一
四方八方から浴びせられるフラッシュに、鍛冶千光(かじかずみつ)は眩しそうに顔をしかめた。たくさんのライトに照らし出されるリングの中央で居心地が悪そうに目を伏せる。肩に掛けられた大きなタオルを頭から被ろうとするが、グローブをはめたままの手では上手く行かない。
「勝利者インタビューです。デビューから、たった九戦目で東洋太平洋バンタム級チャンピオンに輝いた鍛冶千光選手です。おめでとうございます」
「――ありがとうございます」
館内スピーカを通しても歓声にかき消されるほどの小さな声だった。
「ノックアウトタイムが一ラウンド一分四十秒、汗もかいてませんよね」
「――体質です」
「しかし、凄い左でした。息も上がってませんね。目指すは当然、世界ですよね」
「――会長にお任せしてありますので」
景気のよい言葉を引き出そうと意気込むインタビュアーとは対照的に、勝者であるはずの鍛冶の口調は、敗戦の弁を語るようだった。ポツリポツリと最小限の返事を返すのみ。意識を取り戻した元チャンピオンが祝福のハグを求めてきた時、やっと少し口の端を上げる程度の笑みで応じた。
「いやあ、しかし凄い試合でした」
「――強いチャンピオンでした」
「今は、あなたがチャンピオンなんですよ。見て下さい、みなさん。新チャンピオンの顔はこんなにキレイです。相手のジャブのひとつももらっていません。我々は今、正に天才ボクサーの誕生を目の当たりにしているのです」
カメラが寄り、鍛冶の顔のクローズアップを撮ろうとするほどに彼は俯き加減になる。そして、どう煽ろうとも謙虚な言葉を繰り返すだけの新チャンピオンに焦れ、インタビュアーは観客席にマイクを振った。歓声の上がるリングサイドには私設応援団が掲げる垂れ幕が見える。『世界を目指せ、今日は通過点だ』 小さな旗を作って振り回す人々や手製のプラカードに応援のメッセージを掲げている人々も居た。
「――運が良かったのです」
ヒートアップする会場に反して、鍛冶の声は消え入りそうになって行く。
「すいませんね、こいつは口が重くって。勿論、世界を狙わせますよ。うちのジムから初めての世界チャンピオンが生まれるんですからね」」
所属ジムの会長である足立忍(あだちしのぶ)が、インタビュアーの持つマイクに手を添え、続きを引き取った。
「ほお、生まれるですか。断言されましたね。鍛冶選手、会長のお話しをお聞きになっていかがです?」
「――そうなればいいですね」
笛吹けど鍛冶踊らず。無口であることは聞いていたが、予想以上の無反応ぶりに、インタビュアーは万策尽きたように表情になり、仕方なく足立にマイクを向けた。
「新人王トーナメントも全てノックアウト勝ちで、ここまで無敗。十年に一人、二十年に一人の才能を言われてますが、そこのところは如何でしょう」
「そう言われるボクサーは少なくなく、彼等がその期待に応えることが出来ないままにリングを去って行くのが、日本のボクシング界の現状を物語っています。暫定王者もJBCの認定団体も増えてしまった。しかしこいつは本物です。日本人に珍しいスイッチヒッターです。カウンターも取りにくいでしょうし、何よりあの手数です。そんな気さえ起こらないでしょうね」
「チャンピオン、こちらにファイティングポーズを」
スポーツ誌のカメラマンのリクエストにも会釈を返すのみ。さっさとトレーナーにグローブを外させてしまうと、バンテージを巻いた手でフラッシュの逆光を遮るようにして客席を見回す。そして目的の人物を見つけると鍛冶は軽く手を振った。
