光の端
それは、ほんの小さな“違和感”から始まった。
だけどその違和感が、レオンを初めて“世界の外”へ導く。
仮面の男が語る、知られざる国々の話。
数字では測れない、人と人の生き方。
そして――かつて世界を一つにしようとした者の記憶。
レオンはその言葉に心を奪われ、
ガイルは彼の変化に不安を覚える。
ひとつの光が生まれたとき、
その影もまた、静かに動き始めていた。
昼を過ぎると、風が冷たくなった。
街では紅の塔の影が長く伸び、通りの子どもたちがその線を踏まぬように遊んでいた。
だが、塔の影が届かぬ東の丘の向こうには、別の時間が流れている。
レオンは今日もそこへ向かっていた。
森の入り口で立ち止まり、息を整える。
「また来たのか」と言われるだろうなと思いながらも、足は止まらなかった。
*
廃墟の塔は、森の奥の光を受けて淡く輝いていた。
崩れた壁の隙間を抜け、螺旋階段を上がる。
上部の部屋に差す光の中で、仮面の男が筆を走らせていた。
「……また来たのか。」
予想通りの第一声。
だが、レオンの顔を見た仮面の奥の目は、昨日よりも少し柔らかい気がした。
「うん。もっと話が聞きたくて。」
「聞いてどうする。」
「知らないよりは、知りたいんだ。」
男は筆を止めた。紙にインクが一滴落ちる。
「……お前は変わった子だな。」
「よく言われる。」レオンは笑う。
風が窓を鳴らした。塔の中に光が流れ込む。
「この国の外を見たことはあるか?」男が問う。
「ないよ。外は、危ないって言われてる。」
「危ないのは、何も知らない者だ。知っている者は、恐れずに歩ける。」
仮面の奥の声が静かに続く。
「北には、風を“歌”と呼ぶ民がいる。
東には、砂と石の国。数字を“学問”とする。
西の黒い山々では、夜を崇める民が眠りとともに祈る。」
レオンは目を丸くした。
聞いたことのない光景が頭の中に溢れる。
空の色、風の音、土の匂い――想像するだけで胸が熱くなる。
「そんな国が本当にあるの?」
「ある。
……そして、かつてそれらを一つにしようとした者がいた。」
レオンは息をのんだ。
男は視線を窓の外に向けた。
「その者は、数字も国も関係なく、誰もが平等に生きられる世界を夢見た。
だが国はそれを恐れた。秩序が壊れると叫び、その者を“消した”。」
塔の中の風が止まる。
遠くで鳥の鳴く声だけが、薄く響いた。
「……その人、本当にいなくなったの?」
「国がそう言った。だが、真実を知る者は少ない。」
男の声がかすかに震えた。
「この国にはこの国の生き方がある。
それを変えようとすれば、争いが生まれる。
だが――」
男は言葉を切り、ゆっくりと仮面を上げた。
「もし、どの国も、どの民も平等に生きられる世界があるなら。
……見てみたいものだな。」
レオンの胸に光が走った。
「俺も、見てみたい。」
口にした瞬間、世界の空気が変わった気がした。
塔の中に差し込む光が強くなり、
仮面の男の影が床に長く伸びた。
男は小さく笑った。
「そうか。
なら、見えるものを増やせ。
数字の外にも、世界はある。」
その言葉が、レオンの胸に灯をともした。
それは紅の塔の光よりもずっと暖かかった。
*
それから何日も、レオンは塔へ通った。
仮面の男は多くを語らなかったが、時折昔話をした。
数字が生まれる前、人々が自分の“色”で生きていた頃の話。
“価値”ではなく、“声”で自分を示していた時代の話。
それを聞く時間が、レオンにとって一日の中でいちばん好きだった。
*
ある日、街に新しい噂が流れた。
――放浪者が紛れ込んでいる。
誰も見たことがないのに、
兵士たちは刻印を確かめながら巡回を始めた。
「最近、どこ行ってる?」
下校途中、ガイルが低い声で言った。
「散歩だよ。」
「嘘だろ。前より遠くまで行ってる。」
リリアが不安そうに二人の間に立つ。
「レオン、もし変な噂に巻き込まれてたら……」
「巻き込まれてない。」
レオンは笑ったが、声の奥に熱があった。
「でも、もし本当に“放浪者”がいるなら、
話を聞いてみたいと思わない?
数字がすべてを決める国の外で、
人がどう生きてるのか知りたいんだ。」
ガイルは言葉を失った。
その顔に浮かんだものは、怒りではなく、恐れに近かった。
「……危ないことを楽しそうに話すな。」
「危ない? ただ知りたいだけだよ。」
「その“知りたい”で、みんなが困るかもしれないんだぞ。」
レオンは俯いた。
リリアが袖を掴み、何か言いかけたが、
結局、三人の間に言葉は落ちなかった。
*
夕方、塔の上では仮面の男が外を見ていた。
風がざわめき、森の奥で鳥が騒ぐ。
いつもと違う気配――人の匂い。
「もう来るな。」
階段を上がってきたレオンに、男は振り返らず言った。
「どうして。」
「街に噂が出ている。放浪者が潜んでいると。
もし俺のことが知られれば、お前も危険だ。」
「でも、俺は――」
「この国には、この国の生き方がある。
その影を壊そうとする者を、国は許さない。
……帰れ。」
男の声は、悲しみと決意の混ざった音だった。
レオンは唇を噛み、下を向いた。
「また会える?」
返事はなかった。
階段を降りながら、胸の奥に残るのは、
何かを失ったような、けれど確かに何かを得たような感覚だった。
*
それでも、足は塔に向かった。
森の入り口に立ち、見上げる。
塔の窓の灯りが、今日もかすかに揺れている。
その後ろの茂みに、もうひとつの影があった。
ガイルだ。
衛兵志望の少年は、複雑な表情で友を見つめていた。
レオンが裂け目から塔に入っていく。
彼もまた、静かに後を追う。
上階からは微かな声が聞こえた。
――“外の風は、誰のものでもない。”
“でも、見てみたい。”
ガイルの心臓が高鳴る。
その言葉が、恐ろしくも美しく響いた。
(あれが……放浪者。)
決定的だった。
しかし足は動かない。
そのとき、昼間に耳にした上級民の声が頭をよぎった。
――「放浪者を見つけた者、秩序を守った者には、推薦状が送られる。」
衛兵になる者にとって、それは名誉であり、夢への近道だった。
(推薦……)
胸の奥がざわめいた。
もし今ここで報告すれば、自分の道は確実に開ける。
兵士になる。それは子どもの頃からの夢。
けれど――その夢の先に、レオンのいない未来が浮かんだ。
「……どうする、俺。」
声にならない言葉が喉で揺れた。
森の風が木々を叩き、塔の影を揺らす。
階段を降りる足音。レオンの横顔が見える。
その瞳には、燃えるような光があった。
危うくて、まぶしい。
自分には持てない光。
そんなレオンの表情を見た時、
ガイルの中で何かが静かに崩れた気がした。
森の夜が深まる。
紅の塔の光が遠くでちらつく。
その隙間に、誰も知らない“光の端”が、
静かに揺れていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第3話「光の端」では、レオンが初めて“外の世界”という希望に触れ、
そしてガイルが“秩序”と“友情”のあいだで揺れ始めました。
仮面の男の語る過去は、ただの昔話ではなく、
この世界の奥に眠る“何か”の始まりです。
数字に縛られた国の中で、
レオンの心に芽生えた光はまだ小さい。
けれどその光が、誰かの影を動かしていく。
次回、第4話では――
ガイルの選択が、物語を思いがけない方向へ進めていきます。
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