十二
「輸入商品だからといって、マニュアルを盲信する融通の効かなさがいけないんです。そして、ここ。こんなものは材料を積み上げて行く前に切り込んでおけば相当の時短に繋がるんだ。どうして他の業者は気づかないんでしょうね。僕は不思議で仕方ない」
一つ年下の白井であったが、教えを乞うのに歳上も何もない。大山の会社に雇われるにあたり、住民登録のない鍛冶は美穂子に頼んで建築関連の書籍を町立図書館で借り出してもらっていた。そして眠る時間も惜しんで読み漁った。しかし白井の理論は書籍に書かれたどれをも凌駕するものだった。彼の柔軟な思考は、現役時代の鍛冶のボクシングスタイルとも相通ずるところがある。美穂子との話し合いに進展は見られてなかったが、世話になる以上は全力を尽くす。それが鍛冶の仕事に対する姿勢であった。
「凄いな、白井さんは」
休憩中も昼休みも時間を惜しんで指導を仰いだ。言われた通りに材料を運び、積み上げ、言われた通りに漆喰を塗る。そんな仕事をするつもりはなかった。作業の効率を考えるなら、建築に対する理解も深めなければいけない。それがいきなり雇ってくれといった鍛冶を快く受け入れてくれた大山に対する感謝であり、素人の自分に労を惜しむことなく建築理論を解いてくれる白井への礼儀であった。
「〝さん〟は、やめて下さいよ。上下関係の厳しい羽鳥工業高校時代なら、鍛冶さんは怖い怖い先輩になるんですから」
「社会に出てしまえば、そんなものは関係ありません。プライドも見栄も生きて行く上において邪魔なものばかりです。こうして素人の私に企業秘密まで明かしていただけるんですから、敬称は当たり前のことです」
頭を掻きながら白井が恐縮する。
「まいったなあ。実はこれ、企業秘密でもなんでもないんですよ。大山社長に拾ってもらう前に、この理論を手土産に香取建設に売り込みに行ったことがありましてね。あそこの連中は、よく読もうともせずぺらぺらとめくっただけで『机上の空論だ。そんなものが通用するほど建築業界は甘くない』と鼻で笑ってくれました。今や、その香取建設がこの大山建設に何度も入札で後塵を拝しているとゆう訳です。この数ヵ月、僕に来てくれないかと言ってきてますがね。死んでも行くもんかって断ってやりました。そうしたら今度はデベロッパーに頼みこんで、客のふりをして技術を盗みにきました。見せてやりましたよ、堂々と。あのまま真似をしたら一年ともたずに建物は傾いてしまうでしょうけどね」
白井は気持よさそうに笑った。
「この工法の理論が分かっているのは、僕と主任の桜井だけです。基本的或る理論の応用なんですが、その根本が分かってないと建築確認のための構造計算は出来ません。大山社長にも何度か説明したんですが、頭が痛くなるからもういい、と言っておられました」
「機械科卒の私にも、理解は無理でしょうね」
「理解はともかく、その学ぼうとする姿勢と手先の器用さは賞賛に値しますよ。ボクサーでなく、最初から建築を志していれば優秀なエンジニアになれたんじゃないですか?」
「からかわないでください。何をやっても中途半端な男なんですから」
建物が完成に近づくと、施主が現場を覗きにやってくるようになる。その度毎の中断には辟易したが、お客あっての商売である。やむなく手を止めて臨時の休憩にする。作業が遅れた分は残業で補っていることなど、客にとってはお構いなしなのだろう。
見学に来る家族は、どの父親も判を押したように口髭をたくわえ、妻や子には揃いのヨットパーカを着せ、私は家族を大切にしていますといったアピールに余念がない。ファッションだけの自然回帰派が街の生活に戻れば、エアコンにテレビにと大量の電力を消費し、多くの廃棄物を生みだす。そもそも湖の中に排気ガスをまき散らすプレジャーボートやジェットスキーが自然を大切にしようとする者のやることだと鍛冶は思えなかった。無用に大きなサイズのRV車を乗り回し、フロント回りに配されたステンレス製のパイプは、接触した動物や人間の命をいとも簡単に奪ってしまう。たかだか数百万の車のダメージが命より大切だとでも言うのだろうか。それに気づいてないのなら、彼等の愚かさに呆れるばかりだ。
工事が終わりに近づいても、美穂子との折衝案は見つけられぬままだった。美穂子の手の空いた時間で鍛冶が余暇に限られた逢瀬ではあったが、二人にはそれがなくてはならないひとときになっていた。
