二
『これぞ千光(閃光)!』
スポーツ誌の一面を鍛冶の名前をもじったキャプションが飾る。節約のため新聞は取っていなかったため、わざわざ美穂子が駅まで買いに走ったものだった。プロ野球のオフシーズンとは言え、日本ではマイナースポーツ扱いのボクシングの記事、それも世界戦でもない試合が取り沙汰されるのは珍しいことだった。それほどまでに鍛冶への期待は大きかったのだろう。
「凄いわね、でも私にはここに居る物静かなあなたと、この写真の人が同一人物だとは、とても思えないわ」
不鮮明な写真ではあったが、集中してパンチを繰り出す鍛冶の顔には、普段の彼からは想像もつかない厳しさがあった。それを指差して微笑む美穂子を見つめる。片方だけに出来るえくぼが、鍛冶には愛おしくてたまらなかった。
「他にニュースがないんだろう。私はこんな怖い顔をして試合をしているのかな」
不本意そうに呟く鍛冶を気遣うように、美穂子は話題を変える。
「それにしても、あのアナウンサーの人は気の毒だったわ。だって、あなたったら工場で働いてる時と全く同じで、全然喋らないんですもの。鍛冶居たのか? って、よくからかわれてたでしょう」
ボクシングそのものより、弁が立ちパフォーマンスに秀でた選手をバラエティ番組に引っ張り出したがるテレビ局などマスコミ側にも問題はあった。露出が増え知名度が上がる一方、カメラ映えのしない地道なトレーニングが馬鹿らしく思えて疎かになる。そして周囲にちやほやされる事に慣れてしまった彼等は凋落への坂道を転げ落ちて行く。自分はタレントではない、彼等の様な受け答えを期待されても困る。ボクシングを生活の手段としか考えていなかった鍛冶は、専門誌の取材をも断り続けていた。
「口は災いの元だよ。それにうちに居れば私の分まで、君が喋ってくれる」
「ひどーい、私がおしゃべりだって言いたいの」
口を尖らすふりをした美穂子がすぐまたえくぼを表出させる。質素なアパートの一室で、鍛冶は彼女にしか見せない笑みを浮かべていた。
「そろそろ、出掛けないと遅刻だわ」
「私も行くよ。会長は休んでいいと言っていたが、一人では時間もつぶせない。部屋も狭くなったし」
「もう、本当に無趣味なんだから。パチンコや映画に行こうとかは思わないの?」
集中力を養う目的もあって、唯一の趣味としていたボトルシップが狭いアパートの部屋に所狭しと並べられている。美穂子にもこれ以上増えたら足の踏み場がなくなると言われていた。新しい作品に手を出すのは、完成したそれらを同僚か弟にでもあげてからにしようと鍛冶は決めていた。
「映画はビデオを借りて君と観た方が楽しい、パチンコ屋は空気が悪い」
そし、東洋太平洋チャンピオンになったと言えど、生活に安定も向上ももたらさないのが、日本のボクシング界事情だ。唯一の臨時収入となるファイトマネーは、観戦チケットを売りさばくことで現金化される。口が重く交友関係の狭い鍛冶にとって苦行とも言える自己PR兼営業であった。そしてそこでも美穂子に助けられる。『そうまでしなくても』と腰の引けた鍛冶を説得して同窓会名簿から友人の電話番号を調べ上げ『あなた方の同窓生が頑張っています。応援を宜しくお願いします』と、まるで当落ぎりぎりの候補者を抱える選挙事務所のようなことまでやってくれていたのだった。
