禁忌の書
禁忌の書、それは世界の均衡を破壊し、破滅へと導く力を持つ。
人はその危険な力を恐れ、魔族は己の存在を脅かすものとして忌み嫌った。
この書物を勇者が用いれば、魔王を殲滅することはたやすい。また、逆に魔王が手にすれば、人間を支配することも容易だろう。
だが、それほど甘美な果実が、なぜ忌み嫌われるのか?
その理由を知ることはすなわち、自らの終焉を招くことにほかならない。
人として、魔族として生きることを終わらせる書物。それが禁忌の書なのだ。
永遠に続くと思われていた人間と魔族の大戦は、突如現れた禁忌の集団によって、その均衡を大きく崩された。
彼らの存在は、長きにわたる戦争の構図を一変させ、人間と魔族のどちらにも恐怖と混乱をもたらした。
禁忌の集団――それは、どの陣営にも属さず、ただ禁忌の力を振るう異端の存在だった。
ここは人間の住む国家、グランヴァルディア。四方をそびえ立つ巨大な城壁で囲まれ、その威容は遠くからでも目に入る。
この国は強大な国力を誇り、他の国々と比較しても圧倒的な優位に立つ存在だった。
グランヴァルディアの城壁には、巨大な大筒がずらりと並び、その鋼鉄の砲口は常に外敵に向けられている。監視塔には精鋭の兵士が常駐し、敵が攻め寄せてきた場合には即座に対応できるよう、厳重な警備が敷かれていた。
塔の隣には武器庫があり、ロングソードや弓矢、さらに鎧が潤沢に揃えられている。万全の備えを誇るこの国家には、隙がないように見える。
だが、それでも警戒を怠ることはない。
城壁の内側にも間者の存在を警戒し、昼夜を問わず数名の兵士が影のように目を光らせている。その目は一瞬たりとも緩むことなく、間者を捕らえるための網を張り巡らせていた。
そんな平時にもかかわらず、厳戒態勢が敷かれている状況に、住民たちの不安は日々募っていく。
しかし、それも無理からぬことだった。彼らが怯えているのは、単なる外敵の侵略ではない。
その恐怖の根源は、禁忌の集団と呼ばれる異端者たちだった。
「おい、聞いたかよ!また隣国のカリヴィスでアポクリフの一団が出現したらしいぞ。なんでも献金が足りねえとかで揉めたらしいんだ。」
「マジかよ。それで、どうなったんだ?」
「結果なんざ想像つくだろ。あそこは小国だ。多数の死傷者が出たに決まってる。」
「そりゃ、そうだな。下手すりゃ、そのうちあそこはアポクリフの占領下になるかもしれねえな。」
「ああ、そうなる可能性は高い。この国だって今はまだ平和だけど、何がきっかけで戦争が始まるかわかったもんじゃない。」
「いやいや、大丈夫だろ。この国には腕利きの勇者様がごまんといるんだからよ。そいつらに任せておけば、治安なんざ余裕で保たれるさ。」
昼間から酒を飲む二人の客が、のんきに談笑を続けている。
「あーあ、俺も魔喰らいの剣士にでもなってりゃ、今頃他国で豪遊できたってのによ。」
「おい、下手なこと言うな!そんな話、他の奴に聞かれたらどうする気だ?酒が入ってるからって、もう少し節度を保って喋れ。兵士に取り押さえられるぞ。」
一人は髪を後ろで一つに束ねた中年男。薄汚れた上着と、くたびれた革靴が酒場の薄暗い床とよく馴染んでいる。無精ひげを撫でながら、口角を上げて薄く笑っている様子は、軽薄そうに見えるがどこか狡猾な印象を与える。
もう一人は、がっしりとした体格に粗い麻のシャツを羽織った壮年男。浅黒い肌に刻まれた傷跡が、かつて戦場で活躍した過去を物語っている。笑いながらも、その目だけはどこか冷徹な光を帯びていた。
「あぁ、悪ぃ悪ぃ。この国じゃ禁句だもんな。おい、マスター、ビールおかわりだ!」
「……だが、よく考えりゃ、俺らも奴らと大して変わらねえかもしれねえな。」
「そうだぞ、俺たちはこの国じゃ上級階級だ。昼間っから酒を飲んでたって誰にも咎められねえんだからな。ガハハハッ!」
彼らの高笑いがお店中に響き渡る。しかし、それを注意する者など、この店には一人としていない。
その理由は単純だ。この酒場は、今や彼らの貸し切り状態だからだ。
店の外には、鎧をまとった剣士が数名、見張り役として立ち尽くしている。その威圧感に逆らえる者などいるはずもない。加えて、元々店内にいた客は全員追い出されている始末である。
つまり、この店において、彼らはまさしく王のような存在だった。
そんな愉悦の空間に水を差すように、一人の見張りの剣士が恐る恐る彼らに近寄った。
「あぁ、なんだよ?お前、ちゃんと見張りしとけって言っただろ!」
中年の男が苛立ちを隠さず声を荒らげる。
