『初夏と錆びた堤防、君の抜け殻』
『初夏と錆びた堤防、君の抜け殻』
初夏の光は、いつもどこか嘘っぽいほど透き通っていた。
五月の終わり、放課後の海沿いの道。自転車のペダルを踏むたびに、チェーンの錆びた音がギシギシと鳴った。
「ねえ、蓮」
荷台に乗った栞が、僕の制服のシャツをきゅっと掴んだ。
薄い布越しに、彼女の小さな掌の温度が伝わってくる。初夏の潮風を吸い込んだ彼女の黒髪が、僕の背中をくすぐった。
「ん? なに」
「もし私が明日、急にいなくなったらどうする?」
また始まった。栞は時々、こういう答えのない問いを落としてくる。防波堤にぶつかって砕ける白波のような、ひんやりとした冗談。
「どうするって……探すよ。お前の家に行って、部屋の窓から石投げて呼ぶ」
「ふふ、それ昭和の映画じゃん。だめだよ、部屋にいないんだから」
「じゃあ、この堤防に来る。ここで待ってれば、どうせアイス片手に現れるだろ」
僕が振り返らずに言うと、背中に栞の額がぽすんと押し当てられた。
「……ばーか。そんな簡単な場所にいたら、いなくなった意味ないじゃん」
その声が少しだけ震えていたことに、当時の僕はまだ気づけなかった。
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僕と栞は、幼稚園からの幼馴染だった。
家が隣同士で、親同士も仲が良く、物心ついた頃から当たり前のように隣にいた。僕にとって栞は、空気や水と同じで、存在を疑ったことすらない世界の構成要素だった。
だが、高校二年の春を過ぎた頃から、栞は少しずつ透き通っていくように見えた。
肌の白さは陶器を通り越して淡雪のようで、放課後の部活を休みがちになり、階段を上る足取りはいつも途切れ途切れだった。
ある土曜日の午後、僕たちは町外れの廃駅にいた。
海を見下ろす高台にあり、十年前に廃線になったその駅のホームには、名も知らぬ青い野花が隙間から咲き乱れていた。
「ここ、風が一番きれいに通るのよね」
栞は古びた木製ベンチに腰を下ろし、細い足をぶらつかせた。
彼女の被る白い麦わら帽子が、強い日差しを遮って顔に柔らかな影を作っている。
「栞、顔色あんまり良くないぞ。やっぱり病院、寄ってから帰るべきだったんじゃないか?」
「大丈夫。病院の消毒液の匂い、嫌いなんだもん。それより、蓮、これ聞いて」
栞は首から下げていた小さな携帯用カセットテープレコーダーを僕に見せた。カチリ、とボタンを押すと、サーッというヒスノイズの向こうから、僕たちの他愛のない会話や波の音が聞こえてきた。
「なんだよそれ。いつ録ったんだ」
「さっき自転車乗ってたとき。蓮の声って、普段はぶっきらぼうだけど、風に乗るとすごく優しく聞こえるんだよ」
「からかうなよ」
「からかってない。……ねえ、蓮」
栞が不意に、真剣な瞳で僕を見つめた。
吸い込まれそうなほど澄んだ瞳の奥に、仄暗い影が揺れている。
「私ね、きっと長生きできないんだと思う」
からからと、海からの風がホームの屋根を揺らした。遠くの汽笛のような音が耳の奥で響いた。
「……何言ってんだよ。縁起でもない」
「本当。自分の身体の重さって、自分にしか分からないでしょ。日増しにね、魂の輪郭が薄くなっていくのが分かるの。ペラペラの紙みたいに、風が吹いたらどっか飛んでいっちゃいそうなの」
「馬鹿なこと言うな! 検査だって、ちょっと貧血気味だって言ってたじゃないか」
僕の声が荒くなった。怖かった。栞の言葉を認めてしまったら、何かが音を立てて崩れてしまいそうで、僕は全力で怒ることでしか不安を撥ね除けられなかった。
栞は静かに微笑んで、立ち上がると僕の胸にすがりつくように抱きついてきた。
「怒らないで、蓮。……ただ、怖いの。私が消えちゃったら、私のいた証拠も、蓮の心の中から消えちゃうんじゃないかって」
「消えるわけないだろ!」
僕は思わず、彼女の細い肩を抱きしめ返した。折れてしまいそうなくらい細く、頼りない身体だった。衣服の下から、ドクンドクンと速い心拍が伝わってくる。彼女は確かに今、僕の腕の中で生きている。
「栞、僕がいる。お前がどこへ行こうとしても、僕が引き留める。ずっと一緒だって、小さい頃約束しただろ」
「うん……そうだね。約束、したね」
栞の涙が、僕のシャツの胸元をじわりと濡らした。
西に傾いた太陽が海を一面の茜色に染め上げていく。世界の果てまで赤く燃えているような、息が詰まるほどの夕暮れだった。
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その翌週、栞は倒れた。
学校の廊下で倒れ、救急車で運ばれ、そのまま二度と学校の門をくぐることはなかった。
病名は、残酷なほどあっけなく彼女の未来を奪う血液の病気だった。
面会謝絶の日が続き、ようやく病室に入ることが許されたのは、蝉の声が耳を塞ぎたくなるほど鳴り響く七月の半ばだった。
無機質な白い壁、規則正しい心電図のビープ音、ツンと鼻を突く薬品の匂い。
