番を」
誰かが叫ぶ。
「大丈夫か、痛い所はないか?」
鍛冶の腕の中で美穂子が微笑みを浮かべた。
「ごめんね、おっちょこちょいで。カズくんこそ怪我してない?」
私は大丈夫だ。そう鍛冶が答え終わる前に美穂子が意識を失った。オイルのような染みが彼女の下半身を濡らして行った。
「あなたもひどい出血だ。一緒に乗って行きなさい」
夢なら覚めて欲しい。ストレッチャーに乗せられて救急車に運び込まれる彼女を心配げに見守る鍛冶が、救急隊員の言葉で現実に引き戻される。指摘されるまで、自分の体に頓着することはなかった。美穂子を抱きあげていた間には全く気付くことのなかった強烈な傷みが襲ってくる。リフトのアーム部分と美穂子の頭に挟まれる形になった左肘から下、作業衣がどす黒く染まっていた。損傷部位を見るために上げようとした腕は、彼の意志に反して動くことを拒否し、垂れさがったままだった。
「肘関節内骨折|(とう骨頭骨折)ですね、外側側副靱帯にも損傷があります。カルテに記された名前で気づきました。ボクサーの鍛冶さんですよね? ご安心下さい。復帰には時間がかかると思いますが、手術は成功しました」
麻酔から目覚めた鍛冶に執刀医が説明を始めていた。左腕はギプスと包帯でぐるぐる巻きにされている。
「美穂子は、高木美穂子はどうなんですか」
一緒に話を聞いていた足立が初めて目にする鍛冶の感情に支配された姿だった。
「高木さんとの御関係は――婚約者さんですか。詳しくは担当医にお聞きください。頭を守られたのが良かった。チャンピオンともなれば反射神経も尋常ではないようですね。命に別条はないと聞いています」
鍛冶が大きく安堵の息を吐く。全身麻酔だったせいか霞がかかったような思考だったが、まだ訊ねたいことはあった。
「彼女には逢えますか?」
「どうかな、まだ麻酔が覚めてないかも知れないし、あなたにも二十四時間は安静にしててもらいたい。幸か不幸か、二人共暫くは入院してもらわないといけない。焦らなくてもいつでも逢えますよ」
冗談を交えて逸る鍛冶を嗜める医師に、深刻な状況ではないのだな、と起こしていた上半身をようやくベッドに預けた。鍛冶が口を閉じると、今度は足立が口を開く。訊きたくてジリジリしていた質問だった。
「先生、復帰にはどのぐらいかかるんでしょう」
「患者さんは若いですし治りは早いと思いますが、こちらも焦りは禁物です。埋め込んだ金具を抜くまでに一ヶ月、生活に支障のない程度には二ヵ月もあれば回復するでしょうが、ボクシングを再開するには、リハビリでしっかりと伸屈の角度や可動域を戻す必要があります。三ヶ月はかかるでしょう」
都合四ヶ月か、落ちた筋力や試合勘を取り戻すにも時間を要することだろう。しかし腕を失くした訳ではない。多少遠回りにはなるが不幸中の幸いだったと思わねばならないな。鍛冶のセンスまでが錆びつくことはあるまい。足立は自分にそう言い聞かせていた。
同じ頃、別の病室で目覚めた美穂子にも医師からの説明があった。地方出身の彼女に付き添う身寄りはいない。
「骨盤骨折でした。出血量が多かったので心配したのですが、幸い腎臓や消火器系動脈には損傷はありません。ただ――」
言いづらそうに言葉を切った四十前後の女医が、思い直したように続ける。
「お気づきになってましたか? 妊娠されていたようなのです。お気の毒です、流産でした」
芽生えた命を自分の不注意で摘んでしまった……美穂子の瞳から涙が溢れ出ていた。