何人もの世界チャンピオンを抱え、ジム経営を上手くコマーシャル戦略に乗せた都会の大手ならいざ知らず、地方の弱小ボクシングジムが収支バランスをとるのは難しい。会長の足立をして父親から継いだ自動車整備工場の収益があってこそ、ジムを潰さずにいられるようなものであった。一時期、ダイエットにボクササイズが有効であると雑誌に取り上げられ若い女性会員が増えたこともあったが、最新式のトレーニング機器やプール、ジャクジーまでもが完備された大手スポーツジムが進出してくると、汗と松ヤニの臭い立ちこめる薄暗いジムに残ろうとする女性会員など一人も居なくなってしまう。ボクシング経験など、これっぽっちもないインストラクターが指導するクラスの軽薄さがもてはやされるのだから、ダイエットもジム通いもファッションとしかとらえられてないのだろう。
ようやくうちのジムから世界チャンピオンが生まれる。ジムの認知度が上がれば会員や練習生も増える。一気にプラスとまでは行かないまでも、整備工場への依存は減るはずだ。景気の停滞を理由に、何年も昇給を見送っている工場従業員にも少しは楽をさせてやることが出来るだろう。足立がそう目論んだとしても無理からぬことなのだ。
そこにメカニックとして勤務する鍛冶と、事務員の美穂子の収入が人に自慢出来るようなものではなかったのも事実である。両親を亡くした彼にとって経済的バックアップは、どこからも期待できない。独立を夢見ようと、賃金労働者の彼が資金を蓄える頃には、老人になってしまっているだろう。手早く資金を稼ぐために彼が出来ることはボクシングの世界チャンピオンになるしか途がなかった。親身に面倒をみてくれた足立への恩返しにもなる。世界奪取、そして長期政権。その期待に反することではあったが資金さえ貯まればすぐにでも引退して美穂子との家庭を守って行きたい、鍛冶はそう強く願っていた。
そして美穂子は自身を大きく見せるような言葉を一切口にしない鍛冶の誠実さに惹かれた。決して美人とはいえない彼女だったが、愛くるしい笑顔とその明るさは職場の華であった。多くの同僚からの誘いを断り続け、鍛冶が必死の思いで気持を伝えてくれるのを二年間も待ったのである。試合前ともなれば残業を免除され、さらには美穂子のハートまでをも射止めた鍛冶をやっかむひとりの先輩社員が居た。立ち技最強はキックボクシングだ、と挑発を続け、鍛冶との異種スパーリングを足立に懇願し続けていた。辟易した足立は仕方なく1ラウンド限定のスパーリングを認めたのだが、意気揚々とリングに上がったその男が数秒ともたずにマットに沈められたことは言に俟たない。モーションの大きな右回し蹴りをダッキングでかわした刹那、鍛冶の左フックが一閃した。遠い未来、彼に師事する少年が放ったそれと寸分たがわぬ角度とキレだった。
実力の接近――異種格闘技において難しい条件ではあるが、そういった者同士の対戦だったとすれば、結果は別のものになっていたのかも知れない。しかし才能に恵まれ、地道なトレーニングを欠かさない鍛冶と、ちっぽけな功名心に囚われて自身の能力さえ推し量ることの出来なかった先輩社員との間には埋まることにない大きな溝があった。
「なんだ、休んでいいと言ったのに」
タイムカードを押す鍛冶の背中に咎めるような足立の声が届く。
「でも疲れはありませんし、試合前、私が休むことで皆さんに迷惑をかけていました。少しでもその分を取り返しておきませんと――」
「すみません。休むようには言ったのですが、カズ君たら聞かなくって」
鍛冶が足立の配慮を無駄にしてしまうことを美穂子が代わりに詫びる。
「いやあ、この職場から世界チャンピオンが出るなら、みんな喜んで君の分まで残業するよ。観戦後に寄った居酒屋でも鍛冶君の話で持ち切りだったんだから。同僚の我々としても鼻が高い」
リングサイドで垂れ幕の端を掲げていた検査員の須藤も、未だ興奮冷めやらぬ様子だ。
「ありがとうございます」
新聞でテレビでと多くの賛辞を受けるようになった鍛冶だが、どうしても慣れることはない。照れ臭さばかりが先に立ち、そそくさとロッカールームに消えていった