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 未舗装のつづれ折りを昇り詰めると視界が開け、古びた鉄筋コンクリート製の建物が目に入ってきた。スーパーの女性が言った通り山の中腹付近に位置するようだが、そこから山頂への道は整備されていない。恐らく企業の保養施設を再利用しているのだろう。それらしき文字は薄れ、若鮎ホームと上書きされたプレートが門柱に貼り付けられている。

 十数台は置けそうな駐車場に止まっている車は軽トラックと、鍛冶の乗ったライトバンより古ぼけて見えるものとのニ台。それでも遠慮がちに一番端を選んで車を停めた。

 ここか、駐車場から左手を見上げると小高くなった場所に手作りであろうと思われる遊具が見える。フェンスに囲まれたそこが運動場なのであろう。子供達の黄色い声が上がる。だが、その姿までは鍛冶の居た場所からは見えない。

「ごめんください」

 玄関から呼んでみるが応答はない。受付らしき窓口も無人で周囲に職員の影も見当たらず、建物に入いるのは憚られた。鍛冶は仕方なく子供の声がした方へと向かう。見上げる建物は所々塗装が剥げ落ち、山間ではあったがエアコンの室外機も見当たらない。この程度の標高にあっては、今の時期はともかく夏は辛いのではないだろうか。開け放たれた窓を眺めそう感じていた。そして近づくフェンスにもかなりの老朽化が見られる。錆が出ては何度も塗り直したのだろう。ペンキが足りなかったのか、錆止めの色のまま放置されている箇所もある。石の階段を上り詰めると数人の子供達が遊具にぶら下がったり、走り回ったりしていた。彼等を見守る女性の横顔に息を呑み、鍛冶の足が止まった。美穂子……

 元同僚が言ったように、肩まであった髪は短くカットされている。ジャージにエプロンといった幼稚園の教諭か保母かといった出で立ちが板に付いてはいたが、見紛うはずのない美穂子の姿がそこにあった。

 かけるべき言葉が見つからず、足は根の生えたように動かない。立ち尽くす鍛冶の姿を幼い子供達が目にとめ、美穂子の袖を引っ張る。

「ミホ先生、お客さーん」

 カズ君……子供達に向けた笑顔のまま振り向いた美穂子の表情が凍りつく。鍛冶の姿を目にとめた美穂子の唇が、そう動いたように見えた。

 鍛冶が立つ場所と反対方向へ駆けだそうとした美穂子は、バランスを失って前のめりに倒れ手を突いていた。その様子を目にするに至り、鍛冶は呪縛が解けたように体の自由を取り戻した。駆け寄って手を差し伸べる。

「ニ年間も探したんだ。頼むからもう逃げないでくれ」

 しゃがんだまま両手で顔を覆って泣きだす美穂子に、子供達のうちの一人が寄り添い「がぁ」とも「だぁ」ともつかない声を上げる。美穂子を庇うかのように両手を広げた。見上げる幼女の瞳には敵愾心とも取れる光が宿されていた。

「ごめんよ、私はその人をいじめるつもりはないんだ。少し話がしたくてね」

 鍛冶の声に顔から手を離した美穂子が幼女の手を握った。手についた土が涙で濡れた頬を山土色に染めていた。

「恵理ちゃん、大丈夫よ。先生、転んじゃったから痛くて泣いてるだけなの。怖い人じゃないから」

「足……まだ、良くなってないのかい?」

 失踪の原因となった美穂子の怪我を忘れていた訳ではない。迂闊さを呪ったが、リングでさえ沈着冷静な鍛冶を動揺させていたのは再会の衝撃に他ならない。自らの意思で姿を消した美穂子だった。見つけることが出来ればすぐにでも連れ戻せるとは思ってなかったが、先ほどの様に逃げだそうとした美穂子を見るに至り、自分自身の行動の正否に迷いを生じさせている鍛冶だった。