この人は何故、私に大言壮語を吐かせたがるのだろう。己が才能を見極める客観的判断力など私にはない。〝練習は裏切らない〟会長とトレーナーの言葉を信じ、愚直に反復練習を繰り返した結果がこうなっただけだ。先のことなど分かるはずがないではないか。調印式で、丁々発止のやり取りを繰り返すボクサー達の振舞いが不思議に覚えて仕方なかった。恐らく彼等と自分では、人間の種類からして異なっているのだろう。沈黙の中、鍛冶はそう考えていた。
「――会長、もういいですか」
そう言うと、さっさとリングを降りてしまう。控室に引き上げる通路では、多くの観客が彼の体に触れようと手を伸ばしてきた。未来の世界チャンピンへの期待と勝利への賛美なのであろうが、薄いガウン越しに叩かれるのは決して気分の良いものではない。通路の中程でリングから手を振った女性に囁いた。
「勝ったよ、後でまた」
「うん、おめでとう」
瞳を潤ませた高木美穂子が頷く。試合開始直後から握りしめていたのだろう。淡いパープルのハンカチが彼女の手の中でくしゃくしゃになっていた。
「お前の無口は直らんな。リップサービスをしろとは言わないが、もう少し愛想を良くしたらどうだ。世界を獲れば、報道陣の数も増えるんだぞ」
「――すみません」
詫びの言葉以外、言い訳すら口にしようとしない鍛冶に会長は嘆息を漏らす。
「しかし、良かった。お前が負けるなんてことは考えてもいなかったが、勝負は時の運という言葉もあるからなな」
「――皆さんのお陰です。シャワーをいいですか?」
勝利の美酒に酔いしれることもなく、さっさと帰り支度を始めようとする鍛冶に、足立とトレーナーの藤田はやれやれといった表情で顔を見合わせた。
呆気なく終わってしまったタイトルマッチの放映時間枠を埋めるため、実況席では元世界チャンピオンの解説者が試合を振り返っており、その様子が控室のテレビからも流れていた。
――あれはもう天性ですね。得意のパンチを捻じ込めるよう、相手がガードを空けてくれるとは限りません。双方ともにプロなんですから。しかし、その少ないチャンスを見つけた途端、スイッチして大砲を放つ。真似しようたって、出来ることではありません。そして、あの左のダブル、下かと思えば上、上かと思えば下と来る。避けようがありません。今までの日本人ボクサーには居なかったタイプです。彼に限っては、慢心も驕りもないようですね。ルーベン・オリバレスの強打とリカルド・ロペスの盤石さを兼ね備えているといっても過言ではないでしょう。
「滅多に人を褒めないあの人ですら、手放しでお前を褒めているぞ。次は世界だ、俺に任せておけ。長期政権も夢ではないぞ」
普段着に着替え、控室を出ようとする鍛冶を足立が引き留めた。強打か、私にそんなものがあるのだろうか。それがないからこそ、スピードと精度を上げろと、藤田さんがうるさく言うのではないだろうか。
高校に入学してすぐ両親を交通事故で亡くした鍛冶は、まだ中学生だった弟のため、哀しみに浸る間もなく職探しに奔走していた。その彼の才能を惜しみ、復学させた上、卒業後の職まで与えてくれたのはボクシング部OBの足立だった。
インターハイ、国体と高校のメジャータイトルを総なめにした鍛冶は、足立の期待に充分応えたと言えよう。世話になった会長が喜ぶ姿を見るのは嬉しくもあったが、鍛冶自身、それほどボクシングに情熱を燃やしている訳ではなかった。格闘技において重要な闘争心を持ち合わせない私が、この世界で通用するのだろうか。ぬるいシャワーを浴びている最中も、鍛冶はそんなことを考えていた。卓越したボディバランスがスイッチをごく自然に身に着けさせ、いついかなる時も冷静で居られる精神力が、練習の成果を存分に発揮させる。更には、無口が故に相手の挑発にも乗らず淡々と自分のスタイルを貫くことで対戦者にプレッシャーを与える。稀代の名ボクサーとなる資質は充分に備えていた。
「お先に失礼します」
小さな声で暇を告げると、鍛冶は美穂子を待たせている喫茶店へと走った。