風の街にて
紅の塔の影を離れ、レオンの旅が始まる。
ハートの国では「外の世界」を口にすることすら禁じられていた。
けれど、仮面の男の言葉が彼の中に小さな灯をともした。
はじめて見る風、知らない空気、聞いたことのない音。
レオンが辿り着いたのは、“風の国”クローバー。
そこでは、人々が穏やかに暮らし、風がすべてを調える。
――だが、その風の向こう側には、別の“秩序”が息をひそめていた。
馬車がきしむたび、積み荷が小さく跳ねた。
木箱のぶつかる音と、馬のひづめが土を叩くリズム。
その合間に聞こえるのは、風のざわめき――まるで遠くから歌が聞こえるようだった。
レオンはそっと布のすき間を開け、外をのぞいた。
そこには、今まで想像したこともない光景が広がっていた。
果てしない草原。
朝日を反射して光る露の粒。
白い鳥が群れをなして飛び、地平線の向こうに雪をかぶった山々が連なっている。
「……これが、外の世界……」
思わずつぶやく。
胸の奥が熱くなり、知らず笑みがこぼれた。
塔の影ばかり見てきた自分が、いま初めて世界の光を見ている。
その事実だけで、何もかもが変わったように思えた。
だが、夜通しの揺れに体は疲れていた。
レオンは荷の中で小さく丸くなり、まぶたを閉じる。
そのとき――胸元の黒いダイスが一瞬、淡く光った。
鼓動に合わせてわずかに脈打ち、すぐに沈黙する。
*
「……おい、坊主」
不意に積み荷の布がはがされ、まぶしい光が差し込んだ。
「うわっ!」レオンは反射的に身を起こす。
そこには、旅装束の男が立っていた。
灰色まじりの髪に、よく日に焼けた肌。
目は細く、にこりと笑っているが、その奥には測り知れぬ冷静さが潜んでいる。
「やっぱり隠れてやがったか。どうりで荷が重いと思ったんだ」
「す、すみません! 僕、ただ……!」
「黙って乗り込むなんざ、勇気あるなぁ。……で、何者だ?」
「ぼ、僕はレオン!」
「レオンね。年はいくつだ?」
「じゅ、十二!」
「出身は?」
レオンの喉がつまる。
「……北のほうです」
男――ゼルは顎に手を当て、ゆっくり笑う。
「北、ねぇ……。じゃあひとつ確かめさせろ」
「え?」
「胸の刻印だ。国の証ぐらいあるだろ?」
レオンが後ずさるより早く、
ゼルの手が襟をつかみ、布を強引に引き裂いた。
「やめて!」
光が差し込む。
レオンの胸に浮かんだのは――緑のクローバーの紋章。
淡く光り、風にゆれるように揺らめいた。
「……ほう?」
ゼルの笑みが止まる。
ほんのわずかに、細い目が開く。
(……おかしい。確かこいつ、ハートの国で荷に紛れたはずだ)
短い沈黙のあと、彼はわざとらしく肩をすくめた。
「ははっ! なんだ、びびらせやがって! てっきり密入国者かとおもったぜ!」
布を戻しながら、レオンの頭を軽く叩く。
「あんまり悪さすんな、わかったな?」
「……はい」
ゼルは口角を上げる。
「ま、せっかくだ、こっち来て座れ」
レオンは驚きながらも、隣に腰を下ろした。
ゼルは手綱を握り、馬を走らせる。
「クローバーの国は“風の国”。
誰もが風の流れに逆らわずに生きる。
お前みたいに勝手なことすると、すぐ風に吹き飛ばされるぞ」
「……風に、吹き飛ばされる?」
「そう。つまり、“消える”ってことだ」
笑っているような声。けれど、冗談に聞こえなかった。
風が吹き抜ける。
レオンは胸元を押さえ、刻印の熱を確かめた。
(……あの光、ダイスの力?)
ダイスは静かに揺れ、何も答えなかった。
*
やがて、緑の国の門が見えてきた。
白い風車が並び、門の上では旗が穏やかに翻っている。
通り過ぎる人々の表情も、どこか柔らかかった。
「ゼル、その子は?」
衛兵が目を細める。
ゼルはいつもの笑顔で肩をすくめた。
「親戚のガキだよ。まったく、荷台に隠れてやがったんだ」
「またか……。お前んとこはいつも騒がしいな」
「仕事柄な。荷も人も運ぶのが性分なんでね」
衛兵は苦笑して手を振った。
「通っていい。ただし、次は気をつけろよ」
「もちろん」
ゼルはレオンの背中を軽く押す。
「ほら行け。もうイタズラすんなよ、坊主」
「……ありがとう」
レオンはぺこりと頭を下げ、門をくぐる。
背後で、ゼルの笑い声が風に混じった。
けれどその目は、笑っていなかった。
「……刻印が変わる。おもしれぇな」
細く呟く声は、風の中に消えた。
*
門を抜けた先――
レオンは思わず立ち止まった。
街が、歌っていた。
風車が音を鳴らし、通りには笛と太鼓の音。
建物は白と緑で統一され、布の飾りが風に揺れている。
香草と焼きたてのパンの匂いが混じり合い、
人々は笑い、肩を並べ、誰もが穏やかな表情をしていた。
「……これが、外の世界……」
胸の奥で、何かがほどけるようだった。
けれど同時に――何かが胸の奥でざらついた。
(この人たち、本当に“自由”なのか?)
笑顔の街。
でも、どこか整いすぎている。
風の流れさえ、決められているように感じた。
それでも、ハートの国の冷たさよりはずっと温かい。
レオンは小さく息を吸い、街の中へと足を踏み入れた。
その背中を、物陰からじっと見つめる黒い影があった。
風が吹き、影が揺れる。
まるで、彼を追いかけるように。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第6話では、ついにレオンがハートの国を離れ、
新たな舞台――クローバーの国へと足を踏み入れました。
今回の見どころは、行商人ゼルとの出会い。
一見おだやかで冗談好きな男ですが、
その細い目の奥には何かを見抜くような冷たさがあります。
そして、レオンの“刻印”が変化するという謎も――
今後、物語の重要な鍵になっていきます。
次回はクローバーの街での生活、
そして新たな人物との出会いが描かれます。
風の国が抱える“調和”の裏側を、少しずつ掘り下げていく予定です。
ブックマークや感想、本当に励みになっています。
物語の風を、一緒に感じてもらえたら嬉しいです。
――TQ.