「普段の生活には問題ないの。でも、急に動作はまだ……ね」

 まだ、か……あれからニ年経っている。ちゃんとリハビリはしたのだろうか。それとも今が治癒の上限なのだろうか。口にしかけた疑問を逡巡が嚥下させる。

「さっき言った通りだ。逃げないでくれ、話がしたい」

「……うん」

 手を貸して立たせた美穂子が膝と手に付いた土をパンパンと払う。

「ごめんね、すぐ戻るから。シン君がみんなを見ててあげてね」

 一番年長に見える少年――それでもせいぜい六歳くらいだろうか――彼の両肩に手を置いて美穂子はにっこり微笑む。懐かしいエクボが右頬に浮かんだ。

「うん、僕が一番おにいちゃんだから任せといて」

 ゆっくり歩き出す美穂子に鍛冶は続いた。運動場を下った辺りで「ちょっと待ってて」と言うと、美穂子は狭い通路に向かい通用口らしきドアを開けた。

「すみません。少し外していいでしょうか。知り合いが来たもので」

「安藤先生は、役場へ行ったんだっけか? わかりました。私が見ていましょう」

 ドアの奥からしわがれた声が返ってくる。

「申し訳ありません」

「いえいえ、高木先生も休みなしで子供達の面倒を見てもらっているんですから。お友達がいらした時ぐらいゆっくりなさって下さい。誰か訪ねてくるなんて初めてじゃないですか」

 髪が真っ白になった温和そうな老人が姿を現す。目が合った鍛冶は軽く会釈を返した。

 

 招き入れられた応接室で、修復が不可能なほど表皮の破れたソファに腰を下ろした。

「ごめんなさい。見ての通り貧乏な施設なの。お茶ぐらいしか出せないわ」

「構わないでくれ。話がしたい、それだけなんだから」

 鍛冶は一刻も早く想いの丈を伝えたかった。なかなか目を合わせてくれようとはせず、古びた薬缶を手にして背を向ける美穂子に着座を乞うた。

「とは言ったものの、聞きたいことも話したいことも多すぎて、どこから始めればいいのだろう。ここは、養護施設なのかな? 先生と呼ばれていたね。資格を取ったのかい」

「ううん、とってないわ。ここも……何て呼んだらいんだろう。福祉施設でもあり養護施設でもありね。帰る場所のないあたし達にとっては正に家、ホームよ」

 首を振って顔を上げた美穂子と、やっと視線が交わった。深く息を吐いてから美穂子が話し始める。

「ごめんなさい。あんな目に合わせたあたしを少しも責めようとしないカズ君と一緒に暮らすのが辛かったの。でも飛び出してはみたものの、行く当てはなかった。兄夫婦が継いでいる実家は母も肩身が狭いって言っていたし、帰ることは考えられなかった。だから諦めなきゃならなかった子供と過ごせる仕事を探したの。でも高卒で何の資格も持たないあたしが働けるところなんかなかった。こうゆう施設ってね、どこも経営は苦しいの。自治体の援助があるから、なんとかやって行けてるだけ。経理も事務処理も養護教諭が兼ねているのが普通なんですって。それでもしつこく職安に通い詰めるあたしの話を聞いてくれたのが院長先生――さっきの方よ。当時尾張市にいらした院長先生が、この施設を引き受けるに当たって、経理の経験のあったあたしを事務員として雇ってくださったの。さっきカズ君が見た通り。今や何でも屋だけどね」

美穂子がうっすらと笑いかけたが、明るい笑顔ではなかった。

「ここはね、親の居ない子供達、捨てられた子供達、障害を持つ子供達が寄り添って一生懸命に生きようとしているところなの。資格に見合った報酬なんか期待できないから、職員は集まらない。院長先生も苦労なさっているわ。だから、あたしなんかでも必要とされているの」

「リハビリはしなかったのかい」

 我ながら的のずれた質問だとは思ったが、言葉を切った美穂子が再び話しだすまでの間がもたなかった。

「あの子達を見たでしょう」

 先ほどの子供達を思い浮かべる。健康な子もいたが、美穂子を庇った幼女も下肢かしに少なからず肉体に障害を抱えていたように見えた。

 「あたしは普通に歩くことが出来る。あの子達の世話ぐらいなら何の問題もなく動けるわ。自分の事は考えていられなかったの」

 それが問い掛けへの返事だった。

「私が君を必要としているとは思わなかったのかい」

「さっきも言ったけど貧しい私設なの。新聞をとるのも節約したいぐらいよ。カズ君の近況を知りたくて図書館に行ってスポーツ誌を読んだわ。やめちゃったのね、ボクシング――ごめんなさい」

 唇を噛みしめて俯いた美穂子が深く頭を下げる。

 「答えになっていないよ。美穂子、君は何もわかってない。私がボクシングをしていたのは君との将来を見据えてのことだったんだ。君が居なければ何の意味もない。何度もそう言ったはずだ」

「あなたがそう言ってくれても、私が自分自身を許せないんだもの。お願い、私の事は忘れて」

「君は私を忘れることが出来たのか」

 顔を上げた美穂子の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。

「忘れられっこない。一瞬だって忘れたことなんかないわ」


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