見張りの兵士は、顔を俯けながら首を垂れた。
「申し訳ありません。外で待機していたところ、バルトン様に面会を申し出る者が現れたため、確認を……」
「面会者?国の管轄の者か?」
「いえ、そうではないようです。」
「だったら、会う気はさらさらない。今は楽しい時間だってのに、そんなのに付き合ってられるか!適当にあしらって追い返せ。」
「ですが……」
「まだ俺に口答えする気か?言ってみろよ。場合によっちゃ、お前の首が飛ぶこともあるんだぞ。」
「………」
「なんだよ、そのだんまりは。」
見張りの兵士は一瞬逡巡した後、小さな声で言った。
「……その人物は、自らを終末の狂戦士と名乗っております。」
「なんだと……」
バルトンと隣に座る壮年の男の表情が一気に曇った。
彼らは「終末の狂戦士」と名乗る人物に心当たりがあった。それは、彼らにとって忌むべき存在であり、恐怖そのものだった。
やがて、その人物が店内に足を踏み入れる。
見たところ、年齢は20歳ほどだろうか。黒髪に青い瞳が印象的で、茶色のローブを身に纏っている。そのローブの隙間からは、漆黒の鎧がわずかに覗き、不気味な光沢を放っている。
「突然訪れてすまなかったな、バルトン。取り込み中だったか?」
低く落ち着いた声が響き渡る。その声には、若さに似合わぬ威圧感が宿っていた。
「い、いえいえ、滅相もございません。今日はお休みをいただいておりまして……」
バルトンの声はかすかに震えていた。
「ほう、そうか。」
彼は少し目を細め、周囲を見回す。そして軽く肩をすくめて言った。
「だが、昼間から酒に興じるとは、感心しないな。」
「もし、ここにアポクリフがやってきたとしたら、バルトン、お前ならどうする?」
狂戦士と名乗る男が、静かに問いかけた。その声には冷たさと威圧感が混じり合っている。
「わ、わたくしでしょうか……? そうですね……、力では到底敵わないと思いますので、上手く懐柔、いや、命を乞うでしょうね。」
バルトンは額に汗を浮かべながら答えた。その声は微かに震えていたが、何とか取り繕おうとしている様子が伺えた。
「フフッ、お前らしい回答だな。」
男は微笑むと、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「だが、俺はお前のそういうところを気に入っている。」
「ありがたき幸せです……。」
バルトンは慌てて頭を下げる。その動作は、どこか怯えと忠誠が入り混じった複雑なものだった。
狂戦士と名乗る男は、彼らのテーブルに腰を下ろすと、軽くバルトンの肩を叩いた。その力強い仕草に、バルトンの体がわずかに揺れる。
「さて、本題に入ろうか。」
「はい、なんでしょうか?」
バルトンは恐る恐る顔を上げた。だが、その目は狂戦士と名乗る男の表情をうかがうように怯えている。
「お前に頼みたいことがある。お前のところの娼婦を2、3人借りたい。」
「はぁ、それはまたどういう風の吹き回しで?ロザルド様が女遊びをするとは思っておりませんでしたが……。」
「いや、俺はそういうことには興味はない。ただ、新たなアポクリフが現れたと聞いた。そいつらを引き抜くための材料として利用できればと思ってな。」
「なるほど……ロザルド様が仰るのであれば、私はそれに従うのみです。」
男は苦い笑みを浮かべながら、ゆっくりと頭を下げた。その表情には、完全に納得しているというよりも、抗えない圧力を受け入れた者の諦めが滲んでいる。
「明日までに美麗な娼婦を数名用意いたしましょう。」
「話が早くて助かる。」
「ですが、あくまでそれらは私の大切な商売道具です。できれば死なせたり、酷い扱いをするようなことは控えていただきたい。」
「もちろんだ。俺は君の商売道具を粗末に扱うような真似はしない。安心してくれ。」
「それを聞けて安心しました。」
ロザルドは革袋を取り出すと、中から数枚の金貨を取り出し、テーブルに放った。その音が静かな酒場の空間に響く。
「ロザルド様、そのようなお心遣いは恐縮でございます。金品はお受け取りできません。」
「何を言う?これはお前と俺との信頼の証だ。だから受け取れ。それとも魔喰らいの武器でも欲しかったか?お前には世話になっている。希望するなら、そっちを分け与えてやらんこともないぞ。」
男は一瞬言葉を失った。ロザルドの提案は、あまりにも現実離れしていたからだ。魔喰らいの武器――それは禁忌の力を宿した者たちが用いる異形の代物であり、その存在を耳にするだけで恐怖を抱く者も少なくない。