ベッドの上にいた栞は、たった一ヶ月で信じられないほど小さくなっていた。豊かな黒髪は帽子の中に隠され、腕には痛々しい注射の痕がいくつも並んでいた。
「……蓮」
僕の姿を認めると、栞の乾いた唇がかすかに綻んだ。
「栞、来たよ」
「ごめんね……こんな姿、見せたくなかったな」
「何言ってるんだ。栞は栞だよ。何も変わらない」
僕はパイプ椅子を引き寄せて座り、彼女の右手をそっと握った。ひんやりと冷たく、骨の感触が指先にはっきりと伝わってくる。
「嘘つき。すっごくブサイクでしょ、今」
「嘘じゃない。世界で一番可愛いよ」
「ふふ……蓮、上手になったね、お世辞」
栞は微かに笑ったあと、枕元にあったあの小さなカセットテープを指差した。
「これ……蓮にあげる」
「栞?」
「私の声、全部ここに入ってるから。蓮が寂しくなったときに、聞いて」
「いらないよ」
僕は首を横に振った。喉の奥が熱く焼けるように痛かった。
「そんなのいらない。機械の声なんかじゃなくて、お前の本当の声で聞かせてくれよ。退院したら、また自転車の後ろに乗れよ。海に行こう。あの廃駅に行って、夕日を見よう」
「……うん。行きたいな」
「行こう。絶対だ。僕が連れていくから」
「蓮、手を……もっと強く握って」
栞の指先が、わずかに僕の手を握り返した。
「ここだよ。ずっと握ってる」
「蓮の温度、あったかいね。……私、蓮に出会えてよかった。蓮の隣にいられた人生で、本当によかった」
「過去形にするなよ! これからだろ、僕たちの時間は!」
叫ぶ僕を見て、栞は優しく目を細めた。その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちて、白い枕に吸い込まれた。
「蓮……愛してるよ。ずっと、ずっと」
それが、栞が自分の意思で紡いだ最後の言葉だった。
その三日後の未明、栞は逝った。
嵐のような夏の雨が病院の窓ガラスを激しく叩きつけていた夜だった。
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栞のいない世界は、何も変わらない顔をして回り続けていた。
太陽は昇り、蝉は鳴き止み、秋の風が吹き抜け、そしてまた冬が来て春が巡る。
その当たり前すぎる世界の冷酷さに、僕は何度も窒息しそうになった。
高校を卒業する日、僕は一人であの海沿いの堤防へ向かった。
海は青く、空は高く、初夏の気配を孕んだ風が吹き抜けていた。
僕は自転車を止め、堤防の上に登った。
ポケットから、擦り切れたカセットテープを取り出し、ポータブルプレーヤーに入れてイヤホンを耳に押し込む。再生ボタンを押した。
『もしもし、蓮? 聞こえてる?』
耳元で、懐かしい栞の澄んだ声が響く。まるで僕の後ろに立って、背中に話しかけているみたいだった。
『このテープを聞いてるってことは、私、もうそこにはいないんだね。
泣かないでね、蓮。ううん、泣いてもいいけど、ご飯はちゃんと食べてね。
私ね、蓮に「愛してる」って言えたこと、人生で一番誇りに思ってるの。
私が死んでも、私の魂は風になって、蓮の周りを吹いてるから。
蓮が息を吸うたびに、私は蓮の中にいるんだよ。
だから……私の分まで、ちゃんと生きて。光の中を歩いてね』
テープはそこで、カチリと音を立てて止まった。
サーッという波の音だけが、イヤホン越しではなく、目の前の現実の海から押し寄せてきた。
胸の奥底から、どうしようもない感情の塊が喉元までせり上がってきた。
悲しみとか、寂しさとか、そんな生易しい言葉では到底表せない、魂を引きちぎられるような激痛。
「栞――――――っ!!」
僕は海に向かって叫んだ。
声が枯れるほど、喉が裂けるほど、肺の空気をすべて吐き出すように叫び続けた。
「栞! 聞こえるか! 愛してる!! 僕も、お前を愛してるんだよ!!」
堤防に白波が激しく砕け散る。
飛沫が顔にかかり、涙と混ざり合ってしょっぱかった。
どれだけ叫んでも、返ってくるのは風の音だけだった。それでも僕は叫ぶことをやめられなかった。
僕が叫ぶことでしか、栞がこの世界に確かに存在していたことを、僕たちが確かに愛し合っていたことを、証明する術がなかったからだ。
「栞……っ、栞……」
膝をつき、堤防のコンクリートに両手をついた。
ボロボロと落ちる涙が、乾いた地面に濃い染みを作っていく。
その時、ふわりと、強い風が僕の背中を押した。
潮の香りに混ざって、微かに、甘いシャンプーの匂いが鼻腔をかすめた気がした。
まるで、あの日のように、栞が僕の背中にぽすんと額を押し当てて、「ばーか」と笑ったような気がした。
僕は顔を上げた。
視界の滲む海の彼方、水平線が眩い光を反射して輝いている。
風が吹いていた。
僕の頬を撫で、髪を揺らし、そして胸の奥深くまで染み渡っていく。
「生きていくよ」
僕は立ち上がり、涙を拭った。
胸に手を当てると、そこには栞の記憶とともに、力強く脈打つ僕自身の鼓動があった。
世界の中心で叫んだ僕の愛は、風に乗って、きっと今も空のどこかを旅している。栞のいる場所を目指して。