子供達に囲まれた美穂子はよく笑ってくれたし、その笑顔を見るだけで鍛冶は幸福に包まれた。ここを離れたくない。全てのログハウスが完成しても私は残ろう。近くで仕事を見つけ、空いた時間は学園の手伝いをさせてもらおう。狭い運動場ではしゃぐ子供達を見守る美穂子を眺めながら、その想いを強くする鍛冶だった。
怒声らしき男の声と、何かが倒れるような大きな音が建物から響いた。驚いた子供の一人が泣き声を上げる。
「何だろう」
鍛冶にも馴れてきた子供達だった。大丈夫、怖くないからね、と走り寄る彼等に目線を合わせるようにしゃがみこむ。
「きっとまた開発業者だわ。ここを別荘地にするから売れって言ってきているの。ごめんね、ちょっと見てくる」
「そんな連中が来ているのか、私も行こうか」
何か言いかけて、思い直したように首を振った美穂子は速足で通用口へと向かった。
「おっと、手が滑っちまったぜ。じいさん、怪我はないか?」
通用口のすぐ右手、院長室と札のかかった部屋のドアを美穂子が開ける。なぎ倒されたスチール製のロッカーを起こそうとしていた安藤教諭の目には怯えの色があった。中年女性の彼女一人の力で起こせるものではない。冷笑を浮かべる男を、きっと睨みつけ安藤教諭に手を貸した。
「ここを離れて私達にどこへ行けと言うのかね。ここはあの子達の家なんだ。あなた方は金儲けしか頭にないのか」
温和で笑みを絶やすことのない院長が険しい表情になっていた。
「そんなことは、私達の知ったことではない。施設なんかどこにでもあるだろうが。さっさとガキどもを振り分けて出て行けばいい。経営にも苦労しているんだろう。首を縦に振るだけで大金が転がり込むんだぞ。そのねえちゃんにも、もっといい服を着せてやれる。まだ二十歳そこそこじゃないのか? 可哀想に、そんな地味な格好をさせられて。それにこんな薄汚い建物があると、ここいら一体の景観を損なう。金もうけじゃない。我々は地域全体のことを考えているんだ」
高級そうな仕立ての背広に身を包んだ男がソファに深く腰掛け、組んだ足をゆらゆらと揺らして言った。
「大きなお世話です。院長先生は売らないといってるんです。帰って下さい、子供達が怯えているじゃないですか」
美穂子の激しい声が耳に届き、鍛冶が腰を上げた。
「慎君、恵理ちゃん達を頼むよ。私も行ってくる」
「うん、先生達を守ってあげて。お兄ちゃん強いんだもんね」
得意ではなかったが、子供達を落ち着かせようと精一杯の笑顔を作って頷く。最近ようやく心を開くようになってくれた孝という幼児も不安げな目で鍛冶を見上げていた。
「なんだとお、このアマ」
部屋に飛び込んだ鍛冶は美穂子に詰め寄ろうとした男との間に体を割り込ませた。
「何事ですか、この騒ぎは」
「誰だ、てめえは」
乱暴な口調の男には見覚えがあった。スーツの色こそ違ってはいたが、変わらず派手で悪趣味な物を身に着けている。いつか大山から金をせびっていた地回りのヤクザに違いない。
「職員の友人です」
「てめえには関係のない話だ。部外者はすっこんでろ」
「そうは行きません。女性とお年寄りしか居ない所で乱暴を働くのを見過ごす訳には行かない。警察を呼びましょうか」
「乱暴? 俺達はこいつ等に指一本触れちゃいねえんだぜ。言いがかりをつけようってのか」
最近、新聞でよく目にするようになった地上げ屋というヤツか。となると座っているのは開発業者なのだろう。鍛冶はさっと見回してソファに座った顔を記憶に焼き付ける。
「そいつの言う通りだ。誰も怪我しちゃあいないだろう。血の気の多いのが少し先走っただけだ。工藤、お前はそれに蹴つまづいて倒しちまっただけだよな」
せせら笑いでそう嘯く。この男も堅気ではない。口ぶりから察するに工藤と呼んだ男に兄貴分か親分なのだろう。牛のような体躯をした五十がらみのその男は太い金色のチェーンを首に巻いていた。
「とんだ邪魔が入ったようだ。言いがかりで警察を呼ばれてもかなわない。出直しましょう原社長。土地は逃げては行かないんだから」
「そうしますか――考えておいて下さいよ、院長先生」
原と呼ばれた中年の男は立ち上がりながら、似合わない長髪の前髪を気障にかき上げる。机の上に置かれた名刺には、新港開発社長との肩書きがあった。