「い、いえ……滅相もございません!ロザルド様のお気持ちだけで十分でございます。」
男は慌てて頭を下げながら断った。その声には焦りと恐れが混じり、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「そうか。」
ロザルドは軽く肩をすくめながら笑ったが、その笑みはどこか冷徹なものだった。彼の手が革袋の中に伸びる。その仕草に男は思わず息を飲む。
「まぁ、せっかくだ。お前にも少しだけ、この武器を見せてやろう。」
「アームズサモン!」
ロザルドが力強く言葉を発すると、突如その右手に煌々とした光が差し込む。その光は空間を切り裂くように螺旋を描きながら収束し、やがて形を成していった。
ロザルドの手に握られていたのは、一振りの異様なロングソードだった。
その刃は深い闇を湛えたような黒色をしており、表面からは黒い靄のようなオーラが立ち上っている。刃全体に独特な反りが加わっており、通常の剣とは一線を画す不吉な形状だ。その鋭利な刃先は、見る者に触れることすらためらわせるほどの威圧感を放っている。
柄の部分には暗紅色の宝石が埋め込まれており、それがかすかに脈動しているように見える。その光は生きているかのようで、剣全体がまるで意思を持つかのような錯覚を与えていた。
「ひえーっ!」
壮年の男は恐怖に駆られ、椅子から転げ落ちた。その顔は蒼白で、まるで血の気が引いたようだ。一方、バルトンも顔を蒼ざめさせ、額から汗がぽたぽたと滴り落ちている。
「ロ、ロザルド様! 今ここで魔喰らいの武器を出されても困ります!この国では魔喰らいの武器は穢れ人の武具として扱われており、それを所持することは処罰の対象となるのです。ですので、どうか、どうかお収めください!」
ロザルドは剣を軽く振り、黒い靄が周囲に漂うのを眺めながら、にやりと笑った。
「何だ、いいのか?こんなおいしい贈り物を断るとはな。グランヴァルディアにも闇市の一つや二つは存在するだろう?そこでこの武器を売れば、相当な額になるぞ。それでも要らないのか?」
「……確かに、それは非常に魅力的です。ですが、ここ最近、この国では勇者の手によって裏組織が弱体化しています。闇市も今では影を潜めている状態です。それに、万が一、この現物を当局に抑えられでもしたら、私の首は胴体と別れることになるでしょう。」
「そうだったか……」
ロザルドは剣を見つめながら、軽くため息をついた。その瞳にはわずかな苛立ちが浮かぶが、すぐに諦めたような色に変わる。
「それはすまなかったな。お前はアームズサモンを使えなかったな。もし、この武器を隠すことができないなら、お前にとっては確かに毒にしかならない。」
彼は剣を握り直すと、再び「アームズヴェイル!」と呟いた。途端に剣は黒い靄とともに消え去り、その場には何も残らなかった。
「これで満足か?」
ロザルドは静かに言い放つと、椅子に腰を下ろし、テーブルに指先を軽く叩きつけながらバルトンを見やった。その視線は、まるで試すような鋭さを帯びていた。
「は、はい。ロザルド様のご理解に感謝いたします……。」
「それにしても、この国にも勇者様とやらが台頭してきたか。」
ロザルドは椅子に深く座り直しながら、軽く鼻を鳴らした。その目は遠くを見つめるようで、どこか楽しげでもあった。
「今回の任務が終わったら、一度腕ならしに一戦してみるのも面白そうだな……。」
その言葉に、バルトンは思わず息を飲んだ。勇者と戦う――その発言は、グランヴァルディアで生きる者にとってあまりに大胆であり、常識外れだった。だが、ロザルドにはそんな常識など通用しない。
「バルトン、確かお前の所は情報屋もやってたよな?」
「え、ええ。」
「なら、話は早い。」
ロザルドの唇が微かに笑みを形作る。その笑みには、圧倒的な自信と底知れぬ好奇心が滲んでいた。
「明日、娼婦と一緒にビンゴブックも持ってこい。旅の矜恃にはちょうどいい。」
「ビンゴブック……ですか?」
「そうだ。」
ロザルドは軽く頷く。
「奴ら――勇者どもに関する情報をまとめたものだろう?悪党たちが勇者を始末するために集めた名簿があると聞いた。この国にもそれくらいのものは流通しているはずだ。」
「……確かに、それは存在します。では、明日の出立までに準備をしておきます」
「ふっ……また、面白くなりそうだな。」
ロザルドは立ち上がり、ゆっくりと酒場の外を見やった。その背中から放たれる圧迫感は、彼がただの男ではないことを周囲に知らしめるのに十分だった。