十一
雄弁でも饒舌でもない鍛冶が、説得に用いる言葉は多くない。「私には君が必要で、望むのは二人で暮らせる未来だ」愚直にそれだけを語り続ける。
そして美穂子も、ニ年もの間、相談もなしで出ていった自分を探し続けてくれた鍛冶の求めに応えることができるならどれほど幸せだろうと思った。資金稼ぎのため、意にそぐわない仕事もしたという。切々と語る鍛冶の言葉に、子供を産めない体であるといった負い目は薄れつつあった。何度も彼の腕の中に飛び込んで行きたい衝動に駆られたが、その毎に子供達の顔が浮かんでは美穂子を踏みとどまらせる。
「あたしがもし自分を許せる日が来たとしても、たった三人の職員で子供達十一人の面倒を見ている施設を見捨てる訳には行かないの。障害を持つ子も居るのよ。院長先生は高齢だし、今外に出ている安藤先生だってご自身の人生を擲って施設の運営に尽くしておられるわ。あたしはもう逃げない、行く所もないしね。カズ君の気が済むまで話も聞きます。でもあたしの決意は変わりません。あなたの事は永遠に愛しています。子供を産むことの出来る健康な女性を見つけて幸せになって下さい」
話は並行性を辿る。鍛冶は悩んだ。今の美穂子にとって生き甲斐とも言えるホームなのだろう。彼女の意志を無視して連れ去ることは出来ない。アパートで塞ぎ込んでいた美穂子を思い出し迷いは強くなっていた。しかし彼女の力になりたい傍に居たいといった想いは彼の中に強靭な意志をもって居座る。二人はそれぞれの想いに沈み、言葉を失くしていた。
「また来る」そう告げて車に乗り込んだ鍛冶を見送る美穂子の心境は複雑だった。
宿舎の前では、派手なスーツを着た男と大山が何事か話しこんでいる。男が察し出す荷物を受け取ると、大山が財布を取り出して数枚の紙幣を手渡す。近づく鍛冶の姿に気付いた男は紙幣を素早く胸ポケットに押し込み「それじゃあ、安全な工事をな」と、明らかに年長の大山にかけるには相応しくない言葉を残して鍛冶の傍らを通り過ぎた。名神自動車で見かけた連中と同じ匂いを持った人間だな、鍛冶はそう推測した。
「おう、戻ったか。こっちも今終わったところだ。減量の心配もなくなったお前だし焼肉でもどうだ。美味いところがある」
「今のは取引先の人ですか?」
肯定を予測した問い掛けではない。大山の口調が吐き捨てるようになった。
「地回りだよ、こうやって宿舎を建てると、無事故祈願とかなんとか理由をつけては金をせびりに来る。もう何度こんなものを買わされたことか」
そう言うと、手にした包みを無造作に足元に放り投げた。
「裏ビデオってヤツだ、観るならやるぞ」
「断る訳には行かないのですか?」
「買わないきゃ買わないで、あれこれ難癖をつけては工事の邪魔をする。寄生虫みたいな奴等だよ。で、お前の方はどうだったんだ。訪ね人は見つかったのか?」
「はあ――まあ」
「歯切れの悪い返事だな、ちょっと待っててくれ。うちの技術部長を紹介する。ボクシング部OBではないが、俺達と同じ羽鳥工業卒だ」
大山は建設機械にシートを掛ける作業をしていた作業服の男に声を掛けた。
「白井だ。大人しい男だが、腕は確かだぞ。うちの仕事は安くて早い。大手との入札にも競り負けないのは、こいつの能力に負うところが大きい。特殊なプレカットを用いたセオリー無視の工法は他社には絶対真似出来ん」
そう言うと地回りとの不愉快な取引の事実をぬぐい去るかの様に豪放に大山は笑う。ワイヤーフレームの眼鏡をかけた男が照れ臭そうな笑顔になった。
「こちらの現場には、いつまで居られるんですか」
ある考えが浮かんだ鍛冶が、せわしなく網の上の肉を裏返す大山に訊ねた。
「手っ取り早く終わらせて次へ行きたいのは山々だが、手抜き工事は出来ん。この商売は信用第一だからな。あとふたつきはかかるんじゃないか」
そう言うと、喉を動かしながらジョッキのビールを流し込んだ。
「人出が足りないとおっしゃってましたね。私を使っていただけませんでしょうか」
意外な申し出にビールを気管にでも入れてしまったのか大山がむせた。
「そりゃあ、気心の知れたお前が働いてくれるのなら願ったり叶ったりではあるが……どうやら、ここに居たい事情が出来たようだな。肘はもう大丈夫なのか? うちは力仕事だぞ」
「ええ、もうすっかり」
心細くなった蓄えを心配せず、美穂子の近くに居ることができる。時間をかけて二人の納得出来る折衝案を見つけ出そう。例え今は何も思いつかなくとも。大山が美穂子の許に呼び寄せてくれたような気がしていた。鍛冶は胸の中で大山に手を合わせていた。